五代十国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/10 17:06 UTC 版)
五代十国時代(ごだいじっこくじだい、907年 - 960年)は、中国の唐の滅亡から北宋の成立までの間に、黄河流域を中心とした華北・中原を統治した5つの王朝(五代)と、華中、華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代である。北宋が完全に中国を統一した979年が五代十国時代の終わりとされている場合もある。朱全忠が哀帝より禅譲を受け後梁を建国することで唐は滅んだが、それを地方の軍閥(節度使)達は認めず各地で自立し、中国は多数の国が乱立する分裂の時代へと突入した。
注釈
出典
- 1 五代十国時代とは
- 2 五代十国時代の概要
- 3 歴史
- 4 国々
- 5 主な人物
- 6 参考文献
五代十国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 14:58 UTC 版)
907年、後梁で「許陳汝蔡潁の五州でバッタが発生したが、鳥の大群がこれを皆食べた」という蝗害が起こっている。 928年夏六月、後唐で「バッタが天を覆い、昼から暗くなった」という蝗害が起こっている(『十国春秋』呉越忠懿王世家)。 949年、後漢に宋州で「蝗一夕抱草而死、差官祭之」という害が起こっている。安徽大学(中国語版)の周懐宇は2000年、これを人間が生態系に影響を与えたためと説明している。
※この「五代十国時代」の解説は、「中国蝗災史」の解説の一部です。
「五代十国時代」を含む「中国蝗災史」の記事については、「中国蝗災史」の概要を参照ください。
五代十国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 01:15 UTC 版)
詳細は「五代十国時代」を参照 五代王朝存在年国都初代君主最後の君主滅亡原因後梁907〜923、16年間 開封 朱全忠 朱友貞 後唐の成立 後唐923〜936、13年間 洛陽 李存勗 李従珂 後晋建国・契丹(後の遼)軍の侵入 後晋937〜946、9年間 開封 石敬瑭 石重貴 契丹軍の侵入 後漢946〜950、4年間 開封 劉知遠 劉承祐 後周の成立 後周951〜960、9年間 開封 郭威 柴宗訓 北宋の成立(趙匡胤への禅譲) 十国王朝存在年国都初代君主最後の君主滅亡原因前蜀907〜925、18年間 成都 王建 王衍 後唐による侵攻 後蜀934〜965、31年間 成都 孟知祥 孟昶 宋による併合 呉902〜937、35年間 江都府 楊行密 楊溥 李昪(南唐)に禅譲 南唐937〜975、38年間 江寧府→南昌府→江寧府 李昪 李煜 宋の侵攻 荊南907〜963、56年間 江陵 高季興 高継沖 宋の侵攻 呉越907〜978、71年間 銭塘 銭鏐 銭弘俶 宋に領地献上 閩909〜945、36年間 長楽府 王審知 王延政 南唐の侵攻 楚907〜951、44年間 長沙 馬殷 馬希崇 南唐の侵攻 南漢909〜971、62年間 興王府 劉龑 劉鋹 宋による併合 北漢951〜979、28年間 太原府 劉崇 劉継元 宋による併合 岐 907〜924、17年間 鳳翔 李茂貞 李茂貞 後唐に領地献上 桀燕 911〜913、2年間 幽州 劉守光 劉守光 晋の侵攻 十国は背面を灰色にして示した。
※この「五代十国時代」の解説は、「中国の歴代王朝一覧」の解説の一部です。
「五代十国時代」を含む「中国の歴代王朝一覧」の記事については、「中国の歴代王朝一覧」の概要を参照ください。
五代十国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 08:08 UTC 版)
909年(開平3年)、後梁により宋州に宣武軍節度が置かれた。923年 (同光元年)、後唐により宣武軍節度は帰徳軍節度と改称された。
※この「五代十国時代」の解説は、「宋州 (河南省)」の解説の一部です。
「五代十国時代」を含む「宋州 (河南省)」の記事については、「宋州 (河南省)」の概要を参照ください。
五代十国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 02:24 UTC 版)
917年(乾亨元年)、南漢により循州帰善県に禎州が置かれた。
※この「五代十国時代」の解説は、「恵州」の解説の一部です。
「五代十国時代」を含む「恵州」の記事については、「恵州」の概要を参照ください。
五代十国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 09:35 UTC 版)
五代十国時代の各王王朝では唐制が沿襲され冀州は河北道の管轄とされた。五代において冀州は契丹との国境地帯であったため数多くの戦乱に巻き込まれている。
※この「五代十国時代」の解説は、「冀州」の解説の一部です。
「五代十国時代」を含む「冀州」の記事については、「冀州」の概要を参照ください。
五代十国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 14:46 UTC 版)
五代十国時代は以下の通り。
※この「五代十国時代」の解説は、「元号一覧 (中国)」の解説の一部です。
「五代十国時代」を含む「元号一覧 (中国)」の記事については、「元号一覧 (中国)」の概要を参照ください。
五代十国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 10:00 UTC 版)
