なん‐そう【南宋】
南宋
南宋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 23:41 UTC 版)
「大水滸シリーズの登場人物」の記事における「南宋」の解説
金軍侵攻による宋崩壊後、南京応天府の留守だった宗沢が宋皇室の趙構を皇帝として擁立した国家。金軍の侵攻を受けながらも持ちこたえ、江南全域を統治して成立する。北から移った大商人や方臘の乱から立ち直った生産能力により経済的に発展しつつある。だが成立・発展の全ては青蓮寺の李富と李師師の計画によるものであり、二人の真の目的はその先にある。 史実では、そもそも華北から江南へ国家の中心が経済力の点のみならず、政治権力や人口移動の点でも移行期だったために南宋の建国がスムーズであったという面が大きいが、本作の世界ではそういった事情はあまり触れられず、むしろ南宋建国後に一気に江南の開発が進んだと設定されている。
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南宋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 17:19 UTC 版)
趙構は1127年即位して高宗となり、宋を再興した。はじめ岳飛らの活躍によって金に強固に抵抗するが、秦檜が宰相に就任すると主戦論を抑えて金と和平を結び、岳飛は殺された。秦檜の死後に金の4代皇帝海陵王が侵攻を始めたが、金の皇族の完顔雍(烏禄)が反乱を起こして海陵王は殺され、完顔雍は金の世宗となり、宋と和平を結んだ。同年、高宗は退位して太上皇となり、養子の趙慎が即位して孝宗となった。 孝宗時代には宋金関係は安定し、平和が訪れた。孝宗は無駄な官吏の削減・当時乱発気味であった会子(紙幣)の引き締め・荒廃した農村の救済・江南経済の活性化など様々な改革に取り組み、南宋は戦乱の痛手から復興した。 しかし、1189年に孝宗が退位して上皇、趙惇が即位して光宗となった後、1194年に孝宗が崩御すると韓侂冑らにより光宗は廃位させられ、反対派に対する大量弾圧が起こった(慶元の党禁)。韓侂冑は金がタタールなどの侵入に悩まされている様子を見、北伐の軍を起こすが失敗。1207年、金の要求で韓侂冑を殺して塩漬けの首を送り和睦した。1233年にモンゴル帝国は金の首都開封を陥落させ、南に逃げた金の最後の皇帝哀宗を宋軍と協力して追い詰め、1234年に金は滅びた。 1235年、宋軍は北上して洛陽・開封を回復したが、これはモンゴルとの和約違反であり、モンゴル軍と戦闘状態に入る(モンゴル・南宋戦争)。暫くは長江流域を挟み一進一退を繰り返すが、クビライが襄陽を陥落させる頃には最早内部崩壊により抵抗する力は無く、1276年、モンゴルのバヤンに臨安を占領されて事実上宋は滅亡した。南走して徹底抗戦を続けた一部の皇族・官僚・軍人らも1279年に広州湾の崖山で元軍に撃滅され、宋は完全に滅びた(崖山の戦い)。 なお、元代末期に現れた韓林児(小明王)が、北宋皇帝徽宗後裔(僭称の可能性も高い)を名乗って宋(大宋)を再興するが短命に終わり、後に明を建国する朱元璋(後の洪武帝)に取って替わられた。
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南宋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 16:24 UTC 版)
南宋(1127年 - 1279年) 南宋時代はもはや三大家を生んだ北宋後期の生気はなく、概して書道衰微の時代で、優れた書家は生まれなかった。しかし、禅僧の間に蘇軾・黄庭堅・張即之の独特な書風が流行し、これは日本の鎌倉時代の禅林にも流行した(詳細は禅林墨跡を参照)。また、書道に関する研究書が多く刊行され、これらの著録が後世、書道界を益したことは大きいといえる。
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南宋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 09:54 UTC 版)
南宋になると杭州はその全盛期を迎える。1129年(建炎3年)、行宮が杭州に置かれると杭州府は臨安府と改称され、1138年(紹興8年)には正式な遷都が行われ、杭州は南宋の政治・経済の中心地となった。また都城の防衛のために城壁の拡張工事が行われている。国都となった臨安府の人口は急増し、咸淳年間(1265年-1274年)には124万人にまで増加している。 臨安府の管轄県は下記の9県 銭塘県(府治所在地) 仁和県 塩官県 臨安県 富陽県 余杭県 於潜県 新城県 昌化県
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南宋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 21:04 UTC 版)
岳飛の北伐(中国語版)(1134年~1140年)、岳飛による北宋の失地回復のための、金に対する軍事行動。 張浚の第一次北伐(1136年)、張浚による北宋の失地回復のための、金に対する軍事行動。 張浚の第二次北伐(中国語版)(1163年)、隆興年間、完顔亮殺害に乗じ、失地回復のために張浚により実施された、金に対する軍事行動。 開禧年間の北伐(1206年)、開禧年間に韓侂冑が主導した領土回復を目的とした、金に対する軍事行動。 端平入洛(1234年)、南宋とモンゴル帝国の攻撃で金を滅し、南宋が西京河南府を回復した軍事行動。
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南宋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:50 UTC 版)
代数廟号諡号(略称)名在位年在位年数1 高宗 憲孝皇帝 趙構 1127年 - 1162年 35年 2 孝宗 成孝皇帝 趙眘 1162年 - 1189年 27年 3 光宗 慈孝皇帝 趙惇 1189年 - 1194年 5年 4 寧宗 恭孝皇帝 趙拡 1194年 - 1224年 30年 5 理宗 安孝皇帝 趙昀 1224年 - 1264年 40年 6 度宗 景孝皇帝 趙禥 1264年 - 1274年 10年 7 恭帝 孝恭懿聖皇帝 趙㬎 1274年 - 1276年 2年 8 端宗 愍孝皇帝 趙昰 1276年 - 1278年 2年 9 衛王 なし 趙昺 1278年 - 1279年 1年 1129年、高宗は一旦退位して、元懿太子趙旉に帝位を譲ったが、同年、復位した。
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