曹仁
字は子孝。沛国譙の人。太祖曹操の従弟にあたる。祖父を曹褒、父を曹熾といった。 曹仁は若いころから弓馬や狩猟を好み、のちに豪傑たちが一斉に立ち上がると、曹仁もまた密かに少年たちと組んで千人余りを手に入れ、淮水・泗水の一帯を駆けずりまわった。 太祖に従って別部司馬となり、厲鋒校尉を行った。太祖が袁術を撃破したときには、曹仁の斬首捕獲が大変多かった。徐州征討に従軍し、曹仁はいつも騎兵を監督して先鋒を務め、別働隊として陶謙の将呂由を攻撃、これを打ち破った。引き返して彭城にて本隊に合流し、陶謙軍を大破した。費・華・即丘・開陽の攻撃にも従軍し、陶謙が別働隊を派遣してそれらを救援しようとしたので、曹仁は騎兵でもってこれを撃破した。太祖が呂布を征討すると、曹仁は別働隊として句容を攻撃、これを陥落させて呂布の将劉何を生け捕りにした。 太祖が黄巾賊を平定して天子を迎え入れ、許へ遷都させたとき、曹仁はたびたび武功を立てて広陽太守に任じられた。太祖は彼の武勇軍略に期待していたので任地へ行かせたくなく、議郎として騎兵を監督させた。 太祖が張繡を征伐したときには、曹仁は別働隊として近隣の諸県を平定、男女三千人余りを生け捕りにした。太祖の軍勢が引き揚げようとして張繡の追撃を受け、合戦は不利、士気は喪失したとき、曹仁が将兵を率いつつ励まし、はなはだ勇猛であったので、太祖はそれを壮快に思った。こうして張繡を打ち破ることができた。 太祖と袁紹とが官渡にて長いあいだ対峙していたとき、袁紹が劉備を派遣して〓彊を攻略させると、近隣諸県の多くが挙兵してこれに呼応したため、許以南では官吏も民衆も不穏であった。太祖が憂慮していると曹仁が言った。「大軍が目前の急務に追われている情勢により、南方では救援を期待できないだろうと思っております。劉備が精兵を率いて向かってくれば、彼らが叛逆するのも当然です。(しかし)劉備は袁紹の兵を率いるのが初めてなので、まだ思い通りに扱うことができません。攻撃すれば撃破することができましょう。」太祖はその言葉に喜び、騎兵を率いさせて劉備を攻撃させ、彼らを潰走させた。曹仁は叛逆した諸県をことごとく回復してから帰還した。 袁紹が別働隊として韓荀に西道を遮断させると、曹仁は鶏洛山にて韓荀を攻撃し、これを大破した。それ以来、袁紹はもう軍勢を分けて出そうとはしなくなった。(曹仁は)また史渙らとともに袁紹の輜重車を襲い、その食糧を焼き払った。 河北が平定されたのち、壺関包囲に従軍した。太祖は「城が陥落したら一人残らず生き埋めにせよ」と命じてあったが、月をまたいでも陥落させられなかった。曹仁は太祖に言上した。「城を包囲するときに必ず抜け道を見せておくのは、彼らの生きる道を開いてやるためです。いま公は必殺を予告しておられますので、彼らは自分の意志で守備に就き、しかも城郭は堅固で食糧も多く、これを攻撃しても士卒が傷付くだけ、包囲を固めても日にちがかかるだけです。いま堅城の下で軍勢をつまづかせ、必死の敵を攻めるのは良計ではございませぬ。」太祖がそれを聞き入れると、城は降服した。これにより、曹仁は前後の功績が評価されて都亭侯に封ぜられた。 荊州平定に従軍したあと、(太祖は)曹仁に征南将軍を行わせて江陵に残し、呉将周瑜を防がせた。周瑜が数万の軍勢を率いて来襲し、先鋒数千人が最初に着陣した。曹仁は城郭に登ってそれを眺めると、三百人を募集し、部曲将牛金を迎撃に出して戦わせた。