宋朝とは? わかりやすく解説

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そう‐ちょう〔‐テウ〕【宋朝】

読み方:そうちょう

【一】中国、宋の朝廷また、その時代。

【二】宋朝体」の略。


宋 (王朝)

(宋朝 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/10 04:14 UTC 版)

(そう、拼音 Sòng960年 - 1279年)は、中国王朝趙匡胤五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号はであるが、春秋時代南北朝時代などと区別するため、帝室の姓から趙宋とも呼ばれる。国号の宋は趙匡胤が宋州(現在の河南省商丘市)の帰徳軍節度使であったことによる[1]。通常は、華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。北宋・南宋もともに、宋・宋朝である。首都は開封、南遷後の実質上の首都は臨安であった。


注釈

  1. ^ 法律上は1袋が18斤、茶葉の等級により1等が1斤(約500g)100文・2等90文・3等70文だが、実際は官僚が4~5割を抜取り1袋12~15斤、1等60文・2等47文・3等37文で計算した
  2. ^ 河南府・鳳翔府・同・虢・儀・蘄・黄・袁・英州・興国軍
  3. ^ 晋・磁・鳳・澧・道・渠・合・梅・陝・耀・坊・虔・汀・吉州
  4. ^ 信・鄂・連・建・南剣州・邵武軍
  5. ^ 白地黒掻き落としとは胎土の上に白化粧土を施し、更にその上に黒化粧土を施す、その後で黒化粧土だけを掻き落とすことで模様を描く手法のことである。掻き落とす際に黒化粧土のみを落として白化粧土を落とさない細心の注意が必要となる高度な技術である。黒掻き落としの技法は非常に手間が掛かるため新たに白地に直接描く方法が生まれた。これが赤絵の技法となる。
  6. ^ 10世紀。ギメ東洋美術館所蔵。
  7. ^ 『泊宅編』では日本で生まれた技法と記す。
  8. ^ a b 季節によって変動する不定時制。大体夜11時から朝の4時まで。
  9. ^ 北宋・南宋交代期やモンゴルによる攻撃が強まった時期などは米価も跳ね上がり、1升で340銭という極端な数字が残る。
  10. ^ 太極とは天地万物の理、天地は太極の間にあり、万物は太極の間にある。まず理があり、理が無ければ天地は無く、また万物も無い。理があって気が生じる。宇宙に理が無ければ気も無く、また気が無ければ理も無い、万物は気を以て形作る。気が積もって質となり、性が具わる。理は法則であり、気は実体である、先後は無い。気は理に従い、理は気の中にある。以下略
  11. ^ 宇宙に性の無い物は無い。そこに物が有れば、則ちそこに性がある、物が無ければ、性は無い。人と物の生は、天賦が偏り、固より同じではない。その偏りに従って、清濁昏明の差異がある。物々は運動し、人との違いは無い。しかし、人の仁義礼智は本来の姿であり、物々には無い。そこで改めて人の生を性とする。人の性には明暗通蔽開塞があり、塞者は牢固で開かれず、厚者は開き難く、薄者は開き易い。以下略
  12. ^ 性の人に在っては形有る心を為す。意識すればそこに有り、しなければ見えない。心は性が具体化したもので、本来同一である。全ては理であり、理を天と言い、天賦を性と言う、人々はそれを心と言う。ゆえに性は即ち理であり、所謂理とは性である。
  13. ^ 「所以然」そうであるがゆえに「所当然」そうせねばらならない。「人間としての性」ゆえ(所以然)に、「仁義礼智を実行」せねばならない(所当然)。ということである。
  14. ^ 真宗の代になって翊聖保徳真君と称され像が建てられた。建像は(1014年大中祥符七年であるが、大中祥符という元号もまた道教の影響である。
  15. ^ 1008年、宮殿の屋根に大中祥符なる天人が降した天書(天の書物)が現れたという事件が起こった。これに喜んだ真宗は大中祥符へ改元し、封禅の儀を盛大に執り行なった。この事件は道教に好意的な王欽若と道士が結託し、宋皇室による道教の保護を獲得するため画策したと思われる。
  16. ^ 西崑とは西方の崑崙の意味であり、晩唐の李商隠に倣い、詩の中で幻想の世界に遊ぶ華麗な詩風である。故事や先人の詩を多く引いた装飾を凝らした表現が特徴である。
  17. ^ 西崑体は後に欧陽脩によって危機感に欠けると批判され、長らく省みられなかった。
  18. ^ 欧陽脩は感情を抑制した端正な情景描写が特徴である。梅堯臣はミミズなどのそれまで詠まれなかった事物を使った詩が有名。蘇舜欽は霹靂や蛟龍などを使った激情的で豪放な詩を得意とする。いずれも、物事を正面から捉え、平易な言葉で表現した叙事詩である点に特徴があり、欧陽脩らによって宋詩の様式は完成に至ったといえる。
  19. ^ 蘇軾は若き日より文名が極めて高く、蘇軾に無許可で詩集が出版されたもある。蘇軾は自由闊達・縦横無尽な表現を駆使する。自由闊達であり一定した詩風は見出せない。
  20. ^ 黄庭堅の詩は故事や古詩から「換骨奪胎」し、思索と推敲を重ねて自分の詩を創る詩論を提唱した。
  21. ^ いずれも黄庭堅の流れを汲む江西詩派であり、
  22. ^ 范成大は参知政事まで昇った高級官僚であり、その地位に相応しく端正な詩風である。一方で田園詩人の顔も持ち、農村の人々を詠む際には人懐っこい表現を見せる。楊万里は絶句を得意とし、精緻な観察眼の元にハエやスズメなどの動物の動向を詠んだ詩、あるいは人々の日常の細々とした出来事を読み込んだ詩に特徴がある。
  23. ^ 陸游は曾幾に師事したこともあって、初めは江西詩派の技巧を凝らした詩風であったが、次第にそれに飽き足らず独自の境地を開いた。
  24. ^ これが元で生涯官僚としては不遇であったが、その環境が彼の詩にさらに深みを与えることとなった。官僚としての不遇・金に国土を奪われていることへの憤慨・その状況に何も成しえない朝廷への失望といった感情を読み込んだ詩が若き日には多かったが、年を経るごとにそのような感情から一歩引いて広く見渡せるようになり、日常の何気ない出来事や生活を読み込んだ詩も多くなる。
  25. ^ 永嘉、現在の浙江省温州市出身ないし居住で字や諡に霊を含むことに由来する
  26. ^ 趙師秀が最も高名で、平易な文章で平淡に山水を詠んだ詩が特徴。江湖派は民間の詩人の詩を集めた『江湖集』という詩集に由来があり、民間の詩らしく当事の政治を風刺した詩が特徴的。
  27. ^ これに対し、唐の韓愈柳宗元らの古文復興運動の流れを受け継ぎ、
  28. ^ 太学体の実態については具体的には不明である。従来は『御覧経史講義』の沈徳潜の見解に従い、駢文であろうと考えられていたが、葛暁音「欧陽修排抑「太学体」新探」(1983年)、および日本の東英寿「「太学体」考─その北宋古文運動に於ける一考察」(1988年)らの研究よって、現在の学界では古文の一種であったというのが通説となっている。本節でもこの見解に従うことにする。さらに近年提出された朱剛「「太学体」及其周辺諸問題」(2007年)では、太学体は石介の文体とは関係なく、程頤らの思想の影響を受けた文章であるとするが、朱氏も太学体が古文であったことは否定していない。
  29. ^ 彼の「酔翁亭の記」では、山に囲まれた風景を書き表そうとした時に東に何々山があり、西に何々山があり…と文章を並べてみた所、どうにも長すぎる。と悩んだ末に「環滁皆山也」(周りは皆山)という五字に圧縮したという逸話は彼の精神を良く現しているといえる。
  30. ^ 王安石の文章は「健」と評される。世間一般と対立しても方針を貫く王安石の政治姿勢と同じく、その文章にも気魄が現れている。蘇軾の文章は「奇」と評される。詩風と同じく一つ所に留まらず、才能の赴くままに飛び回るのが所以である。
  31. ^ 張先は都官郎中を最後として退官し、以後は杭州に隠棲してこの地で八十九まで長寿を誇った。その間、様々な人物が張先の元を訪れてこの時代に於ける詞のサロンを作っていた。それまでの詞では元の曲名(詞牌)のみが記されていることが多く、その詞の背景に付いては全く分からなかったのだが、張先の始めたことから詞を詠んだときの状況が簡単に付されるようになった。
  32. ^ 柳永は科挙を受けるため開封へ来たが、身を持ち崩し娼館に入り浸るに至った人物である。その経験からか男女に関する詞が多く、使われる表現も俗語を交えたもので、士大夫からは激しく批判された。
  33. ^ 表現が露骨でなく奥深く、全体の調和が取れて雅であるという意味である。
  34. ^ その憂国の志を詠んだ詞が多く、周邦彦とは異なり率直な表現が特徴。
  35. ^ その生涯とその詩風は孤高という点で通じ「清空」と評される。南宋以降には官途に就かず詩・詞などに専従する専門文人が登場するが、姜夔はそのはしりである。
  36. ^ 詞は精巧さを極めるが、解り辛い面もある
  37. ^ 唐の閻立本太宗に「画師」と呼びつけられたことを屈辱に思い、子孫は画家にならないよう遺言したという。
  38. ^ 李成は唐李氏の末裔で華北黄土地帯の険しい山岳の風景を得意とし、董源は元南唐の宮廷画家で江南のなだらかな風景を得意とする。
  39. ^ 部分部分はよくある風景ながらも全体を見渡すとこの世の何処にも存在しない理想化された山水画を作り上げ
  40. ^ 唐の伝統を受け継いだ明確な輪郭線・豊かな色彩・写実主義が特徴の
  41. ^ 「徐氏体」は墨のみを使い、画題も自然の中の鳥を対称にする、没骨(輪郭線が無い)などが特徴である。
  42. ^ 院体画では華北山水が主流であり、江南山水はその中で次第に忘れられた。
  43. ^ 馬遠・夏珪の山水画は、自然の一部分を切り取って描いたため「馬の一辺」「夏の一角」と後の批評家に批評される。また北宋様式は近景・中景・遠景の三段階であったが、南宋様式では近景・中景の二段階になり、遠景が入る部分は空白が占めるようになった。
  44. ^ この様な様式の求める所は、観る者の想像力を掻き立てて形無いものを表現する所にあるとされる。馬遠・夏珪などの南宋院体画は日本で高い人気を誇り、日本の水墨画に大きな影響を与えた。しかし、南宋の専門画家の山水画は高い評価を与えられず、前述の「馬の一辺」「夏の一角」にしても「南宋偏安」と、北宋の厳しく雄大な山水画に比べ、南の狭い所で安寧を得たので画風も狭くなったと批判的に評される。
  45. ^ 宋迪には薄絹を通して壊れた土塀を見、そこから連想した風景を創造したという逸話がある。
  46. ^ 日本に輸入されたものが多いが、床の間に飾るためにトリミングされたものが多く、全体の傾向が捉え難い。
  47. ^ 南唐顧閎中『韓煕載夜宴図』を宋人が模写したもの。
  48. ^ 徽宗皇后鄭氏。
  49. ^ 饅頭と包子の違いは皮を発酵させるかどうか。
  50. ^ ここから「蘇軾が東坡肉を作った」という話がある。
  51. ^ 片・串はいずれも片茶一個のこと。
  52. ^
    1. 茶摘み
      • まず茶葉を摘む季節は驚蟄(今の暦で3月6日ごろ)に行う。茶を摘むときには細心の注意を払わねばならず、熟練の腕が必要になる。摘む時に、指の腹を使うと指の脂などが茶葉に移るので、爪を使って摘む。摘んだ葉は上から「闘品」(闘茶に使われる最高級品)・「揀芽」(芽一つに葉一枚。一槍一旗)「次品」(芽一つに葉二枚。一槍二旗。現代ではこれが茶摘の基本である)・「下茶」(それ以下)と分けられる。
    2. 蒸す
      • 摘んだ茶葉を水洗いし、蒸す。蒸し過ぎると味が薄くなり、蒸しが足りないと味が濃過ぎる。なお、現代の中国茶は炒るのが一般的である。
    3. 搾る
      • 蒸した葉を水洗いし、小搾(搾り器)にかけて水分を出し、更に布帛で包んで大搾にかけて膏(茶の成分)を出し、乾くまで行う。『茶経』では膏がなるべく出ないよう注意するとあるのに対して、宋代は膏を出す。膏を出しては味が薄くなると思えるが、建茶(福建の茶)は江茶(長江流域の茶。唐代までは福建よりも長江流域が主な産地)に比べて遥かに味が濃いので、江茶は膏を出さず、建茶は膏を出す方が良いということである。
    4. 研る(する)
      • 茶葉をすり鉢に入れ、水を加えて研り、水を加えて熟す。この作業は強力の者が行ない、高級品は1日に1個作れる程度というから、繊細な作業でもあったと推察される。
    5. 型入れ・仕上げ
      • 磨った茶を型枠に入れて固形にする。型に龍や鳳の絵が書かれており、茶へ龍・鳳の印が押される。型から出した後、焙った後に熱湯へくぐらせる作業を3度繰り返し、火を1晩入れた後、煙焙(煙で燻す機械)に入れて小さいものは6日から8日、大きいものは10日から15日ほど経たせる。煙焙から出した後、湯にくぐらせ扇いで乾燥させる。以上で完成である。
  53. ^ 11世紀。ギメ東洋美術館所蔵。

