蜀漢とは? わかりやすく解説

しょく‐かん【蜀漢】

読み方:しょくかん

しょっかん(蜀漢)


しょっ‐かん〔シヨク‐〕【蜀漢】

読み方:しょっかん

中国三国の一。正式の国号は漢。後漢滅亡後221年、蜀(四川地方中心に漢の景帝後裔(こうえい)である劉備建てた国。都は成都263年、魏(ぎ)に滅ぼされた。蜀。


蜀漢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/04 13:09 UTC 版)

蜀漢(しょくかん/しょっかん、221年 - 263年)は、中国三国時代劉備[注釈 1]が巴蜀の地(益州、現在の四川省湖北省一帯および雲南省の一部)に建てた国。


注釈

  1. ^ 三国志』蜀志「先主伝」では中山靖王劉勝、『典略』では斉武王劉縯の後裔とするなどの諸説がある。
  2. ^ なお陳寿の蜀志「後主伝」では、呉の皇帝は一貫して「王」と表記している。
  3. ^ 并州、涼州、冀州、兗州は蜀漢が、徐州、豫州、幽州、青州は呉が支配するものとし、司隷は函谷関を境界線として、西は蜀漢、東は呉が占める取り決めをかわした。

出典

  1. ^ a b 『三国志』蜀志二「先主伝」
  2. ^ 『三国志』蜀志「楊戯伝」にある『季漢輔臣賛』より。
  3. ^ 『三国志』蜀志四「劉璿伝」裴松之注、孫盛『蜀世譜』。
  4. ^ 柿沼、2018年、P176・189-194.
  5. ^ 柿沼、2018年、P178-179.
  6. ^ 柿沼、2018年、P180-181.
  7. ^ 柿沼、2018年、P184-186.
  8. ^ 柿沼、2018年、P187-188.
  9. ^ 柿沼、2018年、P201-202.
  10. ^ 柿沼、2018年、P225-226.注(82)・(85)
  11. ^ 柿沼、2018年、P187-189.
  12. ^ 柿沼、2018年、P193-198.
  13. ^ 柿沼、2018年、P198-203.
  14. ^ 華陽国志』七巻
  15. ^ 柿沼、2018年、P203-204.
  16. ^ 柿沼、2018年、P205-208.
  17. ^ 柿沼、2018年、P208.
  18. ^ 『諸葛亮・北伐軍団の組織と編成について』、石井仁、1990
  19. ^ 『三国志』巻四十、李厳伝、注引『公文上尚書』
  20. ^ 中村圭爾「魏蜀正閏論の一側面」『六朝政治社会史研究』(汲古書院、2013年)P441-459


「蜀漢」の続きの解説一覧

蜀漢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 23:00 UTC 版)

