叙任権闘争とは? わかりやすく解説

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叙任権闘争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/02 21:56 UTC 版)

叙任権闘争(じょにんけんとうそう、: Investiturstreit)は、中世初期において特にローマ皇帝(俗権)がローマ教皇(教権)との間で司教修道院長の任命権(聖職叙任権)をめぐって行った争いのこと[1]


  1. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ). “聖職叙任権闘争”. コトバンク. 株式会社DIGITALIO. 2022年2月2日閲覧。
  2. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ). “ウォルムス協約”. コトバンク. 株式会社DIGITALIO. 2022年2月2日閲覧。


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叙任権闘争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 05:10 UTC 版)

ドイツの歴史」の記事における「叙任権闘争」の解説

ザリエル朝歴代皇帝帝国教会政策行い皇帝強化推し進めていった。一方で皇帝と結びついた教会組織も、土地寄進などを通じて徐々に勢力拡大させた。こうした中、教会組織世俗権力統制下におかれることを批判し教会純化を図る改革運動が、フランスクリュニー修道院などで高まった歴代皇帝真摯にキリスト教世界指導者として振る舞い実際に聖職叙任おおむね適切なものであった。しかし、教会への影響力強化図った教皇グレゴリウス7世は、世俗権力による聖職叙任自体聖職売買とみなし、聖職叙任権手中に収めようとしたのである。その点で、叙任権闘争は単なる宗教問題とどまらず、いわば皇帝育てた果実教皇摘み取ろうとした権力闘争としての性格有した。 叙任権闘争の趨勢決め上で重要な役割果たしたのは、ドイツ内における有力諸侯であった皇帝強化による自らの権力低下懸念した諸侯は、皇帝牽制するためローマ教皇支持回った。こうして皇帝地位脅かされハインリヒ4世は、教皇対す謝罪余儀なくされるカノッサの屈辱)。さらに十字軍運動開始され第1回十字軍軍勢聖地奪ってエルサレム王国建国し、ローマ教皇威光がますます高まったこうした中、ハインリヒ4世息子で次帝のハインリヒ5世が、ローマ教皇ヴォルムス協約を結び、叙任権闘争はひとまず終結した。 この協約皇帝叙任権失ったものの、教会財産封じる権利確保された。そのため、世俗君主として皇帝は、ほとんど揺らいでいない。しかしながら長期に渡る教皇との対立によって、理念としての皇帝深くつけられたのであった。こうして皇帝弱体化していき、皇帝統制が緩む中で各地領邦君主が自らの所領支配の強化専念しはじめた。のちの領邦国家体制萌芽この頃に見いだされる

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叙任権闘争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 17:51 UTC 版)