出典

  1. ^ 『南宋・金 世界美術大全集 東洋編6』小学館、2000年3月。ISBN 978-4096010563 
  2. ^ 土肥(2017)57ページ
  3. ^ 周藤・中嶋(2004)401頁以下
  4. ^ 菊池(2021)14頁
  5. ^ 『鶏肋編』
  6. ^ a b c 11世紀。フリーアサックラーギャラリー所蔵。
  7. ^ 斯波1988、P17
  8. ^ 岡元司「南宋期浙東港湾諸都市の停滞と森林環境」「周防から明州へ」『宋代沿海地域社会史研究』汲古書院、2012年(原論文:1998年・2006年)
  9. ^ 齋藤忠和『宋代募兵制の研究 -近世職業兵士の実相-』(勉誠出版、2014年) ISBN 978-4-585-22081-7 終章「募兵制と近代的軍隊の指標」
  10. ^ 齋藤忠和「北宋の軍法について」(初出:梅原郁『中国近世の法制と社会』(京都大学人文科学研究所、1993年)/所収:齋藤『宋代募兵制の研究 -近世職業兵士の実相-』(勉誠出版、2014年) ISBN 978-4-585-22081-7
  11. ^ 『宋史』巻189「兵三廂兵」大中祥符5年2月条
  12. ^ 齋藤忠和「北宋の剰員・帯甲剰員制」(初出:『立命館史学』8号(立命館史学会、1987年)/所収:齋藤『宋代募兵制の研究 -近世職業兵士の実相-』(勉誠出版、2014年) ISBN 978-4-585-22081-7
  13. ^ 齋藤忠和「南宋の剰員制」(初出:『立命館史学』11号(立命館史学会、1990年)/所収:齋藤『宋代募兵制の研究 -近世職業兵士の実相-』(勉誠出版、2014年) ISBN 978-4-585-22081-7
  14. ^ 齋藤忠和「兵士はどこへ行くのかー禁軍兵士への保障からみた北宋募兵制の一側面」(初出:『社会経済史学』(社会経済史学会、2007年)/所収:齋藤『宋代募兵制の研究 -近世職業兵士の実相-』(勉誠出版、2014年) ISBN 978-4-585-22081-7
  15. ^ この節は井上2002を参照。
  16. ^ 宋史』「邢昺伝」
  17. ^ この節は傅1997を参照。
  18. ^ 岡元司「疫病多発地帯としての南宋期両浙路」『宋代沿海地域社会史研究』汲古書院、2012年(原論文:2009年)
  19. ^ この節は金井1980を参照。
  20. ^ 『晩笑堂竹荘畫傳』より。
  21. ^ a b c d e f g 台北国立故宮博物院所蔵。
  22. ^ 個人蔵。
  23. ^ 日本根津美術館所蔵。
  24. ^ アメリカ個人蔵。
  25. ^ この節は杉村2002を参照。
  26. ^ 上海美術館所蔵。木製
  27. ^ この節は華2003を参照。
  28. ^ a b c 清明上河図』の一部。
  29. ^ この節は篠田1981、石毛編1985、張1997、中村2000を参照。
  30. ^ 篠田1981、P127。
  31. ^ 石毛編1985、246p及び張1997、P154。
  32. ^ 篠田1981、P127
  33. ^ アメリカネルソン・アトキンズ美術館所蔵。