賊兵は多く、牛金の軍勢は少なく、すっかり包囲されてしまった。長史陳矯は曹仁と一緒に城郭の上にいて、牛金らが今にも殺されそうになっているのを見て、左右の者はみな顔色を失った。曹仁の気迫憤怒は激しく、左右の者に「馬を引けい」と命じた。 陳矯らが一斉に彼を押しとどめて「賊軍は多勢、対抗できませぬ。数百人を棄てたとて何の苦になりましょうや。それを将軍おんみずからお出ましとは!」と言った。曹仁は答えず、甲冑に身を固めて馬に跨り、麾下の勇者数十騎を連れて城外へ討って出た。賊軍の手前百歩余りの塹壕まで行ったとき、陳矯らは曹仁が塹壕の傍らに留まって牛金支援の構えを取るものと思っていたところ、曹仁はそのまま塹壕を越えてまっすぐ賊軍の包囲陣へ突き入った。 牛金らはようよう抜け出したが、残りの連中がまだ抜け切れていなかったので、曹仁はすぐさま引き返して突入し、牛金の手勢を救い出した。配下の数人を失っただけで、賊軍はとうとう撤退した。陳矯らは曹仁が城を出たとき、みな恐怖したが、曹仁が帰ってくるのを見ると「将軍はまことの天人でございます!」とため息を吐いた。三軍はその勇敢さに心服した。太祖はますます壮快に思い、安平亭侯に転封してやった。 太祖は馬超を討伐したとき、曹仁に安西将軍を行わせ、諸将を監督して潼関を守りつつ、渭水の南岸で馬超を撃破した。蘇伯・田銀が反乱すると、曹仁に驍騎将軍を行わせ、七軍を都督させて田銀らを討伐させ、これを打ち破った。また曹仁に征南将軍を行わせて節を仮し、樊城に屯して荊州を鎮めさせた。侯音が宛城をこぞって叛逆し、近隣の諸県を攻略して数千人を集めると、曹仁は諸軍を率いて侯音を攻め破り、その首を斬って樊城へ帰還した。即日、征南将軍を拝命した。 関羽が樊城に攻撃をかけてきたとき、漢水が氾濫して于禁らの七軍が水没してしまい、于禁は関羽に投降した。曹仁は人馬数千人で城を守っていたが、城は数板を残してすっかり水没していた。関羽が船に乗って城外に現れ、幾重にも包囲したため内外(の連絡)は断絶し、食糧も底を突きそうだったが援軍は到着しなかった。曹仁が将兵を激励して決死の覚悟を示すと、将兵は感銘を受けてみな二心を捨てた。徐晃の救援が到着し、また水位も少しづつ減ってきた。徐晃が城外から関羽を攻撃したので、曹仁は包囲陣をもみ潰しながら城外へ出ることができた。関羽は退却した。 曹仁は若いころ行儀が悪かったが、成長して将軍になってからは、厳正粛々と法令を守り、いつも左右に控えた法律書を検討しながら職務にあたった。鄢陵侯曹彰が烏丸の北征に出るとき、文帝(曹丕)は東宮から曹彰へ手紙を送って「将軍として法令を守るには、征南ほどでなければならぬ!」と戒めた。(文帝は)王に即位すると、曹仁を車騎将軍、都督荊・揚・益州諸軍事に任じ、封爵を陳侯に進め、二千戸を加増して都合三千五百戸とした。曹仁の父曹熾に諡して陳穆侯とし、墓守十戸を与えた。曹仁は群臣諸将とともに帝位に上るよう曹丕に勧めた《隷釈》。 のちに召し返されて宛城に屯した。孫権が将陳邵に命じて襄陽を占拠させたとき、詔勅によって曹仁がこれを討伐した。曹仁は徐晃とともに陳邵を攻め破り、そのまま襄陽に入城し、将軍高遷らに命じて漢水南岸の従順な民衆を北岸へ移住させた。文帝は使者を派遣して曹仁をその場で大将軍に任じ、さらに詔勅を下して曹仁を臨潁に移駐させた。