神聖ローマ帝国」の記事における「叙任権闘争」の解説

詳細は「叙任権闘争」、「カノッサの屈辱」、および「ヴォルムス協約」を参照 ハインリヒ4世黒帝から受け継ぐはずだった王権追い求め教会争って破滅した歴代皇帝教会への介入は、教会堕落食い止めるという正当性があった。教会黒帝教皇叙任権まで握られたのは自業自得であった。しかし傲慢なハインリヒ4世改革派教会内に台頭している状態で教皇正面から対立してしまった。その結果皇帝教会守護者としての権威神権帝権という取り返しがつかないものを失ったハインリヒ4世はわずか5歳ローマ王となったため、治世当初は母アグネス摂政となった。しかし1062年12歳になった王はケルン大司教バイエルン公オットー・フォン・ノルトハイム中心とした諸侯誘拐されてしまう。誘拐した諸侯の間でも権力闘争続き幼主諸侯たちの政争の具となる。多感な時期放置され少年王はわがままで頑固な性格となってしまう。1065年15歳成人した王は王権の強化目指し諸侯対立した自分ないがしろにした諸侯への復讐である。まず自分後見人ということになっていたハンブルク司教アダルベルト追放しバイエルン公オットーからも公位を剥奪したその後、父の黒帝作ったザクセン王室直轄地取り戻すために努力したが、出身地ザクセン戻っていたオットー中心にザクセン貴族反乱起こした1073年始まったザクセン戦争は、1075年国王側の快勝終わって王権復活したかに見えた一方教会ではクリュニー修道会改革派台頭していた。教皇グレゴリウス7世世俗権力からの脱却聖職者綱紀粛正目指していた(グレゴリウス改革)。そしてローマ教皇庁南ドイツ諸侯通してザクセン貴族繋がっていた。1075年教皇俗人による聖職者叙任禁止する教皇勅書発した。王は反発しミラノなどの諸都市既存司教に対して自分の息のかかった司祭対立司教立てるなど、教皇に対して露骨に挑戦した。これは教会堕落とは関係がない単なる政治的行為であったローマ王ローマ教皇激しく争い、王は不倫醜聞元に教皇廃位宣言するが、教皇も王を破門した。 強権的な王を嫌うドイツ諸侯はこれに喜び破門赦免得られなければ国王廃位すると決議した。王は窮地に陥り、政治的支持失っていることに気づかされた。そして1077年北イタリアカノッサ教皇赦免乞う屈辱強いられたカノッサの屈辱)。教皇はここで赦してもいずれ反撃されることは理解していたが、高潔な聖職者志す立場上、破門を解かざるを得なかった。破門口実に過ぎなかった諸侯国王姉婿シュヴァーベン公ルドルフ (en) を対立王立ててなおも抵抗し教皇支持した。しかし1080年10月15日エルスター戦いで王はついに勝利を収めてルドルフ戦死させた。シュヴァーベン公位は王の娘婿であるホーエンシュタウフェン家フリードリヒ1世与えられた。教皇による再度破門は意味を成さず、王はイタリアへ遠征してイタリア王としても戴冠した4年に及ぶ戦いの末に教皇ローマから追い出された。王は自ら立てた対立教皇クレメンス3世によって33歳皇帝として戴冠された。教皇グレゴリウス7世亡命地のサレルノ失意の内に死去した。 それでも教皇庁屈服しなかった。外交名手である教皇ウルバヌス2世南ドイツ北イタリア一帯味方引き入れ、更に1093年には皇帝長男コンラートをも寝返らせた。なお、ウルバヌス2世第一回十字軍派遣呼びかけ名演説を行った人物として有名だが、帝国はこの有様であったので十字軍には不参加である。皇帝1098年コンラート廃嫡して12歳次男後継者としてローマ王選出させた。ハインリヒ5世である。しかし、ハインリヒ5世もまた教皇との和解望み1105年に父を捕らえて幽閉してしまう。皇帝脱出して息子と戦うが、翌1106年55歳死去した父の死去時、ハインリヒ5世19歳であったハインリヒ5世はその治世で叙任権闘争を終結させた。とは言え、なかなかスムーズにはいかなかった。王は1110年よりローマ遠征決行し、一旦は国王有利のポンテ・マンモロ協約結んだ。このとき、王は25歳前後皇帝戴冠された。しかしローマ教会ドイツ引上げ皇帝すぐさま破門。父と同じくザクセン反抗勢力苦しめられ皇帝は、1122年教皇カリストゥス2世との間でヴォルムス協約成立させた。皇帝高位聖職者叙任権放棄し領土の授封のみを留めるという内容で、抗争皇帝敗北終わった実のところ叙任権放棄自体名目のみであったが、教会領は帝国権威従属ではなくなり、徐々に帝国政治体制における独立した諸侯化すことになる。 1125年ハインリヒ5世38歳嫡子無く死去しザーリアー朝断絶した国王選挙が行われ、ザーリアー朝宿敵であるザクセン公ロタール50歳でドイツ王選出されズップリンブルク朝開いたロタール3世)。ハインリヒ5世協力的であった甥でホーエンシュタウフェン家シュヴァーベン公フリードリヒ2世後継者にと望んだが、かなわなかった。

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