李傕とは? わかりやすく解説

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李傕Li kue

リカク

(?~198
大司馬開府・領司隷校尉・仮節・池陽

字は稚然。北地郡の人《後漢書董卓伝》。董卓部曲校尉

初平二年(一九一)、予州刺史孫堅が兵を拾い集めての陽人に入ると、董卓の将胡軫呂布軍勢孫堅敗れて逃走した。そこで董卓は李傕を使者立てて孫堅講和求めたが、孫堅はそれを固く拒絶した後漢書董卓伝》。

孫堅洛陽に入ると、董卓女婿牛輔陝県残して長安引き上げたが、李傕らは校尉として牛輔属した後漢書董卓伝》。朱儁荊州から洛陽入って河南尹楊懿を敗走させると、牛輔は李傕・郭汜張済数万騎を与えて中牟県朱儁破った後漢書朱儁董卓伝》。さらに進撃し陳留潁川諸県で男を殺し女を誘拐した。彼らの通過するところでは命を永らえた者はなかった《後漢書董卓伝》。

弘農王劉弁董卓殺されたとき、唐姫郷里潁川帰っていた。このとき唐姫は李傕に拘束され、妻になることを強要されたが固く拒絶した。李傕は唐姫殺した後漢書何皇后紀》。また同郡の荀彧以前潁川四方争奪する地です。天下変事起これば大困難を防ぐことができません。速やかに避難いたしましょう」と父老たちに語ったが、父老たちは土地愛着があって去ろうとしなかったので、荀彧はただ自分一族だけを連れて冀州避難していた。このとき李傕らがやってきて、郷里に留まった者のほとんどが殺されのである荀彧伝》。

三年四月司徒王允呂布とともに董卓誅殺すると、董卓配下将校のうち官職に就いている者の多く涼州であったため、その軍勢解散させよう計画し詔勅によって李粛陝県牛輔を討たせた。牛輔はそれを迎え撃って李粛敗走させたが、陣営内で叛乱起こったので黄河を北に渡って逃亡しようとした《後漢書王允伝・董卓伝》。

李傕らが陝に帰還すると、すでに牛輔部下殺されており、人々寄る辺なく、おのおの故郷帰ろうとした《董卓伝》。そこで使者長安出して赦免請願したが、王允が「一年二度大赦令は出せない」と言って拒絶したうえ、長安では涼州人を皆殺しにしようとしているという風聞流れており、李傕らは恐怖のため為すすべを知らなかった王允呂布らが幷州の人であったため、李傕は従軍していた幷州出身男女数百人を皆殺しにした《後漢書董卓伝》。

このとき軍中にいた討校尉賈詡は李傕らに告げた。「諸君らが軍勢棄てて身一つで行くならば、一介の亭長ですら君を縛り上げることができますぞ。軍勢率いて西上するに越したことはありません。道中で兵をかき集めて長安攻め、董公(董卓)の仇を討つのです。幸いにもうまくいけば国家天子)を奉じて天下征することになりますし、もしそうでなくても逃げるのはそれからです」。李傕はその通りだと思った賈詡伝》。李傕らは互いに京師(みやこ)は我ら赦しくれない我らは死を覚悟しなければならないぞ。もし長安攻めて勝てば天下取れるし、勝てなければ三輔地方婦女財宝略奪し西方帰郷して延命図ろうと言い合った。こうして盟約を結び、軍勢数千人を率いて昼夜兼行西上した《後漢書董卓伝》。

王允はそれを聞いて董卓の旧将胡軫徐栄楊定呼んで迎え撃たせようとしたが、そのとき優しげ表情作らずに「関東の鼠らは何をするつもりなのか。卿らが行って説得してきなさい」と言ったので、もともと王允と仲が悪かった胡軫楊定は、新豊まで行ったところで李傕軍に寝返り徐栄戦死した董卓伝・後漢書同伝》。

李傕らは道々兵を拾い集め長安到達したときには十万人を越えていた。ここで董卓の故(もと)の部曲樊稠李蒙らとも合流し長安包囲した長安城高く険しく攻めるのが困難であったが、包囲八日に及ぶと、呂布配下の叟兵が内応して、李傕の軍勢引き入れた後漢書董卓伝》。

