三国志小事典 |
法正
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字は孝直。扶風郡郿の人。 飢饉に襲われたため故郷を離れ同郡出身の孟達とともに益州に赴いて劉璋に仕えた。しばらくして新都県令、のち呼び寄せられて軍議校尉に任じられるが用いられなかった。彼と仲が良かった張松も劉璋の器量に不満を持っていた。張松は使者として曹操のもとに赴いたが、帰国して劉備と結ぶよう劉璋に勧め、その使者として法正を推薦した。法正は劉備と会見してその武略に感嘆し、張松とともに益州の君主に迎えんと密議を練った。 曹操が漢中を窺うとの情報が入ると劉璋が恐怖したので、張松は劉備を迎え入れて彼に漢中を奪取させるべきと勧め、法正が劉備のもとに赴いた。法正は密かに益州奪取を進言した。劉備はこれに従って葭萌関に入り、劉璋軍を撃破して益州を手中に収める。この攻略戦で功績を立て、平定後、蜀郡太守・揚武将軍に任じられ、首都の統治と作戦立案を担当した。しかし不遇時代の恨みを晴らすため些細な罪にこじつけて人々を殺害し、莫大な功績を立てていたため諸葛亮でさえ彼を制止できなかった。 建安二十二年(二一七)、劉備に漢中征服を進言し、これを劉備は採用して法正を伴って漢中に進軍。同二十四年、劉備軍が定軍・興勢に囮の陣営を構築すると夏侯淵がこれを襲撃した。機を逃さず「撃つべし」と言上すると、劉備は黄忠に命じて夏侯淵軍を攻めさせ、黄忠は夏侯淵の首級を挙げることができた。 建安二十四年(二一九)に劉備が漢中王に就くと尚書令・護軍将軍に昇進したが、翌年、四十五歳で逝去した。劉備は何日ものあいだ涙を流して泣き、彼に翼侯と諡した。これは劉備による唯一の追諡である。法正は諸葛亮・劉巴・李厳・伊籍と協力して蜀の法律「蜀科」を制定している《伊籍伝》。 【参照】伊籍 / 夏侯淵 / 黄忠 / 諸葛亮 / 曹操 / 張松 / 孟達 / 李厳 / 劉璋 / 劉巴 / 劉備 / 益州 / 葭萌関 / 漢中郡 / 興勢 / 蜀郡 / 新都県 / 定軍山 / 郿県 / 扶風郡 / 軍議校尉 / 県令 / 護軍将軍 / 尚書令 / 太守 / 揚武将軍 / 翼侯 / 諡 / 蜀科 |
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法正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/26 07:53 UTC 版)
法 正(ほう せい、176年 - 220年)は、中国後漢末の参謀・政治家。劉備に仕えて活躍した謀臣。字は孝直。 扶風郡郿(陝西省眉県)出身。後漢の南郡の太守を務めた法雄は曽祖父(又は高祖父)[1]。祖父は法真。父は法衍。
- ^ 『後漢書』法雄伝によると、法雄は斉の襄王の末裔と称していたと記されている。その主張が正しければ、法正もまた襄王の末裔ということになる。
- ^ 『蜀書』先主伝の引く『三輔決録注』によると劉備が劉璋にとって代わった際に射堅(皇甫嵩の娘婿である射援の兄)が広漢・蜀郡太守に任命されたとある。
- ^ 諸葛亮と法正は、劉巴や伊籍、李厳と共に『蜀科』を起草している。(『蜀書』伊籍伝)。
- ^ 法正は許靖を虚名のみの人物として劉備に語った。
- ^ 法正は蜀郡太守になると、「わずかな恨みにも必ず報復し、自分を非難した者数人を勝手に殺害した」が、ある人が諸葛亮にそれを告げると、「わが君の今があるのは法正のおかげである。その功績を考えると処罰することはできない」と咎めなかったという。法正が漢中で軍務に従事していた際は楊洪が太守を代行している。
- ^ 漢中争奪戦の際、形勢不利だったにもかかわらず、劉備が癇癪を起こして退却しようとしない事があった。その際矢が劉備周辺に降り注いだが、他の物は恐れて退却を進言出来なかった。法正は黙って劉備の前に立ち、「孝直、矢を避けよ」と言う劉備に対し「殿自ら矢に身を晒しているのですから、私のようなつまらない男なら当たり前の事でしょう」と返したため、劉備はようやく退却した。
- ^ 『華陽国志』に記載。
- ^ 劉備から諡号を与えられたのは法正だけである(『蜀書』先主伝)。
- ^ 原文は「法孝直若在、則能主上制、令不東行。就復東行、必不傾危矣」
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