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かんう くわん― 【関羽】
(2)歌舞伎十八番の一。藤本斗文(とぶん)作。1737年河原崎座にて二世市川団十郎が「閏月仁景清(うるおいづきににんかげきよ)」の大詰めで初演。景清が中国の英雄関羽または張飛の姿で荒事を見せるもの。
三国志小事典 |
関羽
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故あって郷里を去り涿郡に逃亡。劉備が黄巾党討伐のため兵を集めていると聞き、張飛とともに彼に仕えた。劉備が平原相になると張飛とともに別部司馬に任命される。のち劉備が徐州牧になると呂布が徐州に入って劉備と同盟したが、このとき下邳の守備を命じられた。呂布に裏切られた劉備らが許の曹操を頼ると、曹操殺害を勧めたが受け入れられなかった。 董承の曹操暗殺計画が露見すると劉備は小沛に逃れたが、関羽は下邳の守備と統治を行った。徐州の統治を任されたともいう。しかし建安五年(二〇〇)、曹操が小沛・徐州を攻撃すると、劉備は敗れて袁紹を頼って亡命し、関羽は曹操に捕らわれた。曹操は関羽の人柄に感じ入り、彼を偏将軍に任じて厚遇を尽したが、関羽は「曹公の厚恩は有難いが死を誓い合った劉将軍を裏切ることはできぬ。必ず手柄を立てて曹公に恩返ししたうえで立ち去りたい」と張遼に告げた。曹操は張遼とともに袁紹の将軍顔良を撃たせたが、関羽は敵軍勢の真っ只中に斬り込んで顔良を討ち、大軍を物ともせず首級を提げて帰陣した。この功により漢寿亭侯に封じられた。関羽は曹操からの恩賞を封印して劉備のもとに去った。曹操は「主君のため忠義を尽しているのだ。彼を追ってはならぬ」と部下に命じる。 劉備とともに劉表に身を寄せたが、劉表が死んで曹操軍が南下すると別働隊として数百艘の水軍を預けられ、漢津まで来たところで長阪で敗れた劉備軍と出会い、彼らを船に乗せて夏口まで進んだ。赤壁の戦いののち劉備が荊州南四郡を攻略すると、襄陽太守・盪寇将軍に任じられて長江北岸に駐屯した。さらに益州が平定されると荊州の監督を一任される。 建安二十四年(二一九)に劉備が漢中王に就くと前将軍に任命され、節鉞を与えられた。曹仁が立て籠もる樊城を攻め、秋になって長雨が降ると曹仁の援軍として駆け付けた于禁の軍勢は水没し、于禁を捕虜とし龐悳を斬った。曹操は荊州に近い許を拠点としていたため関羽を恐れて遷都を諮ったが、司馬懿らの計略により孫権と関羽を仲違いさせた。また関羽は傲慢な性格だったため南郡太守麋芳・将軍士仁の恨みを買っていた。麋芳と士仁は支援を怠り、関羽の怒りを恐れて孫権に降った。さらに曹操も徐晃を遣して曹仁を助けたので関羽は敗北し、荊州江陵城は陥落して孫権のものとなる。孫権軍の攻撃を受けた関羽は臨沮の地で子の関平とともに斬られた。孫権は彼の首級を曹操に送り、曹操は諸侯の礼をもって関羽を葬った。 のち蜀が建国されて劉禅が皇帝のとき、関羽は壮穆侯と諡された。 【参照】于禁 / 袁紹 / 関平 / 顔良 / 士仁 / 司馬懿 / 徐晃 / 曹仁 / 曹操 / 孫権 / 張飛 / 張遼 / 董承 / 麋芳 / 龐悳 / 劉禅 / 劉備 / 劉表 / 呂布 / 益州 / 解県 / 夏口 / 河東郡 / 下邳国 / 漢寿亭 / 漢津 / 漢中郡 / 許県 / 荊州 / 江陵県 / 徐州 / 沛県(小沛県) / 襄陽郡 / 蜀 / 赤壁 / 涿郡 / 長江 / 長阪 / 南郡 / 平原国 / 樊城 / 臨沮県 / 王 / 相 / 前将軍 / 将軍 / 太守 / 亭侯 / 盪寇将軍 / 都督(董督) / 別部司馬 / 偏将軍 / 牧 / 諡 / 黄巾党 / 節鉞 / 壮穆侯 |
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関羽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/04 13:25 UTC 版)
関 羽(かん う、? - 建安24年(219年[1]))は、中国後漢末期の武将。字は雲長(うんちょう)。元の字は長生。司隷・河東郡解(現在の山西省運城市常平郷常平村)の人。子に関平・関興。孫に関統・関彝。
三国時代の蜀(蜀漢)の創始者である劉備に仕えた武将。その人並み外れた武勇や義理を重んじる人物は敵の曹操や多くの同時代人から称賛された。後漢から贈られた封号は漢寿亭侯、諡は壮穆侯だが、諡号は歴代王朝から多数贈られた(爵諡を参照)。