六月一日戊午長安城陥落し、李傕は南宮掖門軍勢駐屯させた。この戦いで太常种払太僕旭・大鴻臚周奐・城門校尉崔烈・越騎校尉王頎らが戦死し官吏人民のうち死んだ者は数え切れないほどであった後漢書献帝紀・董卓伝》。このとき种払は「国の大臣となりながら戦争止めさせ暴虐取り除くことができないのなら、逃げてどうしようというのか」と言って戦死したであった种暠伝》。

呂布は青瑣門外に馬を繋いで王允に「公は行かれないのですか」と問うたが、王允は「社稷の霊を被った上は国家安んずることこそ我が願いである。それが叶わなければ身を捧げて死ぬまでのこと。朝廷天子)は幼少であらせられ我だけをお頼みにしておられる危難遭遇して保身を図ることは忍びがたいことだ。どうか関東諸公陳謝し国家のために尽力してくれ」と言って拒絶した王允伝》。呂布は武関を抜けて逃走した呂布伝》。

王允天子の手引いて平城門に昇って戦闘避けると、李傕らは城門の下で土下座した。天子(または王允)は「卿は威信・幸福を完成させようとはせず、軍勢放って好き勝手しておるが、どうして欲しいのか」と訊ねたが、李傕らは答えず、「董卓陛下に対して忠義でしたが、故なくして呂布殺されしまいました。臣らは董卓敵討ちをしたいだけで、あえて叛逆するものではございません。それが済めば廷尉出頭して処罰をお受けいたします」と訴え、さらに王允顔を見せるよう請願し、「太師董卓)に何の罪があったのだ?」と難詰すると、王允追い詰められ城門下りた董卓伝・後漢書同伝》。

己未天下大赦令を出した後漢書献帝紀》。李傕は揚武将軍に、郭汜は揚烈将軍に、張済将軍樊稠らは中郎将自分任じた董卓伝・後漢書同伝》。司隷校尉黄琬を獄に下して殺害した後漢書献帝紀・黄瓊伝》。

王允以前兄王宏を右扶風太守、同郡の宋翼左馮翊太守としていたが、李傕はその両郡が強力であるのを恐れ王允殺したくても手を下すことができなかった。そこでまず詔勅を出させて王宏宋翼召し返すことにした。宋翼が「王命背きがたし」と言って王宏制止聞かず出頭したので、やむをえず王宏出頭した後漢書王允伝》。甲子、李傕は王允王宏宋翼ともども殺害し彼の一族皆殺しにした《後漢書献帝紀・同王允伝》。

李傕は郿宮殿董卓葬儀行い彼の遺灰集めて収めたが、その日大風となって稲妻董卓の墓に落ち、その中まで流れて彼の棺桶漂わせた《後漢書董卓伝》。

李傕は大尉周忠尚書賈詡進言受け入れ中牟から朱儁召し返した朱儁陶謙らの諫言を容れず、李傕のもとに出頭し太僕任じられた《後漢書朱儁伝》。また袁術左将軍・仮節・陽翟侯に、劉表を鎮南将軍荊州牧・仮節・成武侯に、陶謙安東将軍徐州牧・溧陽侯にした《袁術劉表後漢書陶謙伝》。八月大傅馬日磾太僕趙岐使者として天下慰撫させた。馬日磾洛陽到着すると、上表して趙岐勅命宣言させたが、郡県の至るところで「今日またご使者のお車を見ることができた」と百姓喜んだ趙岐伝》。

当時太僕については未確認

九月、李傕は自ら車騎将軍開府・領司隷校尉・仮節・池陽侯となり、郭汜後将軍樊稠右将軍張済鎮東将軍となり、いずれも列侯に封ぜられた。李傕・郭汜樊稠そろって朝廷政治牛耳り、張済長安出て陝に駐屯した《後漢書献帝紀・同董卓伝》。

