国号
読み方:コクゴウ(kokugou)
国の名称。
国号
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国号(こくごう)とは、主に国の称号、あるいは名称のこと[1]。2通りの意味において使用されており、1つは「帝国」、「王国」、「大公国」、「公国」、「首長国(土侯国)」、「共和国(民国)」などの統治体制(政体)を表す部分を含めた国の名称を指す用法であり、もう1つは政体を除いた固有名詞部分のみを指す用法である。
注釈
- ^ 例えば、下関条約では、天皇を「大日本國皇帝陛下」と、本文では「日本國」と、全権弁理大臣の肩書としては「大日本帝國」とそれぞれ表されていた。
- ^ 閣議決定や天皇裁可、帝国議会議決などによるものではない。
出典
- ^ 新村出編 『広辞苑』1983年 岩波書店
- ^ 「日本」呼称、最古の例か 678年の墓誌?中国で発見 - 文化 - 朝日新聞 2011年10月22日
- ^ 遠藤慶太 『六国史 -日本書紀に始まる古代の「正史」』 中公新書 2016年 p.189.
- ^ 大辞林大日本帝国
- ^ 名古屋大学 前野みち子『言語文化研究叢書』 第5号(2006年3月)「日本像を探る」 国号に見る日本の自己意識
- ^ 我国国号問題ニ関スル資料(外務省記録「条約ノ調印、批准、実施其他ノ先例雑件」外務省条約局第一課昭和11年5月 アジア歴史資料センター所収)
- ^ 陳舜臣 『中国歴史シリーズ 中国の歴史(二)』 講談社文庫 1997年 pp.96 - 97.
- ^ 同『中国歴史シリーズ 中国の歴史(二)』 講談社文庫 1997年 p.97.
国号
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「連合国軍占領下の日本」の記事における「国号」の解説
日章旗 日章旗の掲揚禁止を受けて用いられた日本商船管理局旗 明治期以来現在においても日本の国号は法定のものではなく、行政上での慣例に従い記述されているが、明治期から大正期、昭和初期まで大日本帝国を主たる国号とし、1935年(昭和10年)7月より外務省は外交文書上「大日本帝國」に表記を統一していたが、第二次世界大戦後、日本政府が1946年(昭和21年)2月8日に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) に提出した憲法改正要綱に国名を「大日本帝國」のままにしていたところ、2月13日GHQ/SCAPのホイットニーにより、憲法改正要綱の不受理通知とGHQ/SCAP草案が吉田茂外務大臣、松本烝治国務大臣らに手交され、その草案の仮訳からは国名が「日本國」になり、これ以降大日本帝国の国号は使用されなくなり、1947年(昭和22年)5月3日日本国憲法施行により憲法上は日本國の名称が用いられる。
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国号
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正式な国名は、ドイツ革命などの国家の変遷によるReich(ライヒ)の訳の変化にかかわらず一貫してドイツ国(Deutsches Reich)である。後の「ヴァイマル共和政」(1918年 - 1933年)、「ナチス・ドイツ」(1933年 - 1945年)の時代を通じて国名は変わらなかった。そのため、この時代だけを区別する場合は、皇帝を意味するKaiser(カイザー)をつけてDeutsches Kaiserreich(ドイチェス・カイザーライヒ)、ドイツ帝国と表記されることも多い。本項ではヴァイマル共和制およびナチス・ドイツと区別をつけるため「ドイツ帝国」と表記している。 アドルフ・ヒトラーのナチス・ドイツは、プロパガンダによって「第三帝国」という呼称を用いた。この流れでドイツ帝国と称されることもある神聖ローマ帝国をドイツ「第一帝国」とする場合、この国を「第二帝国」と呼ぶこともある。
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国号
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中国の歴史 先史時代 古国時代(三皇五帝) (黄河文明・長江文明・遼河文明) 夏 殷 周(西周) 周(東周) 春秋時代 戦国時代 秦 漢(前漢) 新 漢(後漢) 呉(孫呉) 漢(蜀漢) 魏(曹魏) 晋(西晋) 晋(東晋) 十六国 宋(劉宋) 魏(北魏) 斉(南斉) 梁 魏(西魏) 魏(東魏) 陳 梁(後梁) 周(北周) 斉(北斉) 隋 唐 周(武周) 五代十国 契丹 宋(北宋) 夏(西夏) 遼 宋(南宋) 金 元 明 元(北元) 明(南明) 順 後金 清 中華民国 満洲 中華人民共和国 中華民国(台湾) ベトナムの歴史 文郎国 甌雒 南越 第一次北属期(前漢統治) (徴姉妹) 第二次北属期(後漢・六朝統治) 前李朝 第三次北属期(隋唐・南漢統治) 呉朝 丁朝 前黎朝 李朝 南進↓ 陳朝 胡朝 第四次北属期(明統治) 後陳朝 後黎朝前期 莫朝 後黎朝後期(南北朝) 莫朝(南北朝) 後黎朝後期 (阮氏政権) (鄭氏政権) 西山朝 阮朝 フランス領インドシナ ベトナム帝国 コーチシナ共和国 ベトナム民主共和国 ベトナム国 ベトナム共和国 南ベトナム共和国 ベトナム社会主義共和国 隋という国号(王朝名)は建業者である高祖楊堅の北周時代の爵号である隨国公に因む。楊堅がかつて隨州の刺史に任じられたことで隋朝の名称の由来となった。この隨(国)は地名で現中華人民共和国湖北省随州市に名を遺しているが、唐の時代までは「隨」の略字として辵部(しんにょう、辶)を省いた「隋」と相互に通用され、更にその「隋」から「工」を省いた「陏」の字が用いられることもあり 、その後、おそらくは中唐以降に「隨」と「隋」とは区別されて地名は「隨」、王朝名は 「隋」と固定したようである。その後、高祖楊堅が「隨」字に含まれる辵部に「走る」という字義があって前代迄の寧所に遑なく東奔西走した歴代を髣髴させるためにこれを去り、自らの王朝を「隋」と名付けたとする説、及び辵部には平穏に歩を進める字義がある一方で「隋」には供物としての肉の余りという字義があり、楊堅は改字によって却って王朝の命運を縮めたという附会説も行われ、これが宋朝の儒学者たちの儒教的史観による革命解釈に適合するものとして喜ばれたために、以降はこの楊堅改字説が定説となった。
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国号
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東フランクという語は本来フランケン地方を指し、東フランク人とはライン川以東に住むフランク族を指すものである。より広い意味で「東王国」を指す場合にはルートヴィヒ2世ドイツ人王が新たに立てた王国、すなわち当記事の王国を指す。「東フランク」という言葉はフランク王国中心部の東半分であるアウストラシアと同一視されるものでもあるが、ルートヴィヒ2世が得たのはアウストラシアのさらに東半分に過ぎない。にも関わらずルートヴィヒ2世が自らの王国に「東フランク」と名付けたことはアウストラシア西部であるロタリンギアを奪取する野心を現すものともとれる。実際にルートヴィヒ2世はロタリンギアの東半分をメルセン条約で手に入れ、子のルートヴィヒ3世はリブモント条約で西半分も手に入れた。全アウストラシアが確保されると「東フランク」という国号の価値は下がった。ルートヴィヒ2世の孫であるアルヌルフは一時的にではあるが西フランクに対する宗主権を獲得し、自国を「フランク王国」と呼んだ。ザクセン人であるハインリヒ1世が王になると王権がフランク族の手を離れたため、この国は単に「王国」と呼ばれるようになり、その王も単に「王」とのみ呼ばるようになった。962年にオットー1世がローマ皇帝になると東フランク王国は神聖ローマ帝国の一部となるが、この時点では「王国」と「帝国」との関係は不明瞭であった。 ただし必要に応じて「東フランク」の国号が再び使われることもあった。例えば921年における西フランクとのボン条約でハインリヒ1世は自らを「東フランク王」と称している。「王国」はやがて11世紀以降の叙任権闘争の中で「Regnum Teutonicorum」(ドイツ王国)と呼ばれるようになり、神聖ローマ帝国を構成する三王国(ドイツ、イタリア、ブルグント)の1つとして位置づけられることとなる。12世紀には「東フランク王国」の国号は完全に過去のものとなっており、年代記においても「東フランク王国は今、regnum Teutonicorum(ドイツ王国)と呼ばれている」と書かれている。
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国号
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国号の「唐」は山西省を中心とする地域の古い呼び名で、この地域には古代には堯が建てたといわれる伝説上の王朝「陶唐」があったとされる。また、周の時代には魯の周公旦(武王の弟)が討伐して、滅ぼした唐や武王の子・唐叔虞が立てた晋の別称としての唐とは別に、春秋時代に今の湖北省の一部に唐を国号とする小国があったことが知られ、呉・蔡と盟約を結ぶも、紀元前505年に楚と秦によって滅ぼされた(『春秋左氏伝』)。 本項の唐の滅亡後、五代十国時代には李存勗の後唐、十国のひとつ南唐などが唐の後継者を自認して唐を国号としたこともあった。後唐王家は臣下の朱邪赤心が功績によって李姓を唐王朝から賜った家であり、南唐王家は「唐の憲宗の八男・建王李恪の子孫」を称したが、いずれも唐王朝李氏の直系とはいえない。
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