国号とは? わかりやすく解説

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こく‐ごう〔‐ガウ〕【国号】

読み方:こくごう

国の称号国名


国号

読み方:コクゴウ(kokugou)

国の名称。


国号

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/31 07:45 UTC 版)

国号(こくごう)とは、主に称号、あるいは名称のこと[1]。2通りの意味において使用されており、1つは「帝国」、「王国」、「大公国」、「公国」、「首長国(土侯国)」、「共和国民国)」などの統治体制(政体)を表す部分を含めた国の名称を指す用法であり、もう1つは政体を除いた固有名詞部分のみを指す用法である。


注釈

  1. ^ 例えば、下関条約では、天皇を「大日本國皇帝陛下」と、本文では「日本國」と、全権弁理大臣の肩書としては「大日本帝國」とそれぞれ表されていた。
  2. ^ 閣議決定や天皇裁可、帝国議会議決などによるものではない。

出典

  1. ^ 新村出編 『広辞苑』1983年 岩波書店
  2. ^ 「日本」呼称、最古の例か 678年の墓誌?中国で発見 - 文化 - 朝日新聞 2011年10月22日
  3. ^ 遠藤慶太 『六国史 -日本書紀に始まる古代の「正史」』 中公新書 2016年 p.189.
  4. ^ 大辞林大日本帝国
  5. ^ 名古屋大学 前野みち子『言語文化研究叢書』 第5号(2006年3月)「日本像を探る」 国号に見る日本の自己意識
  6. ^ 我国国号問題ニ関スル資料(外務省記録「条約ノ調印、批准、実施其他ノ先例雑件」外務省条約局第一課昭和11年5月 アジア歴史資料センター所収)
  7. ^ 陳舜臣 『中国歴史シリーズ 中国の歴史(二)』 講談社文庫 1997年 pp.96 - 97.
  8. ^ 同『中国歴史シリーズ 中国の歴史(二)』 講談社文庫 1997年 p.97.


「国号」の続きの解説一覧

国号

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:21 UTC 版)

連合国軍占領下の日本」の記事における「国号」の解説

日章旗 日章旗掲揚禁止受けて用いられ日本商船管理局明治期以来現在においても日本の国号法定のものではなく行政上で慣例従い記述されているが、明治期から大正期昭和初期まで大日本帝国主たる国号とし、1935年昭和10年7月より外務省外交文書上「大日本帝國」に表記統一していたが、第二次世界大戦後日本政府1946年昭和21年2月8日連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) に提出した憲法改正要綱国名を「大日本帝國」のままにしていたところ、2月13日GHQ/SCAPホイットニーにより、憲法改正要綱不受理通知GHQ/SCAP草案吉田茂外務大臣松本烝治国務大臣らに手交され、その草案の仮訳からは国名が「日本國」になり、これ以降大日本帝国の国号は使用されなくなり1947年昭和22年5月3日日本国憲法施行により憲法上は日本國の名称が用いられる

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国号

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 09:32 UTC 版)

ドイツ帝国」の記事における「国号」の解説

正式な国名は、ドイツ革命などの国家変遷によるReichライヒ)の訳の変化かかわらず一貫してドイツ国(Deutsches Reich)である。後の「ヴァイマル共和政」(1918年 - 1933年)、「ナチス・ドイツ」(1933年 - 1945年)の時代通じて国名は変わらなかった。そのため、この時代だけを区別する場合は、皇帝意味するKaiserカイザー)をつけてDeutsches Kaiserreich(ドイチェス・カイザーライヒ)、ドイツ帝国表記されることも多い。本項ではヴァイマル共和制およびナチス・ドイツ区別をつけるため「ドイツ帝国」と表記している。 アドルフ・ヒトラーナチス・ドイツは、プロパガンダによって「第三帝国」という呼称用いた。この流れドイツ帝国称されることもある神聖ローマ帝国ドイツ第一帝国」とする場合、この国を「第二帝国」と呼ぶこともある。

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国号

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/15 00:56 UTC 版)

大西」の記事における「国号」の解説

明末張献忠四川省建てた国の号。西とも

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国号

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 08:55 UTC 版)