宋朝

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大宋伝奇之趙匡胤」の記事における「宋朝」の解説

趙匡胤(宋太祖)(演:陳建斌) 北宋初代皇帝趙弘殷・杜審萍次男趙光義の兄。五代十国時代混沌終止符打ち文・仁・徳による善政行った名君住まい勤政殿趙光義(宋太宗)(※旧名趙匡義)(演:邵峰(中国語版)、※青年期:邱爽、※少年期演者不明) 北宋第二皇帝趙弘殷・杜審萍三男趙匡胤の弟。兄趙匡胤より12歳年下。「陳橋の変」において、兄・趙匡胤即位助けた。宋成立後次期皇帝の座を狙って策を巡らし宰相趙普激しく対立する趙匡胤死後大望叶って皇帝即位。 趙京娘(中国語版)(燕国長公主)(演:周揚中国語版)) 永済県の人。元の名は娘。両親の仇の匪賊・王擋を討つために、街で偶然知り合った趙匡胤助け求め、その義妹となる。仇討ち成し故郷帰って暫く後、汴京に赴き、張という男に嫁ぐその後ほどなくして汴京離れ息子・張闖を産んだ。夫の張がほどなく戦死すると、女手一つ息子育てる。 両親仇討ちから10年上後義兄趙匡胤の命を受けた張瓊によって見つけ出され汴京に赴き入宮太后正式な義娘となり、燕国長公主封じられた。本当義兄趙匡胤のことを強く恋慕っていたが、様々な経緯により将軍張瓊嫁いだ義兄趙匡胤とは実の兄妹以上に親密王皇后宋皇后とも非常に仲が良い趙徳昭(演:劉禹辰、※少年期:黄毓嘉) 趙匡胤賀舒雅息子勉強嫌いで奔放な性格。「知性能力乏しく皇位を継ぐ器にない」と作中言及されているが、成人後急激な変貌遂げ聡明勇敢な皇子となる。 洛陽郊外皇陵建設地視察整備的確にこなした黄河水害際し趙普建言貴州防禦使に任じられさらには欽差副使となり、陳承昭とともに被災地救済調査赴いた趙徳芳(演:卜康、※少年期:金泰熙) 趙匡胤王皇后息子趙匡胤次男聡明学問熱心な性格であり、趙匡胤お気に入り息子である。作中では有力な皇位継承者候補として描かれつつも、その若年不安視されている。 趙光義悪夢登場し、安忠・葛覇殺害し趙光義手に掛けようとした。父・趙匡胤死後即位した叔父趙光義によって「一字平肩八賢王」に封じられた。 趙媖媖中国語版)(永慶公主)(演:王) 趙匡胤賀舒雅長女勉学の才がある皇女として描かれる義叔母符蓉妖言騙され義母王月虹(王皇后)を生母賀舒雅の仇として激しく憎む。その後王月虹が失意危篤状態にある中、自身宰相魏仁浦息子・魏咸信に嫁いだ趙婷婷中国語版)(昭慶公主)(演:陳詩丹、※青年期:殷寒) 趙匡胤賀舒雅次女勉学の才ある皇女として描かれる義母の宋洋(宋皇后)より1歳年上だが、実の姉妹のように仲が良い武成節度使・王審琦の息子王承衍に嫁いだ王月虹(中国語版)(王皇后)(演:殷中国語版)、※少年期怡瑩??) 趙匡胤二番目正妻。宋朝最初皇后。王饒と劉耘の娘。趙徳芳生母住まいは福寧宮。 夫・趙匡胤一途に愛す賢妻温厚慈悲深い性格。 もと女道士。匪賊の王擋に捕らわれるが、趙匡胤たちに救われるその後高懐徳符昭寿によって汴京趙匡胤実家送られ玉佩きっかけ幼い頃趙匡胤婚約者であったことが発覚する。そして趙家の養女となり、賀舒雅(※趙匡胤糟糠の妻)の死後趙匡胤の妻となった太后遺言した「兄終弟及」に反対し、それが原因趙光義符蓉らの罠に嵌められる最後失意のうちに重病にかかり、夫・趙匡胤先立って死去符蓉(演:雯雯) 趙光義正妻符彦卿三女欲深い野心家策略家であり、冷淡な一面が強い。夫・趙光義とは時々口論になるが、喧嘩するほど仲が良く互いに深く愛し合っている。 夫・趙光義次期皇帝擁立したいと目論み、様々な策を巡らす太后の「兄終弟及」の遺詔反対した王月虹(王皇后)と趙普敵視し薛鳳嬌趙媖媖利用して王月虹に激し精神的打撃与えついには死に追いやった。 西暦975年死去。夫・趙光義との間に子を望むも、最後まで果たせなかった。 杜審萍(太后)(演:田玲) 趙弘殷の正妻趙匡胤趙光義生母。宋朝皇太后住まいは滋徳殿。 作中では賢明果断な女性として描かれる趙匡胤趙光義尊敬崇拝してやまない偉大な存在であり、趙普ら宋朝の臣下達からも人望が厚い。 死の間際趙匡胤趙普二人対し、「兄終弟及」の遺詔残し趙匡胤後継者趙光義指名西暦961年60歳死去自身残した「兄終弟及」の遺詔は、死後絶大な影響力持ち、その遺詔拠り趙匡胤死後趙光義即位した。 宋洋(宋皇后)(演:王紫潼(中国語版)、※少女時代:徐源) 趙匡胤三番目正妻。宋朝皇后(※二番目)。宋偓と劉氏娘。祖母と母は先の王朝公主であり、高貴な生まれ太后万寿節参列し趙匡胤王月虹、符蓉らとも対面した西暦968年符蓉相国寺偶然に8年ぶり(※作中では「9年ぶり」との誤言及)の再会を果たす。符蓉に見い出された後、趙光義提案によって、17歳趙匡胤皇后となった西暦952年生まれで、趙匡胤とは25歳差。徐5歳年下義娘趙媖媖より1歳年下(※若干年齢差設定矛盾がある)である。天真爛漫温厚純朴な性格。素直で飾るところがなく、策士符蓉も、純粋な彼女のことを手なづけられなかった。 人懐っこい性格で、誰とでも仲良くなれる。義妹・趙京娘や義娘趙婷婷とも非常に親密。夫・趙匡胤とは深く愛し合っているが、父と娘ほどの年齢差であり、本当純愛とは言い難い趙匡胤との間に子を望むも、果たせなかった。 趙匡胤真意汲み取り義子趙徳芳次期皇帝据えよう考えるが、失敗義弟趙光義即位した後、皇太后となった賀舒雅(演:王冠) 趙匡胤最初正妻趙媖媖趙婷婷趙徳昭の母。会稽郡夫人(※趙匡胤の対南唐戦での活躍による)。 趙匡胤とは深く愛し合う仲。趙匡胤2歳年下趙匡胤幼き頃の婚約者王月虹が現れるも、最初は彼女のことを義姉として敬い親しく接していた。だがほどなく岳母杜審萍に「王月虹を趙匡胤正室として、あなたは側室になれ」と説得されてしまい、酷く心が傷付き精神病んでしまい、心の病気そのまま死んでしまった。 趙普(演:王絵春(中国語版)) 宋朝宰相趙匡胤第一腹心参謀。宋朝建国期の第一功臣趙匡胤より5歳年上。 もと幽州薊県の人。戦乱により常山移住しその後各地転々成人後永興節度使・劉幕僚となるも、文書係の小役人にしかなれず、周囲との関係にも嫌気がさし出奔。それから後、筠にも仕官請われたが、筠が本当英雄でないことを察し仕官誘いを断る。