陰平郡とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 陰平郡の意味・解説 

陰平郡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/15 16:00 UTC 版)

陰平郡(いんぺい-ぐん)は、中国にかつて存在した三国時代から唐代にかけて、現在の甘粛省隴南市一帯に設置された。

概要

後漢広漢属国を前身とした。広漢属国は益州に属し、陰平道・甸氐道・剛氐道の3城を管轄した[1]

晋書』地理志によると224年建興2年)、蜀漢により広漢属国を改めて陰平郡が立てられたとするが、『晋書』より300年ほど前に編纂された『華陽国志』によると後漢永平年間の後、族が数度、反乱を起こし、郡が置かれることになったとされる。また後漢の安帝年間に張翕が陰平太守に任命されたとある。

が蜀漢を平定して梁州が置かれると、陰平郡は梁州に転属した。

269年泰始5年)、秦州が立てられると、陰平郡は秦州に転属した。西晋のとき、陰平郡は陰平平武の2県を管轄した[2]

永嘉末年、陰平郡太守の王鑑が粗暴だったため、郡民の毛深や左騰らによって追放され、陰平郡は李雄に降った。陰平郡は陰平・甸氐武平剛氐の4県を管轄した[3]

南朝宋のとき、北陰平郡南陰平郡が立てられた。永初年間、北陰平郡は陰平・綿竹・平武・資中・冑旨の5県を管轄した。464年大明8年)、北陰平郡は梁州に属し、陰平・平武の2県を管轄した。永初年間、南陰平郡は陰平県のみを管轄した。464年、南陰平郡は梁州に属し、陰平・懐旧の2県を管轄した[4]。また北陰平郡は益州に属して陰平・南陽・桓陵・順陽の4県を管轄し、南陰平郡は益州に属して陰平・綿竹の2県を管轄したともいう[5]

南朝斉のとき、北陰平郡は梁州に属し、陰平・平武の2県を管轄した。南陰平郡は梁州に属し、陰平・懐旧の2県を管轄した。また北陰平郡は益州に属して陰平・南陽・北桓陵・扶風・慎陽・京兆・綏帰の7県を管轄し、南陰平郡は益州に属して陰平・綿竹・南鄭・南長楽の4県を管轄したともいう[6]

西魏のとき、尉遅迥の南征により蜀が占領されると、北陰平郡は竜州に転属した。ほどなく北陰平郡は竜安郡と改められた。

北周のとき、竜安郡は静竜郡と改められた。南陰平郡は南陰平県に降格された。

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、静竜郡は廃止されて、始州に編入された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、始州が普安郡と改称された。普安郡は普安永帰黄安・陰平・梓潼武連臨津の7県を管轄した[7]618年義寧2年)、武都郡曲水県に陰平郡が置かれた。

武徳年間、唐により陰平郡は文州と改められた。742年天宝元年)、文州は陰平郡と改称された。758年乾元元年)、陰平郡は文州と改称され、陰平郡の呼称は姿を消した[8]

脚注

  1. ^ 後漢書』郡国志五
  2. ^ 晋書』地理志上
  3. ^ 華陽国志』漢中志
  4. ^ 宋書』州郡志三
  5. ^ 宋書』州郡志四
  6. ^ 南斉書』州郡志下
  7. ^ 隋書』地理志上
  8. ^ 旧唐書』地理志四



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「陰平郡」の関連用語

1
34% |||||

2
18% |||||

3
14% |||||

4
14% |||||

5
14% |||||

6
14% |||||

7
14% |||||

8
14% |||||


10
12% |||||

陰平郡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



陰平郡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの陰平郡 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS