ひがしフランク‐おうこく〔‐ワウコク〕【東フランク王国】
東フランク王国
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東フランク王国(ラテン語: Francia orientalis)は9-10世紀に渡って西ヨーロッパに存在した王国である。現在のドイツの原型にあたる。
注釈
出典
- ^ 成瀬他、p. 89
- ^ a b c 成瀬他、p. 92
- ^ 成瀬他、p.91
- ^ 瀬原、p.52-53
- ^ 瀬原、p. 55
- ^ 瀬原、p. 55[注釈 1]
- ^ 瀬原、p. 55-56
- ^ 瀬原、p. 56
- ^ 瀬原、p. 57
- ^ 成瀬他、p. 100
- ^ Goldberg 2006, 73.
- ^ Müller-Mertens 1999, 237.
- ^ シュルツェ、p. 25
- ^ a b シュルツェ、p. 7
- ^ Müller-Mertens 1999, 241.
- ^ Scales 2012, 158.
- ^ Goldberg 1999, 43.
- ^ a b Ullmann 1969, 124–27.
東フランク王国
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843年-962年:詳細は「東フランク王国」を参照。 次代の王ルートヴィヒ1世(敬虔王)の死(840年)後、843年にヴェルダン条約が結ばれフランク王国は3人の息子に分割された。これにより、東フランク王国・西フランク王国・中フランク王国(イタリア王国)が成立した。その後、870年のメルセン条約によって中フランク王国の一部が東西フランク王国に再分割され、領土において現在のドイツ、フランス、イタリアの原形が成立した。ただし、今日のようなドイツ人意識はまだ形成されていない。 911年のカロリング朝断絶後、東フランク王国(ドイツ王国)は選挙王制へと移行し、10世紀初頭にザクセン朝が成立した。初代のハインリヒ1世は、北方でノルマン人を撃退、東方でマジャール人を撃退しまた西スラヴ人諸部族の西への進出を食い止めることに尽力し、ザクセン朝フランク王国の土台を築いた。当時、西フランク王国の王権は極めて弱体で、イタリア王国も事実上崩壊へと向かっており、東フランク王が事実上西欧世界の盟主となっていった。2代目のオットー1世(大帝)は、引き続き侵入する外民族の討伐で活躍し、とりわけマジャール人を955年にレヒフェルトの戦いで撃退した。その一方でまた、イタリア遠征を敢行して教皇位をめぐる混乱を収拾させた。
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