大司馬に昇進させ、また諸軍を監督させて烏江を押さえさせた。(のちに)召し返して合肥に屯させた。 【参照】于禁 / 袁術 / 袁紹 / 関羽 / 韓猛(韓荀) / 牛金 / 侯音 / 高遷 / 史渙 / 周瑜 / 徐晃 / 蘇伯 / 曹熾 / 曹彰 / 曹操 / 曹丕 / 曹褒 / 孫権 / 張繡 / 陳矯 / 陳邵 / 田銀 / 陶謙 / 馬超 / 劉何 / 劉協(天子) / 劉備 / 呂布 / 呂由 / 安平亭 / 渭水 / 〓強侯国(〓彊侯国) / 烏江 / 益州 / 宛県 / 鄢陵県 / 華県 / 開陽県 / 合肥侯国 / 河北 / 漢水 / 官渡 / 許県 / 荊州 / 鶏洛山 / 呉 / 広陽郡 / 句容県 / 江陵県 / 壺関県 / 泗水 / 譙県 / 襄陽県 / 徐州 / 即丘侯国 / 陳県 / 潼関 / 沛国 / 樊城 / 費侯国 / 彭城国 / 揚州 / 臨潁県 / 淮水 / 安西将軍 / 王 / 仮節 / 驍騎将軍 / 議郎 / 侯 / 車騎将軍 / 征南将軍 / 大司馬 / 太守 / 大将軍 / 忠侯 / 長史 / 亭侯 / 都亭侯 / 都督 / 別部司馬 / 穆侯 / 厲鋒校尉 / 烏丸 / 諡 / 行 / 黄巾賊 / 部曲将 |
曹仁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/21 10:54 UTC 版)
曹仁 | |
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清代の曹仁の肖像 | |
魏 陳侯・大将軍・大司馬 | |
出生 | 建寧元年(168年) 豫州沛国譙県 |
死去 | 黄初4年3月19日(223年5月6日) |
拼音 | Cáo Rén |
字 | 子孝 |
諡号 | 忠侯 |
主君 | 曹操→曹丕 |
曹 仁(そう じん、建寧元年(168年) - 黄初4年3月19日(223年5月6日))は、中国後漢末期から三国時代の武将。字は子孝(しこう)。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の人。祖父は曹褒、父は曹熾[1]、侍中・長水校尉)。 従兄は曹操。弟は曹純。子は曹泰・曹楷・曹範ら。孫は曹初(曹泰の子)。『三国志』魏志「諸夏侯曹伝」に伝がある。
騎兵を指揮して各地を転戦し、後には防衛司令官となり、晩年は大将軍・大司馬にまで昇った。
一族
宦官曹騰の次兄・潁川太守曹褒の孫で曹熾の子で、曹操と同族である。
1974年から1977年にかけて、安徽省亳州市譙城区(漢代の沛国譙県)の城南一帯で古墳群が発掘(曹氏公園と名づけられる)された。 調査の結果、この古墳群は曹一族の墓と判明した。それによると「大長秋曹騰、会稽曹君(曹胤)、故潁川太守曹褒、長水校尉曹熾、呉郡太守曹鼎…」と曹一族の名が記されている[2]。
生涯
曹操軍の騎兵隊長
武勇に優れ、若いころから弓術・馬術・狩猟を好んだ。父は弟の曹純が14歳のときに亡くなったが、曹仁は曹純とは別居していたという。
豪傑が並び起った後、密かに若者千人余りを集め、淮水・泗水(徐州のこと)で暴れまわった。その後、曹操の配下に入り、別部司馬・行厲鋒校尉となった。