三国志 (北方謙三)」の記事における「蜀漢」の解説

劉備りゅうび) 漢の中山靖王の裔。漢王朝建て直すことで、尊き不可侵血統として「国家秩序象徴」とする志を抱き義弟関羽、張飛と共に乱世身を投じる用兵巧みで、男の約束貫徹する好漢穏やかな物腰で徳の将軍称えられてはいるが、内には激情秘め、ときに苛烈な行動に出る過激さを併せ持つ史実同様、大きな耳の偉丈夫として描写されている。 関羽(かんう) 劉備義弟天下鳴り響く豪傑であり、篤実武人誇りを持つ男。部下の不正を許さず荊州善政を敷く。自分の元で部将育たないことを密かに悩んでいた。 張飛ちょうひ劉備義弟実直心優しい豪傑であるが、劉備の「徳の将軍」という声望に傷をつけないよう、酒乱乱暴者というイメージを表に出し進んで泥をかぶる役を演じる。後に蜀漢軍の伝統となる厳し調練死者も出る)の基礎を築く。呂布の黒騎馬隊手本とした張飛騎馬隊は、劉備軍では最強を誇る。内に秘めた優しさ故に義兄関羽戦死、そして愛妻董香喪うという相次ぐ衝撃によって生じた心の隙を、呉の謀臣張昭に衝かれ暗殺される張飛野戦料理は、蜀漢軍の伝説となる。 董香とうこう本作独自の人物劉表西城守将、董陵の娘で張飛の妻。男勝り長身秀でた眉に強い眼光持ち主故郷新野では「じゃじゃ馬」として鳴らしており、剣の腕は並の兵では敵わないほどに立つ。劉備劉表客将として新野駐屯していた時期張飛西城援軍として行った時、馬(張飛愛馬となる招揺)を借りたことをきっかけ張飛見初められる。結婚して以降張飛を内から支え続ける。呉により拉致されそうになった際、抵抗し奮戦したものの息子張苞と共に戦死した王安おうあん本作独自の人物張飛従者徐州張飛拾われた。兵役不適格な小柄少年だが、張飛夫婦仕えていくうちに一人の男として武人として成長していく。長坂の戦いでは、董香趙雲とともに劉備妻子護衛付き奮戦するが、戦闘中受けた脇腹の傷により長坂超えたところで力尽きる張飛董香夫妻の手によりその場埋葬された。 趙雲ちょううん常山真定出身偉丈夫公孫瓚部将だった時に単身で敵からの攻撃を防ぐなど一目おかれる活躍をしその後劉備惚れ込み仕官直訴。このときは劉備自身内心では登用したいとは思ったものの自分信念から一年間世間知り様々な人を見てそれでも自分気に入ったのなら、また士官しに来いとを諭され、天下行脚の旅に出る。(劉備内面では他のところに行ってしまうのではないかと心配していたのを漏らした)それでもやはり、帰還後劉備仕えさらに劉備軍重鎮となり、この旅で得た人脈後々劉備利することになった。その武勇張飛 関羽にもまさるとも劣らず評され、その武勇様々な将軍怯えさせた。さらにその人良さからも周り好かれた。史実では諸葛亮親交が深いが、今作ではそのような面はあまり見受けられない趙雲率い騎馬隊素早さから老齢になっても、第一線活躍をする。作品後半夷陵の戦いでは、劉備反対するものの、ギリギリのところ助けに入るなど、作品通じて義の武将である。 応累(おうるい) 本作独自の人物。蜀の間諜元締め劉備の「将来の国の在り方」の志に共感し行動共にする年齢不詳人畜無害そうな小太り容貌その後二人の息子、応真(おうしん)・応尚(おうしょう)も父の間諜部隊受け継ぎ蜀に仕える。張飛の妻董香が呉に拉致されそうになった際、董香親子を守るべく奮戦の末、死亡する諸葛亮しょかつりょう) 「臥龍」と称される軍師曹操の手落ちうな天下に尻込みし隆中生まれた時代が遅いと独りごちていたところ、劉備請われ、その志に共感し出仕する。そのひらめきから生み出される戦略・作戦完璧かつ大胆だが、人の心の機微見る目欠けており、それがゆえの躓き幾度も味わう。優れた文官発明家でもあり携帯可能な小型連弩等の兵器木牛開発する。剣の腕も確かであり、劉備軍合流後最初戦いで趙雲と共に馬を並べて最前線出たこともある。また、漢中防衛戦では圧倒的多数曹操軍前にして己を見失いそうになり劉備窘められるといったこともあった。 糜竺(びじく) もとは徐州陶謙の臣。劉備徐州援軍行った際、一族劉備臣従した(妹の燐は劉備側室)。内政にたけた優秀な文官であり、序盤劉備軍参謀として、中盤から後半にかけては駐屯地占領地内政基盤整えるなど目立たない重要な役割行った重要な話をするときには膝が揺れ、さらに緊張する揺れがとまる、という癖をもつ。弟糜芳の裏切りにより諸葛亮策戦崩壊し荊州陥落、守将関羽戦死するという事態が発生すると、怒り自責の念憤死してしまう。 陳礼ちんれい本作独自の人物隆中逼塞していた諸葛亮に、毎日昼食届けていた少年。のち諸葛亮について蜀に仕え張飛副官となる。張飛の元で鍛えられたこともあり指揮官として卓越している。張飛死後張飛軍を率いて呉軍追い詰める陸遜の謀にかかり戦死する。この夷陵の戦いでは蜀の「人情」を象徴するキーマンとなる。 陳倫ちんりん本作独自の人物諸葛亮の妻。陳礼とは親戚龐統ほうとう) 「鳳雛」と称される軍師天才的なひらめき諸葛亮対比的に、何事も考え考え抜いて結論を導く性質。自らの実戦経験のなさを卑下しがちである。成都陥落させた後は、荊州を預かる関羽軍師になる予定であったが、攻略戦最中流れ矢に当たり戦死。この不慮の死荊州失陥関羽戦死遠因となる。 徐庶じょしょ流浪の旅人。友人である伊籍に会うため立ち寄った新野城に駐屯していた劉備に、戦略重要性説く。志に殉じるよりも自らの人生大切にする性分であり、のち魏国内に住む母親のもとへと去る。魏に移った後は、才能意図的に発揮せず、下級官吏として穏やかな生活を送る。 魏延(ぎえん) 荊州長沙太守韓玄部将荊州攻略戦の際に韓玄の首を手土産劉備軍投降以降内の重鎮として活躍する。その投降経緯、細かい所作諸葛亮にしばしば生理的に嫌悪される。 黄忠こうちゅう荊州長沙太守韓玄部将で弓の名手劉備軍投降した後は益州攻略戦定軍山の戦い等で活躍する韓玄討ち取られた後も劉表への忠節貫き投降拒否する忠義の士。 馬良ばりょう劉備軍幕僚諸葛亮とのコンビで蜀の民政整備多大な貢献を果たす。確かな戦略眼も持ち合わせているが、実戦経験乏しい。 馬謖ばしょく馬良の弟。用兵天才的な素質持ち同年代部将較べて抜きん出ている存在として将来を嘱望されるが、その素質ゆえに挫折知らないことがのちの災いを招くことになる。自分能力上のことを行おうとする悪癖があり、劉備はその点に危惧抱き臨終の際、諸葛亮重用しないよう警告した姜維きょうい) 魏の校尉だったが、蜀の「志」に共感し投降以降蜀の若手部将筆頭として活躍王平おうへい忠勇にして謹厳実直部将史実通り文盲である。 李厳(りげん) 元劉璋軍の部将第四次北伐の際に兵站統括し諸葛亮厳命に対して自らの信じ正義貫いた孟達(もうたつ) 新城郡太守時勢を読む力に長ける変節漢。蜀魏の対立の中、戦略的に重要な位置占めていく。

