えん‐ぎ【演義】
演義
演義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/24 14:14 UTC 版)
小説『三国志演義』では夏侯淵の長子となっているが、字の「仲権」が次男であることを示すため矛盾が生じている(伯仲叔季)。初登場は長坂の戦いで、張飛に突き落とされ河へ転落する。ただしこの「夏侯覇」は、同姓同名の別人という見方もあり、版本によっては「夏侯傑」という完全な別人として登場している。同一人物であったとしてもその後は、諸葛亮の北伐に際して司馬懿により推挙されるまで20年以上もの間、出番がない。 蜀に亡命してからは、姜維の参謀として北伐に幾度となく参加するが、第八回目の戦いで空城の計にかかり戦死してしまっている。
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演義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 03:36 UTC 版)
小説『三国志演義』では、夷陵の戦い後に蜀軍を追撃した呉の陸遜は、諸葛亮が準備していた魚腹浦という石陣に入り抜け出せられなくなった。そこに老人黄承彦が現れ、石兵八陣『八陣図』に嵌らないよう助け出し追跡をやめ引き上げた。なお、吉川英治の小説『三国志』では、黄承彦ではなく彼の友がその役割を担っている。
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演義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/08 15:21 UTC 版)
初登場は、楊家の当主が楊延昭となった物語中盤ころ。 穆柯寨に住む山賊・木羽の一人娘。七十二座天門陣を破るため、楊家将の孟良が降竜木を求めて穆柯寨を訪れずれると彼を撃退し、さらに楊宗保も捕虜にとる活躍を見せる。しかし、楊宗保が美男子だったので、「私と結婚しないと殺す」と脅迫し、楊宗保と結婚する。 その後、楊家将に参加もせずいたところ、孟良が穆柯寨に放火し、降竜木を盗んで逃走。このとき、家族が皆死んでしまい、怒り狂うものの、死んでしまったものは仕方がない、と楊家将に加入することになる。 その後、穆桂英は楊宗保との結婚に反対の楊延昭(宗保の父)を一騎討ちで打ち負かし、なしくずし的に結婚を認めさせた。令婆のみが穆桂英を孫の嫁にふさわしい人物だ、と言って喜ぶ描写があり、京劇などもこういう設定になっていることが多い。 七十二座天門陣やぶりの戦いでは、特に鉄門陣の攻略の逸話が有名。この戦いでは身重だった姑の柴太郡は敵将との交戦中、産気づき、出産の苦痛で意識を失ってしまう。そこに現れた穆桂英は敵将を討ち取ると、穆桂英は赤子を懐に入れ、さらに戦闘を続行。その状態で青龍陣をも攻略している。著作権などの概念のない時代のことであり、この逸話は『三国志演義』の長坂の戦いで趙雲が主君の子供を懐に入れながら獅子奮迅の活躍をした逸話を継ぎ足したものと考えられている。そのためか、このとき生まれた赤子は以降は登場することはない。 西夏との戦いまでには既に死去しており、登場はしない。そのため、楊家の寡婦を束ねるのは彼女の娘、楊宣娘となっている。
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演義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/09 03:34 UTC 版)
小説『三国志演義』では「路昭(ろしょう)」の名で登場する。史実通りに、朱霊共々劉備の袁術討伐に随行するよう、曹操から命じられる。しかし、劉備の指示に従い、軍を残したまま朱霊と2人だけで許に帰還してしまったため、曹操の怒りを買い、処刑されそうになる。荀彧が諫言したため2人は赦されている。以降は登場しない。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/30 05:58 UTC 版)
小説『三国志演義』では、身の丈8尺、顔は獬豸(かいち、伝説上の神獣)のような姿とされる。顔良とは兄弟同然の親友という設定。 界橋の戦い前後から登場する。界橋の戦いで公孫瓚に向かって突進し、後一歩でこれを生け捕るところまで追い詰めるが、袁紹の下から出奔していた趙雲に阻まれ取り逃がしている。 白馬の戦いで顔良が討ち取られると、仇を討つために劉備と共に出陣し、史実同様に輜重隊の罠にかかり敗走する。しかし、追撃してきた張遼を弓で射落とし、さらに徐晃をも退けている。だが関羽には打ち負けて、逃亡時に追撃を受け背後から斬殺されてしまう。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 23:57 UTC 版)
小説『三国志演義』では、典農中郎将に任命された際等に名前が出るのみで特に活躍はない。むしろ、彼の配下の倉官として登場する王垕の方が、作中では目立っている。
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演義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 15:42 UTC 版)
小説『三国志演義』では、字が子休と正史と異なる設定である。夏侯淵の子で夏侯惇の養子となっており、何の能力も無い暗愚な武将として描かれている。正史と同様に金儲けが趣味であることにされ、その無能で気位の高い所を、敵から様々に利用される役回りとなっている。蜀の趙雲や魏延から「臆病で策無しの男」と酷評されたこともあってか、諸葛亮が北伐を開始すると自ら進んで総大将となり、程武や韓徳といった諸将を率いて諸葛亮と対戦するが、いいようにあしらわれた上で、王平に捕らえられてしまう(鳳鳴山の戦い)。捕虜になっている最中も諸葛亮の策にかかり、姜維を蜀に寝返らせるきっかけを作っている。最後は馬遵と共に羌族の土地へ逃げ、それ以降は魏に帰らないことになっている。 また後に司馬懿が曹叡に対し、夏侯淵の子達(覇・威・和・恵)を従軍させたいと言った時に、曹叡が「その者達は胡(えびす、この際は羌を指す)に逃亡して戻らぬ夏侯楙将軍と比べてどうなのか」と質す場面がある。
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