慶元党禁
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慶元党禁(けいげんとうきん)は、南宋が慶元元年(1195年)以後、程学(北宋の程顥・程頤兄弟の学説およびその流れをくむ学説)を「偽学」として排斥し、その流れに属する学者や政治家の仕官や著書の流布を禁じたこと、程学の中でも朱熹およびその学説(後の朱子学)が主たる禁止対象とされたことから、朱子学への弾圧事件として知られている。慶元の党禁(けいげんのとうきん)とも。
- ^ 新法党と旧法党の対立の背景には法令そのものだけではなく、王安石の学説やそれを背景とした教育改革に対する反対論もあった。
- ^ 『両朝綱目備要』巻3, 紹熙五年十一月戊子朔条
- ^ 『宋史全文』巻28, 紹熙五年閏月戊寅条
- ^ 『宋史』巻396, 王淮伝
- ^ 弾劾の背景として「陳亮と唐仲友の争いで前者の肩をもった」「唐仲友が蘇学の信奉者であった」などの諸説があるが真相は不明である。詳細は衣川、2006年 pp.282-286参照のこと。
- ^ “病気”は表向きの口実で、実際には現実の宰相たちの政治に対して痛烈に批判を行ってきた朱熹の理想主義的言動に原因があり、反対派にも承知の事実であった。
- ^ この処分によって朱熹は秘閣修撰という官職を取り上げられ、提挙南京鴻慶宮という祠官の地位を罷免された。
- ^ 『宋史』巻42, 理宗紀二 淳祐元年正月甲辰条。
- ^ 衣川、2006年 pp.464-468
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