その後各地遊歴しつつ、あるとき陳摶老祖から英雄趙匡胤の「華山の約」を聞きつけ、寿州にて趙匡胤の下に身を投じ、その参謀となった。 「陳の兵変」において、趙匡胤即位助ける。宋朝成立後枢密使の職を経て魏仁浦後任として宰相就任趙匡胤信頼厚く、4人立て駕籠下賜されたほど。 太后の「兄終弟及」の遺詔証人となるも、その遺詔内容自体には強く反対し、趙匡胤考え改めさせた。 宰相就任後、政事堂取り仕切り権勢急速に増大させ、一方で傲慢な言動が目立つようになった朝廷において絶大な権力握り宰相権限政務専断趙光義とは当初良好なであったが、その後激しく対立し闘争繰り広げる。 やがて、趙光義の命を受けた有隣から横領罪告発され失脚その後謀反嫌疑告発され一切の職を解かれた。最後は、敵対関係にあった趙光義和解し、その即位正当化させ、宰相返り咲いた。 沈義倫(中国語版)(演:曹衛宇(中国語版)) 趙匡胤信頼厚い重臣参謀。宋朝宰相。 もとは王彦超部下だったが、その後趙匡胤腹心参謀となる。趙匡胤り18年上。「陳の兵変」において、趙匡胤即位助ける。 宋朝成立後は、要職歴任し三司使(副宰相)にまで昇進した国子監文廟・武廟の開設管轄趙匡胤に対して文治重要性説き、その義兄弟武将重用しすぎぬよう説いた。宋初、趙匡胤が「各地の旧節度使権限縮小し旧知州・旧知県を撤廃したい」と考えた際には、鎮州事としてその政策大きな役割を果たす。特に、鎮州節度使王彦超らの強権縮小尽力。これにより中央から新任知州知県各地方派遣されることになった。 宋の後蜀平定後、横領の嫌疑かけられた知成都府事・呂余慶代理後任として、知成都府事に就任し成都赴任5年成都立派に職を務め上げたその後李崇矩・趙普失脚に伴い中央復帰し枢密使参知政事就任政事堂枢密院取り仕切るうになるその後ほどなくして宰相就任した高懐徳中国語版)(演:許毛毛) 趙匡胤義兄。「結義兄弟」の長兄(※次兄趙匡胤)。宋朝大将軍趙匡胤の最も信頼する武将であり、文武優れ人格も立派。後周のとき、戦で趙匡胤身代わりとなって負傷したこともある。趙匡胤決起勧め、「陳の兵変」では、趙匡胤即位助けた。宋朝成立後、殿帥の身でありながら趙匡胤真意汲み取り率先して兵権返上。 宋の天下統一のための討伐戦には必ず参陣し多く討伐戦主帥務めた本作には宋朝の建国期の名将曹彬一切登場せず、作中において高懐徳が、史実上の曹彬役割担っているともいえる。 趙匡胤厚く忠義誓っており、趙光義陰謀には強い危機感抱いていた。だが最後は、趙光義真心誠意汲み取り、その即位後押しする。特に大きな過失もなく、趙匡胤の結義兄弟の中で唯一無事に生き残った張瓊(演:康凱) 趙匡胤義弟。「結義兄弟」の三弟。宋朝駙馬都尉(※妻は趙京娘)。宋朝大将軍・殿帥。 粗忽無鉄砲な性格だが、気さくでどこか人懐っこい一面もある。腕っぷしが強い酒豪で、武人肌の熱血漢。時々大きな失態犯し趙匡胤叱責されることもあったが、趙匡胤信頼決して揺らがなかった。なお、作中では吃音症状がしばしば見られる。 もとは戦乱流浪強いられたごろつき」だったが、趙匡胤真心に強い感銘を受け、改心以後趙匡胤部下義弟となり、趙匡胤とともに郭威軍に身を投じた後周のときも、趙匡胤付き従って数々の戦に従軍。「陳の兵変」では趙匡胤即位助け、自ら軍を率いて汴京侵攻した。ただ、汴京侵攻敵将韓通誤殺してしまい趙匡胤逆鱗触れて一時投獄された。 宋朝成立後討伐大手柄立て侍衛馬歩副都指揮使&京城巡検任じられた。李重進討伐後蜀攻め北漢攻めに参陣。宋朝の天下統一戦において度々功績立て趙匡胤の命の危機救ったこともある。 妻の趙京娘(燕国長公主)とは、当初成り行き上夫になった関係だが、その後互いに強く愛し合うとなった趙光義による買収拒絶してその不興を買い、趙光義の罠に嵌められて、失脚。さらに趙光義陰謀によって謀反嫌疑かけられ最後牢獄自害してしまった。 符昭寿中国語版)(演:姫晨牧) 符彦卿息子符蓉の兄。符苓・符茗の弟。趙匡胤義弟。「結義兄弟」の四弟。宋朝将軍趙匡胤信頼厚い武将だが、宋朝における官職はさほど高くない模様である(※ソース作中での符蓉言及)。討伐李重進討伐後蜀討伐に参陣。不満を抱えつつも仕方なく兵権返上。妹夫・趙光義次期皇帝擁立したいと強く考え、度々その謀議にも参与した作中初期の頃は、わりとまともな人物だっただが、宋成立以降は、傲慢我儘浮ついた人格変貌し、酒・女・遊び入り浸る驕奢放蕩者に堕落してしまった。不法行為も非常に多く、街で数多美女見出しては、度々強姦凌辱受けた女性5人が自害するという惨状だった。やがて韓珪らによって大罪糾弾され逃亡試みるも失敗劉温叟・韓珪によって、洛陽から汴京護送される最後は、趙光義の命を受けた葛覇によって汴京への途上殺害された(※趙光義は、本来味方である符昭寿のことを、次第足手まといであると考えだし、自分に害を及ぼす前に暗殺したのである)。 鄭恩(演:) 趙匡胤義弟。「結義兄弟」の五弟。もとは柴戸村民であったが、柴戸訪れた趙匡胤知り合う趙匡胤とともに盗賊退治行った後、趙匡胤付き従ってその部下義兄弟となる。その後盗賊・王擋の捕縛・処刑にも尽力また、王擋に捕らわれた王月虹を救出したその後趙匡胤張瓊とともに郭威軍に身を投じ兵士として李守貞討伐戦郭威汴京侵攻にも参陣。だがその後、突然全く出番なくなり12話に渡ってその存在について一切言及されなくなってしまう。ちなみに作中では、「後周の頃から宋初にかけて、約4年半(4年5か月17日間)、契丹との国境沿いの守備の任に当たっていた」と言及されており、おそらく辺境守備にいたという都合上登場させられなかったものと思われる。 そして18になってやっと再登場高懐徳張瓊符昭寿とともに殿試受験するも、落第その後趙匡胤兵権返上した19話に登場した後、暫くまた出番なくなり24話で再登場(西暦963年)。このときに契丹との国境防備任務から約4年半ぶりに帰還したことになっているが、ここで18・19話での登場シーンと完全な矛盾生じてしまう。 辺境での防衛任務終え汴京呼び戻されると、すぐに趙匡胤によって禁軍教頭任じられた。だが、自身歓迎酒宴において、盧多遜けしかけられ、陶谷を激しく罵倒するという失態犯し禁軍教頭の職を即刻解かれ謹慎処分となる。その後王皇后(王月虹)を頼り趙匡胤許しを請おうとしたが、度々密かに王皇后のもとを訪れていることを密通疑われ激怒した趙匡胤によって殺された(※25話)。 王継恩中国語版)(演:建新) もとは後周世宗側近として仕え宦官だったが、宋朝成立後趙匡胤側近として仕えようになった後周のとき、不注意で皇太子柴宗訓怪我させてしまい、それが原因処刑されそうになったが、その場居合わせた符蓉命乞いしたため、なんとか一命取り留めた。その経緯から符蓉に強い恩義感じ符蓉やその夫・趙光義に厚い忠義を誓うようになり、度々二人策略陰謀のために働き、その耳目のような存在となった。宋朝成立後符蓉趙光義従兄賈琰仕官斡旋してもらうと、その恩義深く感謝し二人への忠誠心はますます強くなった。 「陳の兵変」では、符蓉とともに趙匡胤即位大きく貢献。宋朝成立後趙匡胤側近宦官となった趙匡胤にも一応忠義深く仕えており、趙匡胤南唐大将軍林仁肇排除しよう目論んだ際は、その「離間の計」に尽力巧妙な演技南唐使者従善を上手く騙し林仁肇を見事死に追いやる手柄挙げた趙匡胤の死を第一発見し素早く主人趙光義報告趙光義即位助け引き続き新帝趙光義側近宦官となり、宮中総監地位維持した魏仁浦中国語版)(演:閻沛) 後周・宋朝の二朝四代渡って宰相務めた朝廷重鎮。宋朝建国期の大功臣。賢明見識深く学問政務精通し衆望も厚い。 時勢にさとく、「陳の兵変」が勃発すると、後周群臣憤慨する中、一人強く趙匡胤への服従唱えた趙匡胤信頼が非常に厚い宰相であり、老いと病により度々辞意を示すも、慰留された。26話になって重病により宰相職を辞し引退。しかし、趙匡胤優秀な侍医派遣して手厚い治療行い延命した。 その後太傅封じられ、皇次子趙徳芳教育係となった陶穀中国語版)(演:孫寧) 宋朝大臣後晋の代より朝廷仕えている。趙普派。盧多遜師匠(※後に敵対関係に)。 出世欲物欲が非常に強いしたたかな大臣であり、権力者に媚び人格芳しくない。もとの姓は「唐」だが、後晋石敬瑭(太祖)との避諱のために「陶」の姓に改姓するほど、上司主君へのおべっか巧妙だった。 趙匡胤即位式の際に詔書起草その手柄で宋朝でも翰林学士承旨の高位維持され朝廷一定の影響力持った。宋朝第一回科挙において主考官を担当。不正・収賄手を染めようとする事前に露見し趙匡胤から強く釘を刺された。だがその後は、科挙の主考官を立派に務め上げ失態挽回した。 やがて宰相趙普腹心部下となり、以後趙普策略陰謀助けた成都監軍・横海節度使といった地方での重職立派に務め上げ刑部侍郎の職を追加されるなど出世した。さらに趙普は、腹心陶穀のことを枢密副使抜擢しようと考えていたが、これはどうやら未遂終わったようである。 西暦970年科挙において、主考官・宋琪多額賄賂贈って買収し息子・陶戩を合格させようとしたが、その不正が露見し刑部侍郎から刑部員外郎への降格処分となり、宰相趙普から厳重注意受けた宰相趙普失脚すると、恩義をすっかり忘れて親分趙普を見限った。そして趙普謀反嫌疑かけられると、擁護の弁をせぬどころか趙普への厳罰説く有様だった。 盧多遜中国語版)(演:樊営) 宋朝大臣重臣趙光義派。副宰相劉温叟娘婿陶穀とは当初師弟関係にあったが、後に敵対趙光義洋洋たる前途早くから目を付け朝廷大臣の中で最も早く趙光義取り入り、その腹心部下となった趙光義からの信頼が非常に厚く、常に謀議参加し彼の策略陰謀強く助けた。 宋朝第1回科挙恩師陶穀とともに主考官を担当。不正をあくまで拒否していたものの、陶穀巻き添えにされそうになった。だがその後は、科挙の主考官を立派に務め上げ失態挽回した李重進討伐戦において、自ら揚州に赴き、旧友安友規への内応工作成功。その功績翰林学士昇進する。さらに、武平南平偵察に赴き、両地の平定大きく貢献した西暦970年科挙でも、不正を犯した宋琪に代わって主考官を見事に務め上げ趙匡胤から褒賞授かった宰相趙普失脚するに伴い参知政事(副宰相)に就任その後主君趙光義即位助けるべく尽力した博学多彩優秀な文人(文官)であり、科挙にも自らの実力のみで合格してみせたほど。朝廷での立ち回りも非常に上手く趙光義という強力な後ろ盾を得、自分才覚大い発揮し順調に出世した劉温叟中国語版)(演:燕生) 後周・宋朝の重臣盧多遜岳父忠義心に厚く清廉で剛正・率直な性格後周への忠義に厚く趙匡胤二心強く疑っていた。後周滅びた後、当初は宋朝への服従拒絶し張永徳反乱要請するほどだった。だがそのすぐ後、趙匡胤熱意真心強く感化され改心。宋朝への帰順決意し御史中丞翰林学士任じられ以後趙匡胤と宋朝への厚い忠義誓ったその後御史中丞として様々な事件厳正に調査解決趙匡胤の強い信任を受け、尚方宝剣まで授けられるほどだった。 徒党与せず権力者に阿らない性格であり、孤高潔白な賢臣である。魏仁浦趙普・沈義倫・呂余慶と並ぶ朝廷屈指の重臣という扱いで、趙光義劉温叟宰相推挙したこともある。だが趙匡胤は、「劉温叟人柄剛直厳正すぎて、やや協調性欠け宰相向きではない」と考え、これを敢えて抜擢しなかった。 呂余慶中国語版)(演:国文学) 宋朝重臣。副宰相趙匡胤からの信頼厚い忠義賢臣。 もとは後周世宗が、趙匡胤のもとに潜り込ませた目付役(密偵)の将軍である。「陳の兵変」にも参加し当初動静見守っていたが、やがて趙匡胤即位強く支持し、兵変の成就助ける。 宋朝成立直後北漢と遼に赴き、両国との和平ひとまず成功させた(※北漢その後裏切る)。筠・李重進討伐にも参加その後参知政事となり、民情視察のために各地赴く。 宋朝の後蜀制圧後、知成都府事に任じられ、蜀の地の安撫・視察のために、劉温叟とともに成都赴くその後、妻・賈氏娘婿・牛徳原因で、陶谷によって成都での横領の嫌疑掛けられたが、趙匡胤には監督不行き届きの罪のみを追求され死罪免じられ、謹慎処分となった。 それから暫く作中登場しなくなるが、宰相趙普失脚した頃に朝廷復帰。再び参知政事(※副宰相)となった。 宋朝の重臣として度々功績挙げ朝廷でも屈指の重臣として扱われている。公正無私性格で、趙普とは私怨こそあれ、これを根に持たず趙普謀叛嫌疑向けられたときも、彼を強く擁護した符彦卿中国語版)(演:玉傑) 後唐後晋後漢後周・宋の五朝仕えた朝廷元老後周・宋の重鎮。符苓・符茗符昭寿符蓉父親趙弘殷・杜審萍親友趙光義岳父趙光義派。趙匡胤命の恩人でもある。 死をも恐れぬ勇猛果敢武将であり、智謀優れ威望著しい。後晋のとき、遼太宗(耶律徳光)が自ら契丹の軍を率いて侵したが、自らも軍を率いてこれを迎え撃ち、敵の撃退成功した後周世宗国舅であり、世宗からの信頼が非常に厚く重職担った後周世宗趙匡胤への猜疑心強めた際は、その疑念緩和尽力趙匡胤命の恩人となった。 宋朝成立後は、淮陽王(魏王)&西京(洛陽)太守地位就いた符蓉符昭寿触発され娘婿趙光義皇位継承に関して強く思慮巡らせるうになる太后危篤陥った際、単身太后病床に赴き、「兄終弟及」の原理説き、「趙光義への皇位継承陛下(趙匡胤)に対して遺言するように」と強く唆したその結果太后は「金匱の遺詔」を残し、それが趙匡胤後継者を巡る争い火種となってしまう。 趙匡胤命の恩人である符彦卿のことを特別に重視し、彼を侍衛馬歩軍都指揮使に任じようとした。だが、趙光義との結託危惧した宰相趙普この人事に猛反対し、侍衛馬歩軍都指揮使への就任急遽取り止めとなった。 やがて、韓珪によって洛陽での収賄横領罪告発され汴京召喚された。その後娘婿趙光義審理によってついに罪を認め引退迫られることとなった張永徳中国語版)(演:楊哲) 郭威外甥柴栄(後周世宗)の娘婿(駙馬都尉)。後周のとき、大将軍として兵権を握る。一時期禁軍殿帥(殿前都点検)の職にあったが、趙光義趙普らの策によって澶州左遷された。 宋朝成立後後周旧臣劉温叟によって宋への反乱要請されたが、熟慮の末それを拒否し、宋に誠意をもって帰順趙匡胤から厚い信任を受け、宋朝でも使相・将軍として重用された。討伐にも参加。また武平救援では主将務めている。 主君趙匡胤への忠義に厚く趙光義陰謀には反対していた。だが趙匡胤死後最終的に趙光義真心誠意強く胸を打たれ彼の即位後押しした雷徳驤(演:躍民) 後周・宋朝大臣後周への忠義厚く当初は宋朝への服従良しとせず、酒宴の場で後周懐かしむ反詩を詠んでみせたりもした。実直な性格認められ、沈義倫の推薦で判大理寺事に就任。 後に妓楼狂いに陥り、趙匡胤不興買った。さらに、趙光義指示宰相趙普横暴弾劾。かえって趙匡胤逆鱗触れ朝堂にて群臣たちの面前大恥かかされそのまま精神病んで大病患い危篤態となった。最後は、息子有隣将来開封府尹・趙光義託し仇敵趙普への復讐を遺願して病死した。 王彦超中国語版)(演:夏志卿) 五代において多く藩鎮節度使歴任してきた有力な武将趙弘殷・符彦卿らとも親交が深い。趙弘殷の義弟でもある。沈義倫の旧主君。 第1話において、後漢復州防御使として登場復州訪れた趙匡胤対面する。そして趙匡胤申し出た賭け乗り趙匡胤に対して資金援助行ったその後趙匡胤との賭け敗れ彼の気概深く見込み趙匡胤郭威の軍に推薦した後周の代に鎮州節度使となり、宋朝成立後もその地位維持された。趙匡胤地方節度使権限の縮小推し進め始めると、その方針にやや反発しつつも、最終的に恭順の意を示し兵権節度使特権をすっかり返上その後汴京帰還し多数の子や孫に囲まれ幸せ余生過ごした衛融中国語版)(演:姫成功) もとは北漢宰相西暦960年筠の反乱救援のために、皇帝劉鈞とともに5000の兵を率いて澤州赴いた劉鈞帰国した後も、3000の兵を率いて駐留。しかし宋との戦い敗れ、その捕虜となったその後、宋に帰順し太府卿任じられ、やがて中書舎人となる。 趙匡胤文治政治重要性説き、宋朝に大きな転機与えたまた、西暦969年北漢攻めにも参加している。 陳承昭(演:呂寧) もとは南唐枢密使大将軍として水軍統括していた。西暦957年後周との戦い敗れ、その捕虜となり死を覚悟したが、趙匡胤直説得され後周投降後周将軍となるその後北宋でも将軍として仕え水利事務北漢水攻め尽力した水軍訓練しており、南唐討伐のために水虎捷軍副都指揮使に任じられ実際に南唐征伐にも参陣した。また後蜀討伐の際は1万水軍率いて長江守り南唐侵攻防いだまた、黄河水害際し工部侍郎&左神武統軍に任じられ欽差大臣として皇長子趙徳昭とともに被災地澶州青州鄆州調査救援赴いた安友規(演:楊凱文) 李重進腹心部下揚州監軍盧多遜友人楚昭輔内応工作により、宋との内通決意その後盧多遜説得によって李重進裏切り揚州脱出して宋に投降滁州刺史任命された。揚州攻め(李重進討伐)では先鋒将軍務めた趙彦韜(演:孫紅) もと後蜀官吏兵部検正。楚昭輔とは同郷で、彼の旧友義弟である。宰相昊の命令密かに汴京偵察赴く汴京偵察後、一度成都戻り孟昶復命し、宋が後蜀攻め準備をしている旨を伝えたその後、孫遇とともに北漢への使者赴く手筈だったが、孫遇を騙して汴京戻り楚昭輔のもとに赴き、事情詳細に説明孟昶北漢皇帝劉鈞に渡す手筈だった密書宰相趙普明け渡したその後、宋の臣下となり、疎密都承旨の職を与えられた。やがて工部侍郎昇進するも、宰相趙普威光を笠に不正・横領手を染めた賈琰(演:霍青(中国語版)) 趙光義腹心参謀冷静沈着頭が切れる趙光義野望実現助けた、そのブレーン存在開封府推官。 王継恩従兄王継恩の父の姉妹嫁ぎ先親戚関係。王継恩幼少期命の恩人でもある。故郷陝州初登場時42歳。師は陝州の譚筠。仕官の道を求めて従弟王継恩を頼るも失敗。しかし楚国夫人符蓉助け開封府における職を得る。 入職してすぐ、開封府持ち込まれ訴訟適切に解決して趙光義信頼を得、趙光義腹心部下(参謀)となり、やがて開封府推官に昇進し開封府中に移り住んだ参謀として、主君趙光義に度々適切な助言行い趙光義何度も救った後蜀討伐編では、事前に密偵として蜀の成都潜入後蜀近況報告しつつ、亡き王皇后生き写し花蕊夫人(徐蕊)」の存在趙光義教えた趙光義劉温叟買収しようと金財宝彼に与え、それが趙匡胤露見したときも、適確助言行い、難を逃れさせた。 兵変に備え開封府10万私兵養成趙光義皇位継承助けるべく、彼に対して様々な献策行いさらには皇帝趙匡胤毒殺強く説いた趙光義皇帝即位後晴れて朝廷大臣となった楚昭輔中国語版)(演:劉広厚) 趙普義弟親友趙普とは30年上の付き合いである。当初親友趙普腹心部下として働いていたが、やがて趙普冷徹薄情な性格嫌気差し自己保身私欲のために趙普裏切り趙光義のもとに身を投じる李重進反乱起こした際、欽差大臣として揚州に赴き、監軍安友規内応工作行ったその後李重進殺されかけたが、安友規助けられ絶体絶命危機脱した成都監軍の任にあった際、巨額横領手を染めて趙匡胤宰相趙普怒りを買い、失脚。しかしその後宰相趙普見限って趙光義のもとに身を投じ三司使に昇進した西暦969年北漢討伐の際、北征諸路転運使任じられ軍需品糧食調達運搬の全責任負ったが、趙匡胤から「三日以内全ての軍需品糧食準備しろ」と命令されて、一気絶体絶命窮地に立たされた。幸い趙光義助けによってこの危機を無事解決し趙光義への大恩感じて、彼への忠誠強めたその後趙光義趙普天秤に掛け、どちらに味方するかを熟考していたが、最後趙光義の強い説得によって、趙光義陣営の完全な味方となった趙光義主君仰ぎ二心なき忠誠誓った後は、宰相趙普知られざる罪を暴露して彼を失脚追い込み趙光義皇位継承への野望大い助けた姚恕(演:彭振中) 趙光義腹心部下賈琰同郷学友で、師匠は譚筠。もとは工部役人で、工部では制作修繕事務担当。だが上司直言し怒りを買い、工部出奔その後賈琰推挙され趙光義仕えるようになり、開封府推官に任じられた。趙光義何度も適切な助言行い、その信頼得た。 太医の程徳玄親友(義兄)。妓楼通いで判大理寺事・雷徳驤とも友人になったその後澶州知州事となった杜審肇補佐役として、澶州通判任じられた。黄河水害に際して十分な職責果たせず、職務怠慢逮捕され汴京連行される。その後刑部大牢収監され最後は罪を問われ処刑された。 程徳玄中国語版)(演:張新華) 姚恕親友(義兄)。優れた手腕有する医者。「劇毒無形」という特殊な遅延毒薬使い手で、証拠残さずに人を殺せ秘技を持つ。友人姚恕推薦により、趙光義大金雇われ孟昶毒殺尽力その後趙光義推薦皇宮入り、徐の病を治すなどして趙匡胤信頼を得、そして宮中の太医に就任宮中では、趙光義耳目として密かに働いた。 やがて、賈琰によって「皇帝趙匡胤毒殺」を命じられたが、恐怖と不安でひどく動揺して放心状態になり、命令実行に移すことはできなかった(※代わりに王継恩に毒を混ぜていた)。 葛覇(演:胡敬佩) 趙光義腹心侠客趙光義への厚い忠義誓い殺し脅迫などの穢れ役を担った。 もとは汴京東郊外の民。大変な孝行息子で、病気の母を救うために、街に出て自分身売りし、奴婢になる代わりに金を得て、母の治療費充てようとしていた。だが街で身売りをしている際、偶然出会った将軍符昭寿酷く侮辱され、彼と喧嘩になり、激怒して符昭寿殴りつけてしまった。その後符昭寿部下たちによって暴力的仕返しを受け、捕らえられ、さらに符昭寿によって開封府突き出された。だが開封府尹・趙光義は、その激烈な性格や、元来腕っぷし強さ孝行心の厚さなどを見込み、彼を利用しよう考えひとまず自身裁き葛覇を牢に入れた獄中にあった際、趙光義賈琰騙され、「母がすでに死んだ」と告げられ激しく怒り狂う。そして、「母を救えなかったのは趙光義のせいだ」と決め込み仇敵趙光義への復讐のために、牢中で武術修練励み武術の腕を格段に上げた。その一方で趙光義は、賈琰命じて葛覇の母を救出させ、母を治療して重病から救った。これらはすべて、趙光義計画通りだった。 その後武術の手練れとなると、牢から解放され、母が趙光義によって命を救われたこと知り大い感激した。そして、趙光義大恩人と敬い以後趙光義部下となり、命をささげて忠誠を誓うことを宣言した趙光義腹心侠客となった後は、孫岩暗殺符昭寿暗殺、董・孔璘脅迫など、影の汚れ役徹した胡賛(演:楊) 趙普腹心部下李崇矩の妻の従弟。もとは商人郭威後周建てた後、入朝工部員外郎の職にあったが、人に陥れられ、失職し商人逆戻り。宋朝成立後徳州赴任して来た義兄李崇矩に賄賂贈って取り入り、宋朝での仕官の道を得ることに成功李崇矩の推挙趙普部下となり、政事堂枢機使に任じられた。そして以後は、宰相趙普腹心部下としてよく働き、その強い信任得た。 だが、元来商人気質欲深く最後横領収賄加担し主君趙普までも巻き添えにしてしまう結果となった宋琪中国語版)(演:頴佳) 趙光義のもとに送り込まれ趙普派の内応者。李崇矩は旧上司。 もとは賈琰同窓生。書と詩に優れ賈琰推挙趙光義部下となり、開封府吏員任じられた。だがその実は、趙普派の重臣李崇矩が敵情視察のために趙光義のもとに送り込んだ密偵であり、趙普派の臣下だった。 趙光義は、やがて宋琪趙普派の内応者・密偵であると気付き次第に彼を遠ざけ始め賈琰調査確証得て宋琪密かに仲間から除外した。そして趙光義は、宋琪密偵であることを逆手に取って策を弄し趙普を罠に嵌めこととした。 開封府吏員の職を退いた後、龍州知州事に任じられ現地赴任して災害救援功績挙げたその後翰林学士就任西暦970年科挙では主考官を務めるも、甚だしい不正を行い、韓珪に糾弾される。そして、受験生・徐士廉によって、趙匡胤直接汚職告発され、主考官を解任され一切官職までも免じられ、平民落ちぶれた。 李可度(演:趙王武) 趙普私邸(宰相府)の執事主人趙普比較忠実に仕えていたが、その失脚後趙普に完全に見切りをつけた。最後趙光義派に買収され主人趙普裏切り、そして「趙普が反詩を詠み謀反企んでいる」と趙匡胤に対して告発した杜審肇中国語版)(演:安瑞雲) 杜審萍(太后)の弟。国舅趙匡胤趙光義叔父趙匡胤仕官をねだるが、姉の杜審萍(太后)にきつく叱責され失敗し一度役人への道を諦めた。だがその後暫くして、甥・趙光義頼って趙匡胤に再び官位をねだり、ついには澶州知州事となった。 黄河洪水による水害に際しては、救済や対応を一切行わず、酒・女・遊び溺れ続けた。そして、その罪を咎められ逮捕され汴京連行され刑部大牢収監され最後は罪を問われ免官された。 孫岩(演:国浩) 張瓊仕え侍従張瓊のもとでは2年勤めていた。登場時の年齢30歳些細な失言上官張瓊激し怒り買ってしまい、張瓊に酷い虐待を受け、強く張瓊恨み憎んだその後趙光義部下賈琰唆されて、御史台に赴き張瓊謀反の罪を告発皇帝趙匡胤対し、「張瓊100人の私兵大量武器駙馬府に隠し謀反企んでいる」と強く訴えた趙光義張瓊排除計画利用された後、最後口封じのために葛覇によって殺された。