「隋」の記事における「国号」の解説

中国の歴史 先史時代 古国時代三皇五帝) (黄河文明長江文明遼河文明) 夏 殷 周西周) 周(東周春秋時代 戦国時代 秦 漢前漢) 新 漢(後漢) 呉(孫呉) 漢(蜀漢) 魏(曹魏) 晋(西晋) 晋(東晋十六国 宋(劉宋) 魏(北魏) 斉(南斉 魏(西魏) 魏(東魏) 陳 (後梁) 周(北周) 斉(北斉) 隋 唐 周(武周五代十国 契丹 宋(北宋) 夏(西夏) 遼 宋(南宋金 元 明 元(北元) 明(南明) 順 後金 清 中華民国 満洲 中華人民共和国 中華民国台湾ベトナムの歴史 文郎国 甌雒 南越 第一次北属期前漢統治) (徴姉妹第二次北属期後漢六朝統治前李朝 第三次北属期隋唐南漢統治呉朝 丁朝 前黎朝 李朝 南進陳朝 胡朝 第四次北属期明統治) 後陳朝 後黎朝前期 莫朝 後黎朝後期南北朝莫朝南北朝後黎朝後期阮氏政権) (鄭氏政権西山朝 阮朝 フランス領インドシナ ベトナム帝国 コーチシナ共和国 ベトナム民主共和国 ベトナム国 ベトナム共和国 南ベトナム共和国 ベトナム社会主義共和国 隋という国号(王朝名)は建業者である高祖楊堅北周時代爵号である隨国公に因む楊堅がかつて隨州刺史任じられたことで隋朝名称の由来となった。この隨(国)は地名で現中華人民共和国湖北省随州市に名を遺しているが、唐の時代までは「隨」の略字として辵部しんにょう、辶)を省いた「隋」と相互に通用され、更にその「隋」から「工」を省いた「陏」の字が用いられることもあり 、その後おそらくは中唐以降に「隨」と「隋」とは区別され地名は「隨」、王朝名は 「隋」と固定したようである。その後高祖楊堅が「隨」字に含まれる辵部に「走る」という字義があって前代迄の寧所に遑なく東奔西走した歴代髣髴させるためにこれを去り、自らの王朝を「隋」と名付けたとする説、及び辵部には平穏に歩を進める字義がある一方で「隋」には供物としての肉の余りという字義があり、楊堅改字によって却って王朝命運縮めたという附会説も行われ、これが宋朝儒学者たちの儒教的史観による革命解釈適合するものとして喜ばれたために、以降はこの楊堅改字説が定説となった

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国号

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 10:05 UTC 版)

東フランク王国」の記事における「国号」の解説

東フランクという語は本来フランケン地方指し東フランク人とはライン川以東に住むフランク族を指すものであるより広い意味で東王国」を指す場合にはルートヴィヒ2世ドイツ人王が新たに立てた王国、すなわち当記事王国を指す。「東フランク」という言葉フランク王国中心部の東半分であるアウストラシア同一視されるものでもあるが、ルートヴィヒ2世得たのはアウストラシアのさらに東半分に過ぎないにも関わらずルートヴィヒ2世が自らの王国に「東フランク」と名付けたことはアウストラシア西部であるロタリンギア奪取する野心現すものともとれる。実際にルートヴィヒ2世ロタリンギアの東半分メルセン条約手に入れ、子のルートヴィヒ3世リブモント条約で西半分手に入れた。全アウストラシア確保されると「東フランク」という国号の価値下がったルートヴィヒ2世の孫であるアルヌルフ一時的にではあるが西フランク対す宗主権獲得し自国を「フランク王国」と呼んだザクセン人であるハインリヒ1世が王になると王権フランク族の手離れたため、この国は単に「王国」と呼ばれるようになり、その王も単に「王」とのみ呼ばるようになった962年オットー1世ローマ皇帝になると東フランク王国神聖ローマ帝国一部となるが、この時点では「王国」と「帝国」との関係は不明瞭であった。 ただし必要に応じて東フランク」の国号が再び使われることもあった。例え921年における西フランクとのボン条約ハインリヒ1世は自らを「東フランク王」と称している。「王国」はやがて11世紀以降叙任権闘争の中で「Regnum Teutonicorum」(ドイツ王国)と呼ばれるようになり、神聖ローマ帝国構成する三王国(ドイツイタリアブルグント)の1つとして位置づけられることとなる。12世紀には「東フランク王国」の国号は完全に過去のものとなっており、年代記においても「東フランク王国は今、regnum Teutonicorum(ドイツ王国)と呼ばれている」と書かれている

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国号

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 15:58 UTC 版)

「唐」の記事における「国号」の解説

国号の「唐」は山西省中心とする地域の古い呼び名で、この地域には古代には堯が建てたといわれる伝説上の王朝「陶唐」があったとされるまた、周の時代には周公旦武王の弟)が討伐して、滅ぼした唐や武王の子唐叔虞立てた晋の別称としての唐とは別に春秋時代に今の湖北省一部に唐を国号とする小国があったことが知られ、呉・蔡と盟約を結ぶも、紀元前505年と秦によって滅ぼされた(『春秋左氏伝』)。 本項の唐の滅亡後五代十国時代には李存勗後唐十国のひとつ南唐などが唐の後継者自認して唐を国号としたこともあった。後唐王家臣下赤心功績によって姓を唐王朝から賜った家であり、南唐王家は「唐の憲宗八男建王李恪の子孫」を称したが、いずれも唐王朝李氏直系とはいえない。

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国号

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名詞

こくごう

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