征西将軍馬騰は李傕に私的な交際求めて断られたため、益州刺史劉焉皇室から出た大臣であることから、使者をやって一緒に李傕を誅殺ようとした劉焉は子左中郎将劉範に兵を率いさせて馬騰協力させた。故(もと)の涼州刺史种劭は父种払が李傕に殺されていたので、その仇を討つため馬騰らの計画参加し侍中(または諫議大夫)の馬宇・中郎将稟・劉範とともに内応することにしたが、馬騰長平観まで来たとき、計画露見し种劭らは槐里逃走した鎮西将軍韓遂馬騰・李傕を和解させようとしたが、しばらくして馬騰味方した馬騰韓遂長平観の麓で郭汜樊稠李利らと戦った敗走し樊稠槐里まで追撃すると种劭らはみな戦死した後漢書献帝紀・同种崧伝・董卓伝》。

樊稠らは馬騰韓遂陳倉まで追走したが、韓遂樊稠使者出して天地転覆してどうなるか分からない。もともと争っているのは私怨のためじゃない王家のためなのだ。足下とは同州出身なのだから、いま小さな行き違いがあるとはいえ大まかにいって同じ立場じゃないか一緒によくよく語り合った上で別れよう出会い万一にも不本意なものであったら、あとでまた会うことはできないのだから」と告げた。そこで二人は馬をならべて語り合い、手を重ね合って別れた。李傕の兄の子李利帰還したとき、樊稠韓遂親しげ語り合っていたことを告げた董卓伝》。

樊稠郭汜二人開府許され役所三公合わせて六つになり、いずれも人事任用参加した当時長安では盗賊はびこって昼間から略奪働いていた。李傕・郭汜樊稠城内三分割して統治していたが、盗賊取り締まることはできず、そのうえ子弟好き勝手にして百姓に乱暴させた。食糧値段高騰し人々互いに喰らい合い白骨散乱して道路異臭充満した後漢書董卓伝》。

翌年、李傕は樊稠が勇敢で人々心を掴んでいることを警戒していたが、また韓遂私淑して謀叛するのではないか疑った。さらに樊稠軍勢率いて関東出撃したいと言い、李傕に軍勢増援求めたので、二月乙亥、彼を会議招いて酒に酔わせ、待機させていた騎都尉胡封に殺させた《董卓伝・後漢書同伝・同献帝紀》。

李傕はしばし酒宴設けて郭汜招きときには彼を自邸宿泊させていた。郭汜の妻は彼が李傕の婢妾密通し寵愛奪われるではないかと心配し、彼と李傕との仲を裂こうとした。たまたま李傕から食膳贈られてきたが、妻は味噌見せかけ作り郭汜食べようとしたとき「外から来た食べ物には何かあるかも知れませんよ」と言って味噌摘み上げて見せ、そして「二羽雄鳥は巣を一つにしないもの。我はもともと将軍公を信じていることが疑問でした」と言ったある日郭汜は李傕に招かれ泥酔したが、毒薬盛られたのではないか疑い、糞を絞った汁を飲んで解毒した。こうして李傕と郭汜疑心暗鬼になっていった《董卓伝》。

安西将軍楊定は李傕に殺害されることを恐れ郭汜とともに自分陣営天子迎え入れようとした。三月丙寅、李傕はそれを知り、兄の子李暹数千人を率いさせて宮殿包囲させ、車三乗用意して天子皇后招いた大尉楊彪が「古今帝王臣下の家に入ったことはないのだぞ。諸君らは天の御心に従うべきだ、こんなことをしてどうする」と叱ったが、李暹は「将軍計画決まっているのです」と言って天子を李傕の陣営移した李暹の兵たちが宮殿中に入って宮女御物略奪したが、さらに李傕は宮殿焼き尽くしてしまった《後漢書献帝紀・同董卓伝》。

天子楊彪司空張喜十人余り使者立てて、李傕と郭汜和解させようとしたが、郭汜使者人質取った楊彪は「一人天子誘拐し一人公卿人質にする。そんなことはすべきじゃないと言い怒った郭汜刃物を手にして彼を殺そうとすると、「卿は国家ですら大事にしないのだから、吾は生き延びようとするものか!」と言った左右の者が反対したので郭汜は彼を見逃した後漢書董卓伝》。