193年、袁術との戦いで多くの敵兵を斬首・捕獲した。さらに、陶謙との戦いでは騎兵を率いて先鋒となり、別軍を指揮して陶謙の部将である呂由を破り、彭城において本軍に合流し、そこでも大いに功績を挙げた。曹操が費・華・即墨・開陽を攻撃すると、陶謙が援軍を派遣してきたが、曹仁は再び騎兵を率いて、これを大いに破った。
194年からの呂布との戦いでは、別軍を指揮して句陽を攻め落とし、呂布の部将の劉何を捕虜にした。
196年、曹操が豫州の黄巾賊を討伐し、献帝を迎えて許昌を都に置いた際、曹仁はしばしば功績を立て、広陽太守に任命された。しかし、曹操は曹仁の勇気と智略を評価していたので、広陽郡に赴任させずに、騎兵隊を指揮させたまま議郎とした。
197年、宛の張繡との戦いで、曹仁は別軍を指揮して近隣の県を攻撃し、男女三千人余りを捕虜にした。曹操が撤退中に張繡の追撃を受けて敗北すると軍は士気を失ったが、曹仁は指揮下の将兵を励まし、大いに奮戦した。曹操は曹仁の働きに深く感嘆し、かくて張繡を破った。
199年春2月、河内の張楊が暗殺され、その旧部下が曹操派と袁紹派に分かれて対立し、袁紹派の眭固が主導権を握り、射犬に駐屯して袁紹の軍を呼び寄せようとした。夏4月、曹仁は曹操の命令で、史渙らと共に、袁紹と合流しようとした眭固を犬城において破り、斬った。
200年、曹操と袁紹が決戦したときは、袁紹の部将の劉備が㶏強を攻撃し、多くの諸県を袁紹側に寝返らせていたため、曹操は不安になった。曹仁は曹操に対し、「劉備が指揮しているのは袁紹の兵ですから、その運用に慣れておらず、戦えば勝てます」と主張し、曹操はこれを良しとした。曹仁は騎兵を指揮して劉備を破り、離反した諸県を全て奪回して帰還した。
袁紹は部将の韓猛を使って西方の交通の遮断をしようとしたが、曹仁は鶏洛山で韓猛を大破した。このため袁紹はそれを諦めた。また、史渙らと共に袁紹の兵糧車を襲撃し、これを焼き払った。
205年、高幹の立て籠もる壷関を包囲した際、曹操は「敵は一人残らず穴埋めにせよ」と布令し、連月しても下すことができなかった。曹仁は「城を囲む時には必ず活門を示し、生きる道を開けておくものです。必ず殺すことを告げて固い城を攻めるのは、良策ではありません」と諫めた。曹操がこの意見に従うと、敵は降伏した。曹仁は前後の功績により都亭侯に封じられた。
荊州防衛戦
208年、荊州の南郡攻防戦で曹仁は行征南将軍として江陵を守り、孫権軍の都督周瑜と戦った。周瑜が数万の兵を率いて来襲すると、曹仁は部将の牛金に300の兵を与え、周瑜軍の先鋒の6000騎の軍勢と戦わせるが、牛金は包囲された。これを見た長吏の陳矯らは青ざめたが、曹仁は激怒し、陳矯の制止を振り切って直属の勇士数十騎を引き連れ出城した。堀を渡ってそのまま敵陣に突入し、果敢に牛金を救助した後、取り残された兵がいたので再び敵陣に突入して救出した。敵軍は後退し、陳矯らは曹仁の勇敢さを「将軍は真に天人也」と称賛し、三軍は心服した。曹操も曹仁の功績を評価し、安平亭侯に国替えした。
戦いは1年余り続き(「呉主伝」)、曹仁は周瑜に傷を負わせるなど善戦したが、結局は周瑜らに敗れ江陵を失った(「周瑜伝」)。江陵の北道を関羽が絶ち切っていたが、汝南から駆け付けた李通が関羽を攻撃し、自ら包囲に突入して曹仁を救出した(「李通伝」)。
211年3月、馬超が反乱を起こすと、曹操は曹仁を行安西将軍に任命して防御軍の司令官とし、自身が到着するまで潼関を守備させた。7月に曹操が布陣し、9月には馬超を渭南で破った(潼関の戦い)。
