史観
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1979年に、黄現璠は「中国民族歴史に奴隷社会がないことについて」という重要な論文を発表し、これをさらに発展させたのが、1981年に成った『中国歴史に奴隷社会がない論』であった。これは1957年に黄現璠で提唱した「奴隷社会跨越論」の継続であった。まさにアメリカ太平洋大学アジア研究センターのジェフリー・G・バロ歴史学教授、およびカリフォルニア大学歴史学教授ジョージ・V・H・モズレーは次々と指摘したとおり、「マルクスの著作に対する理解の混乱があってはっきりと説明できないため、この地区(チワン族地区)の伝統的な中国の解釈の観点は、依然として人びとに懐疑の意を示させた。伝統的な観点によれば、チワン族は宋代の前に奴隷社会に属し、そこで国家を創立することはあり得ない。黄現璠と国際史学界に公認されたチワン族歴史学者は、納得できる自説を展開しており、過去何回も詰問に遭った部分を雄弁に論証した。つまり、伝統的な観点(唯物史観の発展段階論)はチワン族社会を説明することに適しないのだ。」 「この観点のために、黄現璠は非難に何度も遭いた。」 日本国立民族学博物館の塚田誠之(つかだしげゆき)教授は「黄現璠はチワン族社会の発展段階が氏族社会から直接に初期の封建社会に入り、転換の起点が唐宋の時代に始りと思った。それによって、古代チワン族社会性質をめぐる論争を巻き起こした。」と同様に指摘した。つまり黄現璠は、マルクスの発展段階説が全人類史的=全世界史的に見た歴史であって、個々の地域や民族の歴史ではない。従ってヨーロッパ諸国でもそれぞれの国での歴史でも当てはまらず、ましてや中国古代史にも当てはまらない。奴隷社会とか、世界史に通じる用語がない。中国古代史の中に決して奴隷社会が存在しない。特に、マルクスの発展段階説が中国個々の地域史や民族史にそのまま当てはまらない、などと思った。それによって、「黄現璠史観」を確立し、郭沫若の教条主義的な史観に向かって猛烈な批判を展開した。「黄現璠史学」は史料に基づく実証的なものため、これは「郭沫若史学」とある程度異なって、そこで黄現璠の「無奴論」と「奴隷社会跨越論」登場後、これらは、中国歴史学界の普遍的な反応を得た。広西民族大学の莫金山教授が語るところによると、「1979年に、黄現璠は『中国民族歴史に奴隷社会がないことについて』という重要な論文を発表したのちに、張広志、胡鍾達の両教授の熱烈な支持を得た。筆者の大まかな統計によれば、現在の中国史学界では発表したこの種類の文章はすでに百編近くなった。『中国民族歴史に奴隷社会がない』の支持者は日に日に増える各種の兆しがある」と表明した。西安理工大学人文学院の王長坤、魯寛民、尹潔教授が語るところによると、「1979年に、黄現璠は『中国民族歴史に奴隷社会がないことについて』という重要な論文を発表した後に、張広志、胡鍾達、沈長雲など教授の熱烈な支持を得て、その上、支持者はだんだん多くなって、ここ数年来発表したこの種類の文章は百編すでに近くなった。現在には「無奴学派」の支持者はだんだん多くなるようで、1種の熱気あふれるような活況を呈している。それに対し、郭沫若を代表にした「有奴派」の追随者は決して多くなく、新味に乏しく、批判者の力強い挑戦を受けでいる。」青海師範大学の元学長で教授の張広志が語るところによると、「文化大革命10年の時期に、林彪と4人組は毛沢東の名を借りて、郭沫若の中国古代社会発展段階説をただ尊重することに確約した。改革開放後の新しい時代の比較的な自由な学術環境の到来に従って、何人かの学者が根本的に再び中国古代社会発展段階説の問題を検討することに決心を促し、つまり、中国歴史は底に上がって1つ奴隷社会発展段階が存在したかどうか、もしその問題が根本に存在しないならばまた、そこに中国の奴隷制社会と封建社会の時代区分と制限問題を論争するのは、でたらめではないだろうか。改革開放新時期に、古代中国に奴隷社会の発展段階がないと主張している学者は黄現璠、張広志、胡鍾達、沈長雲、晁福林などである」としており、さらに張広志は、「しかも、最初にこの史学ペナルティエリアを突き破りのは黄現璠先生であった」と述べている。 上海復旦大学の陳淳教授は「1979年に、黄現璠は「中国民族歴史に奴隷社会がないことについて」という重要な論文を発表したの後に、引き続いて、張広志も1980年に「中国奴隷制度の歴史地位について」という論文を発表した。1982年まで着いて、だんだん多くなる学者は必ず奴隷社会の発展段階が決して人類歴史全体にあてはまる発展段階ではないことに傾いて、殷商は決して奴隷社会ではないことは中国歴史学界の共通認識になった」と語っている。こうした基礎の上に、改革開放の新時代には中国歴史学界における「無奴学派」(略語「無奴派」)は徐々に形成されていった。このために、黄現璠が中国歴史学界の「無奴学派」(略語「無奴派」) の指導者になられた。後に中国歴史学界では、「無奴派」と「有奴派」に別れ激しい論争を戦わせることとなった。
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史観
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「ミハイロ・フルシェフスキー」の記事における「史観」の解説
フルシェフスキーの史観は、ロシア帝国後期において知識人階級の間で普及していた人民運動思想、自由思想、社会主義思想、東欧連邦の思想などによって形成された。先生であったV・アントノーヴィチ、M・コストマーロウや民間政治家であったM・ドラホマーノウの書物なども大きな影響を与えた。初期のフルシェーウシクィイは政治史よりは社会経済史に興味を示していたが、ウクライナ民族の歴史を研究するに連れて政治・思想史の分野に移った。結果的にフルシェーウシクィイは、国家を持たなかったウクライナ人のために国民国家の歴史を作成させた人物となった。後世においてフルシェーウシクィイによるウクライナ史のパラダイムは、欧米を初め主流的なものとなった。政治家としてのフルシェーウシクィイは、ウクライナの理想の社会を、キエフ・ルーシやコサックなどの議会制に求める一方で、フランス革命が生み出した市民社会にも求めた。
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