丁酉の夜、郭汜は李傕の将張苞張龍とともに李傕を誅殺しようと企て軍勢率いて李傕陣営の門を攻撃した斥候が門を開いて郭汜軍勢中に入れ張苞らが建物放火したが、火は広がらなかった。郭汜軍は弓弩放ったが、その矢は李傕の耳を貫通したばかりか天子御簾の中まで飛んできた。李傕の将楊奉軍勢率いて助けに来たので、郭汜は兵を引いた後漢書董卓伝》。その日、李傕は天子を北塢に遷したが、伏皇后・宋貴人だけが同行許された。李傕は校尉命じて門を監視させ、内外出入り断絶させた《後漢書献帝紀・同董卓伝》。

李傕はさらに黄白城に天子遷座させよう計画したが、司徒録尚書事趙温は李傕に手紙送って諫めた。「公は董公の仇を討つのだとおっしゃってましたが、しかし実際に王城陥落させて大臣殺戮してしまいました。いま郭汜争って不倶戴天の敵だとなさっておりますが、人々塗炭の苦しみにあり、生きるよすがもありません。朝廷天子)が詔勅下して和解させようとしても、ご下命行われず、ご威光日に日に衰えてます。今度はまた御車をお遷ししようとしています。早急に和解して軍勢引き上げるに過ぎたことはありません」。李傕は激怒して彼を殺そうとしたが、かつて彼の掾を務めていた李傕の従弟李応数日わたって諫めた結果、彼を赦免した後漢書趙典伝》。

天子詔勅下し謁者僕射皇甫酈に李傕と郭汜和解させることとした。皇甫酈がまず郭汜説得すると、彼は命令従った。つぎに李傕を訪れたが、彼は拒絶して郭多郭汜)は馬泥棒に過ぎないんだ、我と同列になぞ扱うものか!郭多公卿人質にしているがそれはどう思うかね」と言った皇甫酈が「郭汜公卿人質にしておりますが、将軍もご主君脅迫なさってます。どちらの罪が重いのでしょうか?」と言うと、李傕は激怒して彼を追い払った。さらに虎賁王昌命じてさせようとしたが、王昌はわざと追及しなかった《後漢書董卓伝》。

五月壬午、李傕は自分大司馬任じた後漢書献帝紀》。李傕は巫術愛好し、いつも道人巫女歌った太鼓を叩いたりさせて神を祭り、また朝廷門外董卓の像を作って神とし、たびたび牛や羊を捧げて祭っていた。左中郎将国(李固とも)が使者となって李傕を大司馬任じたとき、李傕は鬼神霊験だと思って巫女褒美をやった《後漢書董卓伝》。

衛尉楊奇黄門侍郎鍾繇・丁沖・尚書左丞充・尚書郎韓斌は李傕の部曲宋曄・楊昂楊帛)・楊奉宋果味方誘い、李傕を殺そうとした。ちょうど別件で李傕が楊昂殺したので、楊奉部下とともに郭汜のもとに逃れた。しかしこのことから李傕の勢力衰えてしまった《後漢書楊震伝・董卓伝》。

六月庚午、陝から張済来てようやく李傕・郭汜和解させ《後漢書献帝紀》、力づく天子弘農に遷そうと計画した後漢書董卓伝》。天子もまた洛陽懐かしく思ったので、七月甲子、李傕に使者をやって東方への帰還懇願した即日天子御車長安を出立して洛陽目指し郭汜楊定楊奉董承らが随行し張済驃騎将軍任じられ一足先に陝に帰還した。李傕は長安出て陽に駐屯した。郭汜途中で気が変わり天子脅迫して郿に遷そうとしたが、楊定楊奉董承らが反対したので、変事が起こることを恐れて軍勢棄てて李傕のもとへ走った後漢書献帝紀・同董卓伝》。

