廖化とは? わかりやすく解説

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廖化Liao Hua

リョウカ
レウクワ

(?~264
右車騎将軍・仮節・領幷州刺史中郷

字は元倹襄陽郡中廬の人《宗預伝・襄陽記》。もとの名を「廖淳」といい、「廖敦」とするのは誤りである《宗預伝・明帝集解》。廖氏は代々、沔南地方でも筆頭名族であった襄陽記》。

廖化は前将軍関羽主簿務めていて、関羽敗死したため呉に所属したものの、先主劉備)の元へ帰りたく思っていた。そこで自分死んだ人々思い込ませ、老母抱えて昼も夜も歩いて西へ向かった。ちょうど先主東征軍起こしていたので秭帰遭遇した先主大層喜んで廖化を宜都太守任命する宗預伝》。決戦臨んで、大督馮習の元で別働隊務めた陸遜伝》。

先主崩御する丞相諸葛亮参軍となり、のちに督広武任じられた《宗預伝》。蔣琬諸葛亮から茂才推挙されると、固辞して廖化らに譲っている《蔣琬伝》。

廖化は陰平太守となり、景初二年(二三八)九月、守善羌侯である宕蕈の陣営攻撃した。魏の雍州刺史郭淮は広魏太守王贇・南安太守游奕に軍勢預け、山の東西から廖化を挟み撃ちさせた。魏の明帝は「軍隊というものは分散避けるものだ」と言い郭淮に「別働隊のうち必要でない者は引き揚げ要地守らせるよう游奕に伝えよ」と勅命下した。その詔勅届かぬうち、廖化は游奕軍を打ち破り、王贇は流れ矢当たって死んだ明帝紀》。

延煕十一年(二四八)、姜維は石営に進出、彊川を通過して西方向かい羌族の治無戴を出迎えた。廖化は成重山に留まって城を築き羌族たちから人質取り立てる。魏の郭淮諸将反対押し切って軍勢二手分け夏侯霸には沓中へ姜維を追わせ、自分諸軍率いて廖化を攻撃した姜維引き返して廖化を救援し北征未発終わった郭淮伝》。

十二年秋、姜維はまた北方進出した郭淮阻まれ撤退した郭淮勝利乗じて羌族攻撃するため西方へ出かけた隙を突き三日後、廖化が軍を返して白水南岸布陣して鄧艾対峙した。もともと廖化が鄧艾釘付けにして姜維東進して洮城を奪取する計画であったが、鄧艾見抜かれ姜維が洮城に着いたころにはすでに鄧艾引き返して籠っていた《鄧艾伝》。

廖化は次第昇進して右車騎将軍・仮節・領幷州刺史となり、中郷侯に封ぜられる果断激烈をもって称えられ官位張翼同等宗預より右であった宗預伝》。廖化が張翼とともに大将になったとき、人々は「前に王・句あり、後に張・廖あり」と語り合った華陽国志》。

『華陽国志』後主志は「大将」とし、『三国志』王平伝は同じ文を引用して大将軍」とする。廖化は大将軍になったことがなく、『華陽国志』正しい。

諸葛瞻朝政統括することになったとき、廖化は宗預屋敷訪ねて諸葛瞻挨拶し行こう誘ったが、「吾らは七十歳越えて望むことは一日でも死を遅らせることのみ。年少の輩に何を望んでこせこせ訪問せねばならんのだ」と断られている《宗預伝》。

景耀五年(二六二)、姜維軍勢率いて狄道進出したとき、廖化は言った。「戦いはやめなければ必ず我が身を焼くことになる(『左伝』)。それは伯約姜維)のことだ。智略は敵に勝らず、力量も賊に劣っているのだから、それを飽くまで仕掛け続けたとしても、どうやって成功させられようか?『詩経』に、我より先んじず我より後れず、というのは今日のことだ」《宗預伝》。