悲劇的な死を遂げたが、後世の人間より神格化され関帝(関聖帝君・関帝聖君)となり、47人目の神とされた。信義に厚い事などから、現在では商売の神として世界中の中華街で祭られている。そろばんを発明したという伝説まである。
『三国志演義』では、「雲長、関雲長或いは関公、関某と呼ばれ、一貫して諱を名指しされていない」、「大活躍する場面が壮麗に描かれている」など、前述の関帝信仰に起因すると思われる特別扱いを受けている。
見事な鬚髯(鬚=あごひげ、髯=ほほひげ)をたくわえていたため、『三国志演義』などでは「美髯公」などとも呼ばれる。
- ^ 『三国志』呉志「呉主伝」
- ^ 出身地は中国最大の塩湖である「解池」の近くにあり、そのため塩の密売に関っていたという推測もある。また、地元・山西省の伝承によると、暴利をむさぼる塩商人を殺し、官吏に追われて幽州に逃げ、おそらく姓名を変えて関羽と名乗ったともいわれる(今泉恂之介『関羽伝』)。
- ^ 山西省の研究では、関羽は劉備より年上ながら、劉備を兄として仕えたといわれている(前掲、今泉『関羽伝』)。
- ^ 『魏書』によると、関羽が徐州を治めたという。
- ^ 『三国志』蜀志「先主伝」によると、劉備の牙爪となる武臣として、張飛・馬超と共に関羽の名がその筆頭にあがっている。
- ^ この『三国志』の記述から膨らませたと思われる民間伝承に、「関三小姐(あるいは関銀屏)」の存在がある。彼女はその通称の通り関羽の三女とされ、関羽死後に李恢の子、李遺に嫁いでいる。この説話に基づき、李恢の出身地である建寧郡兪元県(現在の澄江県)には夫婦の墓が存在している。
- ^ 「虎の娘を犬の子にはやらん」との発言が『演義』等に見られるが、正史には見られない。ただし、注に引かれた『典略』によると、孫権は関羽に救援を申し出ていながら、わざとゆっくり兵を進めさせた。そこで関羽は「狢子」と孫権を罵倒したため、孫権は下手に出て陳謝したという。「狢子」は、江東など南方の住人に対する蔑称の一つである。
- ^ この記事を引いた裴松之は、関羽を襲撃した呂蒙は密かに兵を進めたが、援軍を送る約束をしていたならそのようにする必要はなかったとして、この記事の信憑性に疑問を呈している。
- ^ 『三国志』呉志「呉主伝」によると、孫権の側から曹操に対し、関羽を討つ申し出があったこととなっている。
- ^ 『典略』によると、関羽は孫権に援助を出すことを要求し、援助が遅いことに怒りを覚え、孫権の使者を罵倒したこともあったという。関羽#cite_note-6参照。
- ^ 『三国志』呉志「呉主伝」によると閏10月
- ^ 『蜀記』によると、関羽と徐晃は旧知の間柄で、再会して世間話を交わしたという。
- ^ 『三国志』魏志「趙儼伝」
- ^ 『三国志』呉志「呂蒙伝」によると、孫権は朱然と潘璋に命じて関羽の退路を塞がせたとある。また同書「呉主伝」によると、章郷で潘璋の部下の馬忠が関羽・関平・趙累を捕虜としたという。
- ^ 『蜀記』によれば、孫権は関羽を部下として使いたいと考えたところ、側近に「曹操は彼を殺さなかった為に、遷都まで考える事態となった」と進言され、諦めたという記述が残る。だが裴松之は、「正史の記述から、関羽は臨沮で即座に斬殺されており、おそらく江陵に居たであろう孫権に同意を求める事は不可能だろう」と推測している。また、『三国志』呉志「諸葛瑾伝」注によれば、裴松之は「孫権は関羽を討伐した事により、後漢王室の為に尽くすという大義名分は失われた」と評している。
- ^ 『江表伝』
- ^ 関羽は庶人から成り上がっており、元々士大夫より低い身分だった。反対に張飛は部下には苛酷だが、士大夫は尊敬するという性格であった
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陳壽: 三國志/卷36#.E9.97.9C.E7.BE.BD - ウィキソース
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- クイーンズゲイト 蜀の武神 関羽 ホビージャパン
- 一騎当千 -関羽雲長・編-<フルカラー版> (ガムコミックス) 塩崎 雄二 ワニブックス
- 関羽: 神になった「三国志」の英雄 (筑摩選書) 渡邉 義浩 筑摩書房
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