蜀漢
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蜀漢(しょくかん/しょっかん、221年 - 263年)は、中国の三国時代に劉備[注釈 1]が巴蜀の地(益州、現在の四川省・湖北省一帯および雲南省の一部)に建てた国。
注釈
出典
- ^ a b 『三国志』蜀志二「先主伝」
- ^ 『三国志』蜀志「楊戯伝」にある『季漢輔臣賛』より。
- ^ 『三国志』蜀志四「劉璿伝」裴松之注、孫盛『蜀世譜』。
- ^ 柿沼、2018年、P176・189-194.
- ^ 柿沼、2018年、P178-179.
- ^ 柿沼、2018年、P180-181.
- ^ 柿沼、2018年、P184-186.
- ^ 柿沼、2018年、P187-188.
- ^ 柿沼、2018年、P201-202.
- ^ 柿沼、2018年、P225-226.注(82)・(85)
- ^ 柿沼、2018年、P187-189.
- ^ 柿沼、2018年、P193-198.
- ^ 柿沼、2018年、P198-203.
- ^ 『華陽国志』七巻
- ^ 柿沼、2018年、P203-204.
- ^ 柿沼、2018年、P205-208.
- ^ 柿沼、2018年、P208.
- ^ 『諸葛亮・北伐軍団の組織と編成について』、石井仁、1990
- ^ 『三国志』巻四十、李厳伝、注引『公文上尚書』
- ^ 中村圭爾「魏蜀正閏論の一側面」『六朝政治社会史研究』(汲古書院、2013年)P441-459
蜀漢
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「三国志 (北方謙三)」の記事における「蜀漢」の解説
劉備(りゅうび) 漢の中山靖王の裔。漢王朝を建て直すことで、尊き不可侵の血統として「国家秩序の象徴」とする志を抱き、義弟関羽、張飛と共に乱世に身を投じる。用兵に巧みで、男の約束は貫徹する好漢。穏やかな物腰で徳の将軍と称えられてはいるが、内には激情を秘め、ときに苛烈な行動に出る過激さを併せ持つ。史実同様、大きな耳の偉丈夫として描写されている。 関羽(かんう) 劉備の義弟。天下に鳴り響く豪傑であり、篤実で武人の誇りを持つ男。部下の不正を許さず、荊州で善政を敷く。自分の元で部将が育たないことを密かに悩んでいた。 張飛(ちょうひ) 劉備の義弟。実直で心優しい豪傑であるが、劉備の「徳の将軍」という声望に傷をつけないよう、酒乱の乱暴者というイメージを表に出し、進んで泥をかぶる役を演じる。後に蜀漢軍の伝統となる厳しい調練(死者も出る)の基礎を築く。呂布の黒騎馬隊を手本とした張飛の騎馬隊は、劉備軍では最強を誇る。内に秘めた優しさ故に、義兄関羽の戦死、そして愛妻董香を喪うという相次ぐ衝撃によって生じた心の隙を、呉の謀臣張昭に衝かれ暗殺される。張飛の野戦料理は、蜀漢軍の伝説となる。 董香(とうこう) 本作独自の人物。劉表領西城守将、董陵の娘で張飛の妻。男勝りで長身、秀でた眉に強い眼光の持ち主。故郷の新野では「じゃじゃ馬」として鳴らしており、剣の腕は並の兵では敵わないほどに立つ。劉備が劉表の客将として新野に駐屯していた時期、張飛が西城へ援軍として行った時、馬(張飛の愛馬となる招揺)を借りたことをきっかけに張飛に見初められる。結婚して以降は張飛を内から支え続ける。呉により拉致されそうになった際、抵抗し奮戦したものの息子の張苞と共に戦死した。 王安(おうあん) 本作独自の人物。張飛の従者。徐州で張飛に拾われた。兵役不適格な小柄の少年だが、張飛夫婦に仕えていくうちに一人の男として武人として成長していく。