六年夏、魏の征西将軍鄧艾鎮西将軍鍾会大軍催して侵攻してきた。姜維上表して援軍要請後主劉禅は廖化を姜維元へ派遣して支援させる一方張翼董厥陽安関へ派遣した。しかし鍾会軍は張翼らが到着する前に陽安関を陥落させたので、姜維・廖化は陰平放棄して張翼とともに剣閣籠った。姜維らが鍾会対峙している隙を突いて鄧艾迂回して成都迫ったので、劉禅降服した鄧艾鍾会後主姜維伝》。姜維・廖化らは成都引き返そうとしたが、鍾会軍に包囲され全軍降服した鍾会伝》。

咸煕元年(二六四)春、宗預とともに洛陽移住することになったが、道中病気のため卒去した《宗預伝》。

参照】王贇 / 王平(王) / 夏侯霸 / 郭淮 / 関羽 / 姜維 / 句扶(句) / 諸葛瞻 / 諸葛亮 / 鍾会 / 蔣琬 / 宗預 / 曹叡明帝) / 治無戴 / 張翼 / 宕蕈 / 董厥 / 鄧艾 / 馮習 / 游奕 / 劉禅 / 劉備 / 陰平郡 / 魏 / 宜都郡 / 彊川 / 剣閣 / 呉 / 広魏郡 / 広武 / 秭帰県 / 襄陽郡 / 成重山 / 成都県 / 石営 / 中郷 / 中廬侯国 / 狄道県 / 沓中 / 洮城 / 南安郡 / 白水 / 幷州 / 沔南 / 陽安関 / 雍州 / 洛陽 / 右車騎将軍 / 仮節 / 郷侯 / 参軍 / 刺史 / 守善羌侯 / 主簿 / 丞相 / 征西将軍 / 前将軍 / 太守 / 大将 / 大督 / 鎮西将軍 / 督 / 茂才 / 詩経 / 羌族


廖化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/15 04:53 UTC 版)

廖 化(りょう か)は、中国後漢末期から三国時代の武将。元倹。元の名はとも書かれる)。荊州襄陽郡中廬県の人。『三国志蜀書宗預伝中にまとまった記載がある。


  1. ^ a b c d 『三国志』宗預伝付廖化伝
  2. ^ 『三国志』蔣琬伝
  3. ^ 『三国志』明帝紀
  4. ^ 『三国志』郭淮伝
  5. ^ 華陽国志』劉後主志
  6. ^ 『三国志』鄧艾伝
  7. ^ 『華陽国志』劉後主志
  8. ^ 『三国志』宗預伝
  9. ^ 『三国志』宗預伝付廖化伝注『漢晋春秋』
  10. ^ 『三国志』姜維伝
  11. ^ この逸話を受けて、中国では人材に乏しい状況を嘆く意で「蜀中に大将なし。廖化を先鋒にする(蜀中無大将、廖化作先鋒)」という諺がある。


「廖化」の続きの解説一覧

廖化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 21:42 UTC 版)

三国志 (横山光輝の漫画)」の記事における「廖化」の解説

漢水戦い荊州戦い北伐など随所活躍する。しかし北伐時には司馬懿取り逃がす失態演じており、孔明をして「将が小粒になった」と蜀の人材不足を嘆かせた。孔明亡き後の魏による蜀侵攻時にも、姜維とともに剣閣魏軍食い止めた武将として、名前だけ登場する

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「廖化」を含む「三国志 (横山光輝の漫画)」の記事については、「三国志 (横山光輝の漫画)」の概要を参照ください。


廖化(りょう か、字・元倹)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:12 UTC 版)

蒼天航路」の記事における「廖化(りょう か、字・元倹)」の解説

漢中争奪戦時に初登場。元は侠。樊城攻防戦では、呂蒙荊州南郡占拠関羽知らせるために、単身三日三晩渡り逃亡劇を繰り広げる。しかし、先回りしていた孫皎の虎燕拳により倒された。

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「廖化(りょう か、字・元倹)」を含む「蒼天航路」の記事については、「蒼天航路」の概要を参照ください。

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