李傕・郭汜天子を東に行かせたことを後悔し天子さらって西に連れてようとした十月戊戌の夜、郭汜部下伍習天子宿所焼き討ちさせて乗輿迫った壬寅御車華陰到達して野営したが、張済楊奉董承と仲が悪かったので李傕・郭汜味方し十一月庚午、李傕・郭汜とともに御車追撃し弘農の東の谷間において戦闘となった官軍敗北し光禄勲鄧泉・衛尉士孫瑞廷尉宣播・大長秋祀・歩兵校尉魏桀・侍中展・射声校尉沮儁らが殺された。沮儁負傷して馬から落ちたとき、李傕は側近たちに「まだ生きているのか」と訊ねたが、沮儁は「汝ら叛逆者ども天子脅迫しておるが、汝ほどの乱臣賊子はいなかったぞ!」と罵倒して殺されのである後漢書献帝紀・同董卓伝》。

壬辰天子は曹陽で野宿したが、董承楊奉は李傕らと偽りの和睦を結ぶ一方白波胡才李楽韓暹匈奴左賢王去卑呼び寄せた董承らは彼らとともに李傕らと戦い、李傕らを大敗北させた。十二月庚辰御車進もうとしたので、李傕らはまた追いかけ攻撃すると、官軍大敗した。李傕らは宮女たちを殺したり誘拐したりして、少府大司農張義・朱儁周忠らが戦死した後漢書献帝紀・同周栄董卓伝》。天子は陝津から黄河渡り、そこからまた洛陽へ帰還することができた《董卓伝》。

三年四月謁者裴茂中郎将段煨関中諸将率いて李傕を討伐し、三族皆殺しとした《後漢書献帝紀》。

参照袁術 / 王允 / 王頎 / 王宏 / 王昌 / 賈詡 / 郭汜 / 韓遂 / 韓暹 / 韓斌 / 魏桀 / 牛輔 / 去卑 / 伍習 / 胡才 / 胡軫 / 胡封 / 黄琬 / 皇甫酈 / 崔烈 / 士孫瑞 / 朱儁 / 展 / 周奐 / 周忠 / 荀彧 / 徐栄 / 鍾繇 / 宣播 / 沮儁 / 宋貴人 / 宋果 / 宋曄 / 宋翼 / 孫堅 / 段煨 / 种劭 / 种払 / 張喜 / 張義 / 張済 / 張苞 / 張龍 / 趙温 / 趙岐 / 丁沖 / 田 / 稟 / 唐姫 / 陶謙 / 董承 / 董卓 / 鄧泉 / 馬宇 / 馬日磾 / 馬騰 / 裴茂 / 祀 / 樊稠 / 伏皇后 / 楊懿 / 楊奇 / 楊昂楊帛) / 楊定 / 楊彪 / 楊奉 / 李応 / 李楽 / 国 / 李粛 / 李暹 / 李蒙 / 李利 / 劉焉 / 劉協天子) / 劉範 / 劉表 / 劉弁弘農王) / 呂布 / 旭 / 充 / 潁川郡 / 益州 / 槐里県 / 華陰県 / 関東 / 冀州 / 荊州 / 黄河 / 弘農郡 / 黄白城 / 三輔 / 徐州 / 新豊県 / 青瑣門 / 成武県 / 陝県 / 陝津 / 宣平城 / 曹陽亭 / 中牟県 / 池陽県 / 長安県 / 陳倉県 / 陳留郡 / 南宮掖門 / 武関 / 郿県 / 馮翊郡左馮翊) / 扶風郡右扶風) / 幷州 / 北塢 / 北地郡 / 予州 / 陽人 / 陽翟県 / 洛陽県 / 溧陽県 / 県 / 涼州 / 安西将軍 / 安東将軍 / 右将軍 / 衛尉 / 越騎校尉 / 謁者 / 謁者僕射 / 掾 / 河南尹 / 諫議大夫 / 騎都尉 / 侯 / 校尉 / 黄門侍郎 / 光禄勲 / 後将軍 / 虎賁 / 左賢王 / 左将軍 / 左中郎将 / 三公 / 司空 / 刺史 / 侍中 / 司徒 / 車騎将軍 / 射声校尉 / 尚書 / 尚書左丞 / 尚書郎 / 少府 / 城門校尉 / 司隷校尉 / 征西将軍 / 大尉 / 大鴻臚 / 太師 / 大司農 / 大司馬 / 太守 / 太常 / 大長秋 / 大傅 / 太僕 / 中郎将 / 長平観 / 鎮西将軍 / 鎮東将軍 / 鎮南将軍 / 廷尉 / 亭長 / 討校尉 / 驃騎将軍 / 牧 / 歩兵校尉 / 揚武将軍 / 揚烈将軍 / 列侯 / 録尚書事 / 夷(皆殺し) / 開府 / 仮節 / 鬼怪左道之術(巫術) / 匈奴 / 女巫巫女) / 道人 / 白波賊 / 府(役所) / 部曲 / 叟 / 大赦令 / 領