河間で蘇伯と田銀が反乱を起こすと、曹仁は行驍騎将軍に任命され、七軍の司令官としてその追討にあたった。その後、再び行征南将軍となり、仮節として樊城に駐屯し、荊州を鎮守した。
218年10月、南陽太守東里袞の過酷な軍務が原因で、宛の豪族の侯音・衛開らが謀反を起こし、関羽と連合して近県を略奪した。曹仁は龐徳ら諸軍の指揮を執ってこれを討伐し、放逐された東里袞と合流した。翌219年正月、宛城を陥落させて侯音らを処刑し、樊城に帰還した。正式に征南将軍に任命された。
関羽との荊州争奪戦では、連日の悪天豪雨によって漢水が氾濫し、樊城の外に駐屯していた龐徳は水没して関羽に斬られた。援軍の于禁ら七軍も水没し、関羽に降伏した。関羽は船を並べて水没した樊城を包囲し、曹仁の手元には数千の人馬しか残っていなかったが、満寵と共に徐晃の援軍到達まで軍規を徹底し、兵を鼓舞してよく守り、その猛攻を防ぎ切った。徐晃が外部から関羽を攻撃すると、曹仁も城から出て関羽を攻撃し、関羽を撤退させた(樊城の戦い)。
魏朝成立以降
220年、曹丕(文帝)が魏王につくと、使持節・車騎将軍・都督荊揚益三州諸軍事・陳侯に昇進し、2000戸の加増を受け、領邑計3500戸となった。父の曹熾にも陳穆侯が追贈され、墓守りの家が10軒つけられた。
中央では「樊城・襄陽には食糧がないので防ぐことができない」との意見が出され、曹仁は渋りつつも荊州北部を捨てて宛に撤退したが、案の定襄陽を孫権に占拠されてしまった。その後、徐晃らと共に襄陽に立て篭る呉の陳邵を破り、襄陽を奪還した。将軍の高遷に命じて、漢水南部の住民を北部に移住させるように計らった。
221年4月、文帝は曹仁を大将軍に任命し、次に臨潁に屯地を移転させて大司馬に任命した。曹仁は諸軍の指揮を執り烏江を占拠し、引き返して合肥に駐屯した。
222年秋9月、歩兵と騎兵数万を指揮して、濡須に進軍した(「呉主伝」)。この戦役は曹休らが洞口、曹真らが江陵へ同時期に進撃する大規模なものだった。
223年3月[3]、部将の常雕や子の曹泰に別働隊の指揮を任せ、呉の濡須督だった朱桓を欺き、呉軍を分散させることに成功したが、朱桓の本隊が少ない手勢で奮戦したため攻め切れず、常雕の別働隊が先に打ち破られたため、軍を引いて撤退した(濡須口の戦い)。
同年3月19日[4]、病死。56歳であった。忠侯と諡され、子の曹泰が後を継いだ。また、曹楷・曹範にも邑が分与され、ともに列侯となった。曹泰は鎮東将軍・仮節まで昇進した。曹泰の跡はその子の曹初が継いだ。
233年(曹叡の代)5月、魏の功臣の中で功勲が顕著な者として、曹仁は夏侯惇・程昱と共に曹操の廟庭に祭られた。功臣の合祀は度々行われたが、この三人が最初であった。
評価
曹仁は若い頃は乱暴者であったが、曹操に従うと過去の行為を戒めて成長し、厳格に法を遵守し、常に法と照らし合わせて信賞必罰を行なうなど、諸将の見本になったとされている。曹丕は烏桓征伐に赴いた曹彰に対し、曹仁を見習って軍令を適用するようにと手紙で忠告している。
『傅子』は、曹仁の武勇は孟賁・夏育に匹敵し、張遼はその次に位置すると評価している。
渡邉義浩は曹仁を、曹魏を支えた名将であり、夏侯氏・曹氏のなかで最も軍事的成功をおさめたと評価している。名将であるがゆえに各地の戦いを転戦したことで、演義では完全な引き立て役にされてしまったとしている[5]。