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蜀漢

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劉氏」の記事における「蜀漢」の解説

後漢の滅亡後、魏(曹魏)・蜀漢・呉(孫呉)の三国覇権を争う三国時代となったこのうち蜀漢を建てた劉備は、前漢景帝の九男である中山靖王劉勝庶子、陸成亭侯劉貞直系末裔称した

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蜀漢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:50 UTC 版)

中国帝王一覧」の記事における「蜀漢」の解説

219年 - 221年劉備は、後漢の「漢中王」を自称した。 「先主」・「後主」は魏を正統とする『三国志』が蜀を正規皇帝認めない立場から付けた呼称である。 「懐帝」は、漢を自称した劉淵名づけた名称。晋においては安楽思公」。 代数廟号諡号在位年在位年数1 烈祖 昭烈帝 劉備 221年 - 223年 2年 2 なし 懐帝 劉禅 223年 - 263年 40年

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蜀漢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 08:42 UTC 版)

三国相国、丞相、司徒の一覧」の記事における「蜀漢」の解説

『三国志』蜀書先主伝より:「章武元年四月大赦改年。以諸葛亮丞相許靖司徒。」 代 爵位 姓名 在位年在位期間 皇帝 蜀漢丞相221年263年) 1 武郷武侯 諸葛亮 13年 221年234年,其中228229年間以右将軍丞相昭烈帝後主 代行 顕明亭侯 向朗 1年未満 238年 後主

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蜀漢

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三国相国、丞相、司徒の一覧」の記事における「蜀漢」の解説

『三国志』蜀書先主伝より:「章武元年四月大赦改年。以諸葛亮丞相許靖司徒。」 代 爵位 姓名 在位年在位期間 皇帝 蜀漢司徒221年263年) 1 無 許靖 1年 221年222年 昭烈帝

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