唐末、陰涼川に住んでいた奚族は、また阿薈部・啜禾部・粤質部・奴皆部・墨訖支部の5部に分かれた。後に琵琶川に移り住む。 時に契丹の耶律阿保機が強盛となると、室韋・奚・霫はこれに服属した。奚人は常に契丹の守界上となったが、その苛虐に苦しんだ。そこで奚王の去諸は契丹に叛き、別部を率いて西の嬀州へ遷り、北山に依って狩猟生活を始めた。やがてその一族は千帳にもなり、東西に分かれた。また、去諸の一族は農業もできるので、辺境の荒地を耕して農作物を植え、秋には収穫をした。 去諸が死ぬと、子の掃剌が立った。後唐の荘宗は劉守光を破ると、掃剌に李姓と紹威という名を賜った。 李紹威は契丹の娘で舎利逐不魯の姉を娶って妻としたため、後に逐不魯が叛亡して西奚に亡命した時はかくまってやった。 李紹威が亡くなると、子の李拽剌が立つ。同光(923年 - 926年)以後、李紹威父子は数回遣使を送って朝貢した。 契丹の耶律徳光が後晋を滅ぼすと、李拽剌は契丹に服属した。
※この「五代十国時代」の解説は、「奚」の解説の一部です。
「五代十国時代」を含む「奚」の記事については、「奚」の概要を参照ください。
五代十国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:42 UTC 版)
唐ののちに諸国が割拠した五代十国時代には、唐の開元通宝が全国規模で流通を続けており、さらに華北の銅貨流通圏と江南の鉄貨・鉛貨の流通圏に大きく分かれた。銅貨は公的な支払い手段や民間の交換のいずれでも使えたが、銅貨の流通量が不足していたため、各国政府の認めない鉄貨や鉛貨が民間で普及し、銅貨との間に比価が定められるようになった。この時代には以下のような貨幣が使われた。 銅貨:華北の五代王朝の多くは唐の開元通宝を引き継ぎ、開元通宝の流通量は90パーセント以上を占めた。華北の五代王朝では後梁以外が年号銭の銅貨を発行し、すべて小平銭と呼ばれる形態であった。十国では前蜀が6種類の年号銭を発行した。改元ごとに銅貨を発行する政策は、のちに宋で一般的となる。後周のように高麗から銅貨用の銅材料を輸入する国もあった。 鉄貨・鉛貨:東南海岸部の呉越・閩・蜀(前蜀・後蜀)や楚で発行された。ほかに鉛錫貨・鉄鍮貨もある。 銀貨:広東西では唐の時代から金貨や銀貨が使われており、南漢で銀貨が流通したと推測されている。 銅貨の発行量が少ない後唐と後晋では、鉛錫貨・鉄鑞貨・鉛貨の流通が多く、政府はたびたびこれらを禁止した。南漢では鉛貨は都市や商人の間で流通し、農村には銅貨も含めて金属貨幣の流通が少なかった。後周では廃仏を行い、仏像や梵鐘などに使われていた銅を政府で買い上げて銅貨の材料とした。後蜀は銅貨400文と鉄貨600文を混ぜて一貫として数えており、これは国内の銅貨の流出と楚からの鉛貨の流入を防止する目的があったとされる。
※この「五代十国時代」の解説は、「中国の貨幣制度史」の解説の一部です。
「五代十国時代」を含む「中国の貨幣制度史」の記事については、「中国の貨幣制度史」の概要を参照ください。
五代十国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 09:54 UTC 版)
五代十国時代には呉越が成立し杭州はその国都とされ西府(西都)と称された。 呉越国での西府管轄県は下記の通り 銭塘県(府治所在地) 銭江県 塩官県 安国県 富陽県 余杭県 於潜県 新登県 呉昌県 桐廬県 武康県
※この「五代十国時代」の解説は、「杭州」の解説の一部です。
「五代十国時代」を含む「杭州」の記事については、「杭州」の概要を参照ください。
五代十国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/27 02:00 UTC 版)
920年(武義2年)、呉は和州を徳勝軍の管轄とし、南唐もこれによった。958年(顕徳5年)、後周が淮南地区を支配するようになると徳勝軍は保信軍と改称され、和州もこれに移管された。
※この「五代十国時代」の解説は、「和州 (安徽省)」の解説の一部です。
「五代十国時代」を含む「和州 (安徽省)」の記事については、「和州 (安徽省)」の概要を参照ください。
五代十国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/27 02:08 UTC 版)
952年(広順2年)、後周により鄆州鉅野県に済州が置かれた。
※この「五代十国時代」の解説は、「済州 (山東省)」の解説の一部です。
「五代十国時代」を含む「済州 (山東省)」の記事については、「済州 (山東省)」の概要を参照ください。
五代十国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:51 UTC 版)
この時代には、唐からの禅譲の流れで繋がる五代と藩鎮系の十国が互いに争った。
※この「五代十国時代」の解説は、「中国の軍事史」の解説の一部です。
「五代十国時代」を含む「中国の軍事史」の記事については、「中国の軍事史」の概要を参照ください。
五代十国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 16:12 UTC 版)
938年(天福3年)、後晋の高祖石敬瑭が幽州を含む燕雲十六州を契丹(後の遼)に割譲した。契丹は幽州を副都とし燕京と改称、幽州の行政区画名は消滅した。
※この「五代十国時代」の解説は、「幽州」の解説の一部です。
「五代十国時代」を含む「幽州」の記事については、「幽州」の概要を参照ください。
五代十国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 02:24 UTC 版)
923年(同光元年)4月、後唐により鎮州に北都が建てられ、鎮州は真定府と改められた。同年11月、真定府は鎮州の称にもどされた。942年(天福7年)、後晋により鎮州は恒州と改称された。947年(天福12年)、後漢により恒州は鎮州の称にもどされた。948年(乾祐元年)、鎮州は真定府と改められた。951年(広順元年)、後周により真定府は鎮州の称にもどされた。
※この「五代十国時代」の解説は、「恒州 (河北省)」の解説の一部です。
「五代十国時代」を含む「恒州 (河北省)」の記事については、「恒州 (河北省)」の概要を参照ください。
「五代十国時代」の例文・使い方・用例・文例
- 五代十国時代のページへのリンク