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宋朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 16:48 UTC 版)

岳飛伝 THE LAST HERO」の記事における「宋朝」の解説

俳優紹介注釈シャオ・ピン 韓世忠 南宋名将 張馨予 梁紅玉 韓世忠の妻であり南宋武将。元娼妓美貌持ちながら武力にも優れ、夫の韓世忠とともに金と戦う。韓世忠水軍大敗した際、妻が流産したことを根に持つ兀朮標的とされる最期は城より誘い出され奮戦するも戦死する。 ロー・ガーリョン 秦檜 自分保身のため策を巡らせ、金につくか宋につくかを天秤にかけており両陣営通じている。一時このことが発覚し監禁されるが、岳飛恐れる高宋に取り入り和議を結ぶように説得する。高宋の命により岳飛張憲岳雲謀反の罪で捕らえ万俟卨らに命じて捏造した証拠を基に処刑するよう裏で手を引く。 アレン・ティン 高宗 宋朝第10代皇帝南宋初代皇帝徽宗の九子。宋朝一の暗君。金に攻められるたび南に遷都し、一時海上に都を置き船上で政を行う。岳飛力を借りて失地回復一歩手前までいくが、失地回復後の岳飛影響力警戒して帰陣させる。秦檜命じて岳飛冤罪かぶせて処刑する。 陳之輝 劉韐 南宋名臣 盧勇 宗沢 岳飛良き理解者であり、岳飛抜擢した抗金の総帥。 王小満 秦檜の妻。趙鼎娘。 黄小戈 邢氏 憲節皇后高宗正室靖康の変により北方に連れられ、その地で「洗衣院」に入れられ娼婦となる。後、自死。 黄小戈 呉氏 憲聖慈烈皇后 劉恩佑 小梁王 安亜平 王王力 充 羊 劉正王騰 宗欣 張耘 傅慶 昊翰 宇文虚中 張迪 梁興 武振素 張大年 曾紅生 万俟秦檜派の奸臣岳飛裁き処刑した張本人岳飛死後参政となるが秦檜仲違いし罷免される海子 王彦 畢振 王淵 石燕趙佶 宋徽宗 程五 趙桓 宋欽宗、宋朝第9代皇帝北宋最後の皇帝徽宗長子。 劉晨 韋氏 江炫蜜 鄭娘娘 閆鹿楊 朱皇后 劉魁 李綱 賀鏹 汪伯彦 程六一 張邦昌 楊芸 童貫 白志成 袁和 陳大成 康履 周中和 姚公公 盧映 韓肖冑 田京趙鼎 張国慶 蔡京 趙熠洋 秦熺 張升 張俊

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宋朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 14:59 UTC 版)

中国荒政史」の記事における「宋朝」の解説

宋朝において、これらの制度充実しており、史書にも「宋之為治,一本仁厚。凡賑貧恤患之意,視前代尤為切至(宋朝の治世は、ひたすら徳目である仁を厚くするものであった救貧病人哀れむ態度は、前代に見ることができないくらいであった)」(『宋史食貨志撫恤)とある。なお、鄧拓は、北宋南宋487年前後874回の各種災害遭難していると統計している。 常平倉やそれと類似の機能を持つ広恵倉は、前代引き続き運営され王安石の新法のうち、青苗法は、これらの備蓄米貸し付けるというものであり、備蓄による腐敗損を防ぎ有効利用するという側面見られる。 宋朝は救護施設として福田院(悲田院後継)・居養院(養老設備)・安済坊(医療設備)・養済院(農村離れ都市流入した民衆収容する)等を設置した天禧元年1021年)、宋朝は、首都近郊寺院土地を買いうけ、漏沢園と称する共同埋葬場を整備埋葬者の無い遺体成人600文、幼児はその半額埋葬したまた、地方郷紳階級出資によってもこれらの設備作られた。 医療技術発展にも配慮がなされ、医官院において研究すすめられ、王惟一による鍼灸術大成などがなされた。特に調薬においては、和剤局で整備が行われ、大観年間1107年 - 1110年)に処方集として『和剤局方』が発行され南宋となってから、紹興18年1148年太平恵民局改称後増補版『太平恵民和剤局方』が発行された。日本における、薬局方という用語はこれらに由来する南宋には董煟(中国語版)が『救荒活民書』において過去救荒政策をまとめ、自身考案した政策提唱した乾道7年1171年)、朱熹は五夫社倉創設し、その規範として社倉事目を制定した

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