南宋とは? わかりやすく解説

なん‐そう【南宋】

読み方:なんそう

中国国名靖康(せいこう)の変で宋の皇帝らが金に連れ去られた後、1127年高宗江南拠り臨安を都として再建した王朝1279年、金に代わった元に滅ぼされた。


南宋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/02 02:57 UTC 版)

南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安であった。




「南宋」の続きの解説一覧

南宋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 23:41 UTC 版)

大水滸シリーズの登場人物」の記事における「南宋」の解説

金軍侵攻による宋崩壊後南京応天府留守だった宗沢が宋皇室趙構皇帝として擁立した国家金軍侵攻を受けながらも持ちこたえ、江南全域統治して成立する北から移った大商人方臘の乱から立ち直った生産能力により経済的に発展しつつある。だが成立発展全て青蓮寺李富李師師計画よるものであり、二人真の目的その先にある。 史実では、そもそも華北から江南国家中心経済力の点のみならず政治権力人口移動の点でも移行期だったために南宋の建国スムーズであったという面が大きいが、本作世界ではそういった事情はあまり触れられず、むしろ南宋建国後一気江南の開発進んだ設定されている。

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南宋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 17:19 UTC 版)

宋 (王朝)」の記事における「南宋」の解説

趙構1127年即位して高宗となり、宋を再興した。はじめ岳飛らの活躍によって金に強固に抵抗するが、秦檜宰相就任する主戦論抑えて金と和平を結び、岳飛殺された。秦檜死後に金の4代皇帝海陵王侵攻始めたが、金の皇族完顔雍(烏禄)が反乱起こして海陵王殺され完顔雍は金の世宗となり、宋と和平結んだ同年高宗退位し太上皇となり、養子趙慎即位して孝宗となった孝宗時代には宋金関係は安定し、平和が訪れた孝宗無駄な官吏削減当時乱発気味であった会子紙幣)の引き締め荒廃した農村救済江南経済活性化など様々な改革取り組み、南宋は戦乱痛手から復興した。 しかし、1189年孝宗退位し上皇趙惇即位して光宗となった後、1194年孝宗崩御する韓侂冑らにより光宗廃位させられ反対派対す大量弾圧起こった慶元の党禁)。韓侂冑は金がタタールなどの侵入悩まされている様子を見、北伐の軍を起こす失敗1207年、金の要求韓侂冑殺して塩漬けの首を送り和睦した1233年モンゴル帝国は金の首都開封陥落させ、南に逃げた金の最後の皇帝哀宗を宋軍と協力して追い詰め1234年に金は滅びた1235年、宋軍は北上して洛陽開封回復したが、これはモンゴルとの和約違反であり、モンゴル軍戦闘状態に入る(モンゴル・南宋戦争)。暫く長江流域挟み一進一退繰り返すが、クビライ襄陽陥落させる頃には最早内部崩壊により抵抗する力は無く1276年モンゴルバヤン臨安占領され事実上宋は滅亡した。南走して徹底抗戦続けた一部皇族官僚・軍人らも1279年広州湾の崖山で元軍に撃滅され、宋は完全に滅びた崖山の戦い)。 なお、元代末期現れ韓林児小明王)が、北宋皇帝徽宗後裔僭称可能性も高い)を名乗って宋(大宋)を再興する短命に終わり、後に明を建国する朱元璋(後の洪武帝に取って替わられた。

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南宋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 16:24 UTC 版)

中国の書道史」の記事における「南宋」の解説

南宋(1127年 - 1279年南宋時代はもはや三大家を生んだ北宋後期生気はなく、概して書道衰微時代で、優れた書家生まれなかった。しかし、禅僧の間に蘇軾黄庭堅・張即之の独特な書風流行し、これは日本鎌倉時代禅林にも流行した詳細禅林墨跡参照)。また、書道に関する研究書多く刊行され、これらの著録後世書道界益したことは大きといえる

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南宋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 09:54 UTC 版)

杭州」の記事における「南宋」の解説

南宋になると杭州はその全盛期迎える。1129年建炎3年)、行宮杭州置かれる杭州府臨安府改称され1138年紹興8年)には正式な遷都が行われ、杭州は南宋の政治・経済中心地となった。また都城防衛のために城壁拡張工事が行われている。国都となった臨安府人口急増し咸淳年間1265年-1274年)には124万人にまで増加している。 臨安府管轄県下記の9県 銭塘県(府治所在地仁和県 塩官県 臨安県 富陽県 余杭県 於潜県 新城県 昌化県

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南宋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 21:04 UTC 版)

北伐」の記事における「南宋」の解説

岳飛北伐中国語版)(1134年1140年)、岳飛による北宋失地回復のための、金に対す軍事行動張浚第一次北伐1136年)、張浚による北宋失地回復のための、金に対す軍事行動張浚第二次北伐中国語版)(1163年)、隆興年間完顔殺害乗じ失地回復のために張浚により実施された、金に対す軍事行動開禧年間北伐1206年)、開禧年間韓侂冑主導した領土回復目的とした、金に対す軍事行動端平入洛1234年)、南宋とモンゴル帝国攻撃で金を滅し、南宋が西京河南府回復した軍事行動

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南宋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:50 UTC 版)

中国帝王一覧」の記事における「南宋」の解説

代数廟号諡号(略称)名在位年在位年数1 高宗 憲孝皇帝 趙構 1127年 - 1162年 35年 2 孝宗 成孝皇帝 趙眘 1162年 - 1189年 27年 3 光宗 慈孝皇帝 趙惇 1189年 - 1194年 5年 4 寧宗 恭孝皇帝 趙拡 1194年 - 1224年 30年 5 理宗 安孝皇帝 趙昀 1224年 - 1264年 40年 6 度宗 景孝皇帝 趙禥 1264年 - 1274年 10年 7 恭帝 孝恭懿聖皇帝 趙㬎 1274年 - 1276年 2年 8 端宗 愍孝皇帝 趙昰 1276年 - 1278年 2年 9 衛王 なし 趙昺 1278年 - 1279年 1年 1129年高宗は一旦退位して、元懿太子趙旉帝位譲ったが、同年復位した

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