李傕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/11 03:27 UTC 版)

李傕
李傕と郭汜
後漢
大司馬・池陽侯
出生 生年不詳
涼州北地郡泥陽県(現在の甘粛省慶陽市寧県
死去 建安3年(198年4月6月
拼音 Lǐ Jué
稚然
主君 董卓献帝
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李 傕(り かく、? - 198年)は、中国後漢末期の武将・政治家。後漢の大司馬。字は稚然。子は李式中国語版、甥は李利李暹・胡封(姉妹の子)。従弟は李応・李桓ら。

董卓配下の武将として活躍し、董卓の死後は長安を強襲して呂布を破り、王允黄琬らを粛清し、献帝を擁立して権力を握るも、幼馴染である同僚の郭汜と争い、最期は曹操によって滅された。

略歴

董卓政権下

李傕の名が史書に出てくるのは初平2年(191年)で、孫堅に講和を求める使者となっている。この交渉は決裂し、講和は拒絶された。

後に孫堅が洛陽に入ると、董卓の娘婿である牛輔に従い陝県に残った。また先に董卓によって洛陽方面に派遣され、袁術に寝返っていた朱儁荊州から洛陽に進撃してきたため、郭汜と共に騎兵を率いて迎撃、朱儁軍を撃破した。李傕らはさらに進撃して、陳留郡潁川郡の諸県で男を殺し、女を誘拐したため、彼らの通過するところでは命を永らえた者は居なかったという。

弘農劉弁の后である唐姫は、劉弁が李儒に殺害された後、郷里である潁川に帰っていた。彼女は潁川に攻めてきた李傕に拘束され、妻になる事を強要された。しかし唐姫は固く拒絶した。

また、同郡の荀彧は李傕が襲撃してくる事を恐れ、速やかに避難するよう長老たちに促した。しかし長老たちが応じなかったため、荀彧は仕方無く自分の一族だけを連れて冀州に避難した。果たして潁川は李傕の襲撃に遭い、郷里に留まった者のほとんどが殺された。

王允の叛乱

初平3年(192年)4月、董卓が呂布・王允等に暗殺されると、王允は董卓配下の軍の多くが涼州出身者であったため、軍の放逐を計画し、まず陝県の牛輔を李粛に攻撃させた。当然、李傕もその例外では無かった。結果、牛輔の反撃により李粛を撃破するも、牛輔自身が部下の攴胡赤児の裏切りに遭い、殺されてしまう。李傕は王允に赦免を請願したが拒否された上、長安では涼州人を皆殺しにするという噂が流れていたため、李傕らは身動きが取れずにいた。しかし賈詡の進言を受けて、郭汜らと共に10万人の兵をまとめ、長安への奇襲を決意した。同時に、指揮下の并州出身者を皆殺しにしている(王允と呂布が并州出身であったため)。

李傕の襲来を察知した王允は、他の董卓の旧将胡軫徐栄楊定らに李傕を迎撃するよう命じた。しかし結果は惨敗であった。徐栄は李傕に討たれ、胡軫・楊定は王允の傲慢な態度に加え、出陣前に嫌味を言われた事に怒り、新豊まで進軍したところで李傕に寝返った。