長坂の戦いでは、董香、趙雲らとともに劉備の妻子の護衛に付き奮戦するが、戦闘中に受けた脇腹の傷により長坂橋を超えたところで力尽きる。張飛、董香夫妻の手によりその場に埋葬された。 趙雲(ちょううん) 常山真定出身の偉丈夫。公孫瓚の部将だった時に、単身で敵からの攻撃を防ぐなど一目おかれる活躍をしその後劉備に惚れ込み仕官を直訴。このときは劉備は自身も内心では登用したいとは思ったものの自分の信念から一年間世間を知り様々な人を見てそれでも自分を気に入ったのなら、また士官しに来いとを諭され、天下行脚の旅に出る。(劉備は内面では他のところに行ってしまうのではないかと心配していたのを漏らした)それでもやはり、帰還後は劉備に仕えさらに劉備軍の重鎮となり、この旅で得た人脈が後々劉備に利することになった。その武勇は張飛 関羽にもまさるとも劣らずと評され、その武勇で様々な将軍を怯えさせた。さらにその人の良さからも周りに好かれた。史実では諸葛亮と親交が深いが、今作ではそのような面はあまり見受けられない。趙雲率いる騎馬隊の素早さから老齢になっても、第一線で活躍をする。作品後半の夷陵の戦いでは、劉備に反対するものの、ギリギリのところ助けに入るなど、作品を通じて義の武将である。 応累(おうるい) 本作独自の人物。蜀の間諜の元締め。劉備の「将来の国の在り方」の志に共感し行動を共にする。年齢不詳で人畜無害そうな小太りの容貌。その後も二人の息子、応真(おうしん)・応尚(おうしょう)も父の間諜部隊を受け継ぎ蜀に仕える。張飛の妻董香が呉に拉致されそうになった際、董香親子を守るべく奮戦の末、死亡する。 諸葛亮(しょかつりょう) 「臥龍」と称される軍師。曹操の手に落ちそうな天下に尻込みし、隆中で生まれた時代が遅いと独りごちていたところ、劉備に請われ、その志に共感し出仕する。そのひらめきから生み出される戦略・作戦は完璧かつ大胆だが、人の心の機微を見る目に欠けており、それがゆえの躓きを幾度も味わう。優れた文官、発明家でもあり携帯可能な小型連弩等の兵器や木牛を開発する。剣の腕も確かであり、劉備軍に合流後の最初の戦いでは趙雲と共に馬を並べて最前線に出たこともある。また、漢中防衛戦では圧倒的多数の曹操軍を前にして己を見失いそうになり劉備に窘められるといったこともあった。 糜竺(びじく) もとは徐州牧陶謙の臣。劉備が徐州に援軍に行った際、一族で劉備に臣従した(妹の燐は劉備の側室)。内政にたけた優秀な文官であり、序盤は劉備軍の参謀として、中盤から後半にかけては駐屯地や占領地の内政基盤を整えるなど目立たないが重要な役割を行った。重要な話をするときには膝が揺れ、さらに緊張すると揺れがとまる、という癖をもつ。弟糜芳の裏切りにより諸葛亮の策戦が崩壊し、荊州の陥落、守将関羽が戦死するという事態が発生すると、怒りと自責の念で憤死してしまう。 陳礼(ちんれい) 本作独自の人物。隆中で逼塞していた諸葛亮に、毎日昼食を届けていた少年。のち諸葛亮について蜀に仕え、張飛の副官となる。張飛の元で鍛えられたこともあり指揮官としても卓越している。張飛の死後、張飛軍を率いて呉軍を追い詰めるが陸遜の謀にかかり戦死する。この夷陵の戦いでは蜀の「人情」を象徴するキーマンとなる。 陳倫(ちんりん) 本作独自の人物。諸葛亮の妻。陳礼とは親戚。 龐統(ほうとう) 「鳳雛」と称される軍師。天才的なひらめきの諸葛亮と対比的に、何事も考えに考え抜いて結論を導く性質。自らの実戦経験のなさを卑下しがちである。成都を陥落させた後は、荊州を預かる関羽の軍師になる予定であったが、攻略戦の最中に流れ矢に当たり戦死。この不慮の死が荊州失陥と関羽の戦死の遠因となる。 徐庶(じょしょ) 流浪の旅人。