去卑
南匈奴右賢王《武帝紀・後漢書南匈奴伝》。烏利の子《新唐書宰相世系表》、劉猛・誥升爰の父《魏書劉虎伝》。南匈奴単于の子孫という《魏書劉虎伝》。 『新唐書』に、後漢光武帝の子孫劉進伯が匈奴に捕らえられて尸利を生み、その子烏利が去卑を生んだとあるが、大いに疑わしい。また『新唐書』では去卑を劉猛の兄とするが、活動時期からみて『魏書』の方が正しいと思われる。『後漢書董卓伝・晋書江統伝・同赫連勃勃伝』では右賢王、『後漢書献帝紀・魏書劉虎伝』では左賢王とする。 興平二年(一九五)、長安を出立して洛陽に向かっていた天子は、十一月庚午、弘農の東の谷間にて李傕・郭汜・張済に攻められて敗北、多くの大臣を失った。壬申、曹陽亭の田園で野営したところで、随行していた楊奉・董承は李傕らと講和するふりをし、密かに使者を河東郡に遣して白波賊の頭目胡才・李楽・韓暹および右賢王去卑を呼び寄せた。去卑らはそれぞれ数千騎の軍勢を率いて参陣して天子を奉じ、董承・楊奉とともに李傕らと戦い、これを打ち破って首級数千を挙げた《後漢書献帝紀・同董卓伝》。御車はようやく進むことができるようになり、去卑は胡才らとともに後詰めしたが、李傕の追撃を受けて大敗した《後漢書董卓伝》。 去卑はそのまま天子に随行して洛陽に帰り、許への遷都にも従い、それから故郷の河東郡平陽に帰国した《後漢書南匈奴伝》。 建安二十一年(二一六)五月、曹操が爵位を魏公に進められると、七月、南匈奴単于呼廚泉が配下の名王たちを連れて入朝したので、曹操は彼らをそのまま魏国に留め、去卑に匈奴らの監督を命じた《武帝紀》。これは呼廚泉が身をもって人質になるよう去卑が勧めたものと伝わる《晋書江統伝》。 【参照】烏利 / 郭汜 / 韓暹 / 胡才 / 呼廚泉 / 誥升爰 / 曹操 / 張済 / 董承 / 楊奉 / 李傕 / 李楽 / 劉協(天子) / 劉猛 / 河東郡 / 魏 / 許県 / 弘農郡 / 曹陽亭 / 長安県 / 平陽県 / 雒陽県(洛陽県) / 右賢王 / 公 / 単于 / 名王 / 南匈奴族 / 白波賊 |
去卑
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去卑(呉音:くひ、漢音:きょひ、拼音:Qùbēi、生没年不詳)は、中国・後漢末期から三国時代にかけての南匈奴屠各種攣鞮部の一族で、甥の呼廚泉単于の代に右賢王[1]となる。誥升爰の父。潘六奚(破六韓部の始祖)の兄弟か従兄弟。鉄弗部の祖で、夏を建国した赫連勃勃はその後裔である。『北史』破六韓常伝では、羌渠単于の弟、『新唐書』宰相世系表では、烏利の子で、劉猛の兄と記されている(後述)。
- ^ 『後漢書』(献帝紀)、『魏書』(劉虎伝)では左賢王となっている(一方晋書劉元海載記はこの時の左賢王を劉豹とする)。
- ^ 『新唐書』(宰相世系五下)「独孤氏の出自は劉氏。後漢の世祖は沛献王輔を生み、輔は釐王定を生み、定は節王丐を生む。丐には二子があって広、廙といった。廙は洛陽令となり、穆を生む。穆は度遼将軍の進伯を生む。進伯は匈奴を撃つが、敗れて捕えられ、孤山下に囚われる。尸利を生み、単于は谷蠡王となし、独孤部と号す。尸利は烏利を生む。烏利には二子があって去卑、猛といった。猛は副侖を生む。副侖は路孤を生み、路孤は眷を生み、眷は羅辰を生む。羅辰は後魏(北魏)の孝文帝の洛陽遷都に随い、河南人となり、初めてその部を氏となし、定州刺史、永安公となる。羅辰は廷尉貞公の万齢を生み、万齢は稽を生む。稽は字を延平といい、鎮東将軍、文公となる。稽は鎮東将軍の帰を生み、帰は冀を生む」
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