同6月、長安城は李傕に包囲されてから8日で陥落した。李傕は王允を八つ裂きにし、呂布一党を長安から叩き出した。

同9月、車騎将軍・開府・領司隷校尉・仮節・池陽侯となる。

李傕政権

興平元年(194年)、征西将軍馬騰が李傕と関係を持とうとしたが、李傕がそれを拒否したために関係が悪化する。馬騰は双方の仲裁に入った韓遂と共謀し、長安に攻め上ったが、李傕はこれを撃退した。また、馬騰に呼応して益州から攻め上ってきた劉焉軍も撃退し、李傕の暗殺を目論んだ劉焉の長男劉範を逃亡中に殺害、共謀した次男劉誕も処刑した(四男劉璋は前年に献帝の命で、父の劉焉を説得するために益州に向かい、そのまま抑留されたので無事だった)。

李傕は馬騰らと争っている間に、東方で勢力を拡大しつつあった曹操・袁紹に危機感を抱き、彼らと対立関係にあった袁術・公孫瓚陶謙等に献帝の名の元に爵位を与え、連携を図った上で包囲網を築こうとした。

李傕・郭汜は城内を分割して統治していたが、その統治能力は皆無といってよく、盗賊を取り締まるどころか、部下の好き勝手にさせて百姓に乱暴させた。そのため食糧の値段は高騰し、親が子を食い、子が親を食い、白骨や腐乱死体が街中に散乱して、道路に異臭が充満し、三輔の人口は激減した。また李傕は軍内でも同僚であった樊稠を、馬騰らとの戦闘中に捕らえた韓遂を見逃したとして殺害したため、弱体化した。

李郭交兵

民が苦しむ一方で、李傕と郭汜は互いに酒宴を開き、豪奢な生活を送っていた。

しかしある日、郭汜が頻繁に李傕の家に外泊していた事から、郭汜の妻が、夫が李傕に婢妾を与えられているのではないかとの猜疑心に駆られ、2人の仲を裂こうとした。郭汜は妻に謀られ疑心暗鬼に陥り、以後李傕と争うようになる。

李傕は献帝を奪取し、郭汜と一進一退の攻防を続けた。そのため、引き続き街には死体や飢民が溢れた。

凋落

その後、同僚の張済が2人を和解に導き、献帝を東方へ帰還させようとした。2人はこれに同意して楊定・楊奉董承らに同行するが、郭汜が途中で変節し、献帝を長安に連れ戻そうとした。しかし董承らの抵抗でそれが不可能になると、軍を棄てて李傕の下へと走った。

李傕・郭汜は官軍を攻め、董承と不仲だった張済もそれに従った。

弘農において官軍を壊滅状態に追い込んだが、元配下であった楊奉と和睦を結び、追撃を中止した。このため献帝は黄河を渡り、洛陽へ帰還する事ができた。

献帝と共に求心力をも失った李傕の軍勢は衰退していき、李傕は黄白城に移って立てこもったが、198年夏4月に裴茂段煨梁興張横に討伐され[1]、三族皆殺しとなった。

邪教傾倒

李傕は邪教に傾倒し、いつも巫女を侍らせ邪神を祭り、牛や羊を捧げていたという。大司馬に任じられた時も、李傕は巫女に褒美を与えている[2]

配下

脚注

  1. ^ 太平御覧にひく『典略』
  2. ^ 三国志』魏書「董卓伝付李傕伝」が引く『献帝起居注』による。

李傕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 13:59 UTC 版)

レジェンドヒーロー三国伝」の記事における「李傕」の解説

郭シと共にバンドをしている。ドラム担当レジェンドヒーロー楊奉変身し郭シと共に劉備たちのライバルとして戦い続けたが、最終回司馬炎攻撃郭シと共にドリームバトルを脱落する

※この「李傕」の解説は、「レジェンドヒーロー三国伝」の解説の一部です。
「李傕」を含む「レジェンドヒーロー三国伝」の記事については、「レジェンドヒーロー三国伝」の概要を参照ください。

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