友人である伊籍に会うため立ち寄った新野城に駐屯していた劉備に、戦略の重要性を説く。志に殉じるよりも自らの人生を大切にする性分であり、のち魏国内に住む母親のもとへと去る。魏に移った後は、才能を意図的に発揮せず、下級官吏として穏やかな生活を送る。 魏延(ぎえん) 荊州長沙太守韓玄の部将。荊州攻略戦の際に韓玄の首を手土産に劉備軍に投降、以降軍内の重鎮として活躍する。その投降の経緯、細かい所作を諸葛亮にしばしば生理的に嫌悪される。 黄忠(こうちゅう) 荊州長沙太守韓玄の部将で弓の名手。劉備軍に投降した後は益州攻略戦や定軍山の戦い等で活躍する。韓玄が討ち取られた後も劉表への忠節を貫き、投降を拒否する忠義の士。 馬良(ばりょう) 劉備軍の幕僚。諸葛亮とのコンビで蜀の民政整備に多大な貢献を果たす。確かな戦略眼も持ち合わせているが、実戦経験に乏しい。 馬謖(ばしょく) 馬良の弟。用兵に天才的な素質を持ち、同年代の部将と較べても抜きん出ている存在として将来を嘱望されるが、その素質ゆえに挫折を知らないことがのちの災いを招くことになる。自分の能力以上のことを行おうとする悪癖があり、劉備はその点に危惧を抱き、臨終の際、諸葛亮に重用しないように警告した。 姜維(きょうい) 魏の校尉だったが、蜀の「志」に共感し投降。以降蜀の若手部将の筆頭として活躍。 王平(おうへい) 忠勇にして謹厳実直な部将。史実通り文盲である。 李厳(りげん) 元劉璋軍の部将。第四次北伐の際に兵站を統括し、諸葛亮の厳命に対して自らの信じる正義を貫いた。 孟達(もうたつ) 新城郡太守。時勢を読む力に長ける変節漢。蜀魏の対立の中、戦略的に重要な位置を占めていく。
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後漢の滅亡後、魏(曹魏)・蜀漢・呉(孫呉)の三国が覇権を争う三国時代となった。このうち蜀漢を建てた劉備は、前漢の景帝の九男である中山靖王劉勝の庶子、陸成亭侯劉貞の直系の末裔 と称した。
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219年 - 221年、劉備は、後漢の「漢中王」を自称した。 「先主」・「後主」は魏を正統とする『三国志』が蜀を正規の皇帝と認めない立場から付けた呼称である。 「懐帝」は、漢を自称した劉淵が名づけた名称。晋においては「安楽思公」。 代数廟号諡号名在位年在位年数1 烈祖 昭烈帝 劉備 221年 - 223年 2年 2 なし 懐帝 劉禅 223年 - 263年 40年
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「三国相国、丞相、司徒の一覧」の記事における「蜀漢」の解説
『三国志』蜀書・先主伝より:「章武元年夏四月,大赦,改年。以諸葛亮為丞相,許靖為司徒。」 代 爵位 姓名 在位年数 在位期間 皇帝 蜀漢丞相(221年-263年) 1 武郷忠武侯 諸葛亮 13年 221年-234年,其中228—229年間以右将軍行丞相事 昭烈帝後主 代行 顕明亭侯 向朗 1年未満 238年 後主
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「三国相国、丞相、司徒の一覧」の記事における「蜀漢」の解説
『三国志』蜀書・先主伝より:「章武元年夏四月,大赦,改年。以諸葛亮為丞相,許靖為司徒。」 代 爵位 姓名 在位年数 在位期間 皇帝 蜀漢司徒(221年-263年) 1 無 許靖 1年 221年-222年 昭烈帝
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