三国志演義
小説『三国志演義』では、反董卓連合の際に曹操の元に曹洪と共に馳せ参じ、曹操軍の戦いで度々その名が見られる。
呂布との戦いでは、曹操の命令を受け、別軍で小沛城を攻略して守備を固め、呂布を下邳城に追い込んだ。
新野の劉備軍との戦いでは、李典の助言を悉く退け、単福(徐庶)に「八門金鎖の陣」を破られて大敗し、曹操自ら荊州に攻め入った際には曹洪と前陣を務めるが、無人の新野城に入城して諸葛亮の火計に敗れる。
南郡では周瑜と激しい攻防を繰り広げ、牛金が包囲された際は、ほぼ史実通りの顛末で呉軍を敗走させている。夷陵を奪われて情勢が危うくなると曹操の文書に記された作戦を実行し、周瑜に矢傷を負わせて呉軍を大破するが、周瑜の死の偽装に嵌まって南郡を失った。
馬超・韓遂が指揮を執る西涼軍との戦いでは、曹洪が短気なため潼関の守備に失敗すると曹操を諌め、果たして曹洪が敗北し、曹操が激怒して潼関への突撃を図ると、まず陣営を築くよう進言した。
関羽が指揮を執る荊州軍との戦いでは、満寵の意見を聞かずに苦戦したが、樊城陥落の危機には満寵の諌めで奮起し、関羽に矢傷を負わせ、徐晃の救援と呉が荊州を奪った事で盛り返し、ついには荊州軍を撃退した。
曹丕の代には呉への三方面軍のうち濡須を担当するが、遠征による疲労と地の不利で先鋒部隊の常雕が壊滅して撤退する。その後、呉蜀が再度同盟した頃には既に死去していた事が明かされる。
曹仁は物語中で曹洪と一緒に登場する機会が多く、共に弓術・馬術に熟達し、武芸百般に精通してると紹介されている。性格では強い自負心が災いし、部下の助言を聞き入れずに痛手を負うという場面が多い一方、よく踏みとどまり、西涼軍から必死に陣営を守って被害を最小に抑え、荊州軍からは樊城を守り切っている。また許昌や南郡をはじめ、重要拠点や本陣の守備を大軍と共にしばしば任されており、曹操からの厚い信頼が窺い知れる。
曹操の将軍たちが禰衡に皮肉を言われた際に、曹仁は「要銭太守(金銭を求める太守)」と貶されているが、史実で吝嗇と記述されている曹洪と取り違えている模様である。
脚注
曹仁(演:吉田宗洋 / - )
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「龍狼伝」の記事における「曹仁(演:吉田宗洋 / - )」の解説
基本的には『演義』に準ずるが、本作では2度も合戦に敗れたために将軍職を外されている。曹操の従兄弟で「影衆」なる集団の長。
※この「曹仁(演:吉田宗洋 / - )」の解説は、「龍狼伝」の解説の一部です。
「曹仁(演:吉田宗洋 / - )」を含む「龍狼伝」の記事については、「龍狼伝」の概要を参照ください。
曹仁(基本クラスは騎兵)
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「三國志曹操伝」の記事における「曹仁(基本クラスは騎兵)」の解説
曹操の従兄弟で曹操が反董卓同盟を興した時、兄弟分の曹洪と共に仕官した。
※この「曹仁(基本クラスは騎兵)」の解説は、「三國志曹操伝」の解説の一部です。
「曹仁(基本クラスは騎兵)」を含む「三國志曹操伝」の記事については、「三國志曹操伝」の概要を参照ください。
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