品種登録データベース |
アステカ【アステカ】(草花類)
![]() |
登録番号 | 第11621号 |
| 登録年月日 | 2004年 1月 13日 | |
| 農林水産植物の種類 | カーネーション | |
| 登録品種の名称及びその読み | アステカ よみ:アステカ |
|
| 品種登録の有効期限 | 20 年 | |
| 育成者権の消滅日 | ||
| 品種登録者の名称 | バルブレ&ブラン S.A. | |
| 品種登録者の住所 | カミノビエホ 205 30890 プエルト ルンブレラス ムルシア スペイン | |
| 登録品種の育成をした者の氏名 | 兼松功一 | |
| 登録品種の植物体の特性の概要 | ||
| この品種は、出願者所有の育成系統どうしを交配して育成されたものであり、花は鮮紫赤の地色に鮮紅色の中心濃色及びピンク白色のぼかしが入る盛咲で、やや大輪の1花茎当たりの花数及び花柄当たりの最多花数が少の切花向きの品種である。草姿は直立、開花時草丈は高、節数は中である。茎の長径はやや細、硬さは中、折れの難易は難、色は灰緑、ろう質の有無及び立茎数は中、1茎の側芽及び側枝数はやや少、側枝の着生位置は主に中上部、節間長は中、最長節間の位置は第4節である。葉全体の形は線形、先端部の形は鋭くとがる、葉巻き程度は巻く、最大葉長はやや長、葉幅はかなり狭、葉色は濃緑、ろう質は中である。つぼみの形は倒卵形、大きさはやや大、花の重ねは八重、上から見た花形は円形、側面から見た花形は盛咲、花径はやや大、表面の地色は鮮紫赤(JHS カラーチャート9707)、複色模様色は鮮紅(同0107)の中心濃色及びピンク白(同0701)のぼかしが入り、裏面の色は鮮紫ピンク(同9705)、花弁の波状程度は波状、鋸歯の深さは浅、数は少、花弁の長さはやや長、幅及び数は中、ほう葉の形はⅠ型、数は4枚、長さはやや短、がくの形は円柱形、がく筒の色は灰緑、がくの太さは中、長さは長、1花茎当たりの花数及び花柄当たりの最多花数は少、花の香りは弱である。開花習性は四季咲き、早晩性は早生、がく割れの難易性は難である。「ショコラ」と比較して、花の表面の地色が鮮紫赤であること、色彩模様が中心濃色及びぼかしであること等で区別性が認められる。 | ||
| 登録品種の育成の経過の概要 | ||
| この品種は、平成7年に出願者の温室(静岡県駿東郡小山町)において、出願者所有の育成系統どうしを交配し、その実生の中から選抜、以後、増殖を行いながら特性の調査を継続し、11年にその特性が安定していることを確認して育成を完了したものである。 | ||
ウィキペディア |
アステカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2009/12/26 07:16 UTC 版)
アステカ(Azteca、ナワトル語:Aztēcah)とは1325年から1521年まで中米メキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明の王国。自らをメシカ(ナワトル語:mēxihcah)と称した。言語はナワトル語。
目次 |
建国と繁栄
伝説によればアステカ族はアストランの地を出発してメキシコ中央高原をさまよい、1325年ウィツィロポチトリ神に啓示された、蛇をむさぼる鷲が石の上に生えたサボテンにとどまる地、テスココ湖畔に都市テノチティトランを築いて定住した。アステカ人がやってきたときにはすでにテスココ、アスカポツァルコ、クルワカン、シャルトカン、ヒコなどの有力な都市国家がこの湖畔に成立していた。[1] 当初アステカは強力なアスカポツァルコ王国に朝貢してその庇護を受けていたが、1375年アカマピチトリはアスカポツァルコ王国の許可を得て国王に即位した。第4代イツコアトル国王のとき、アステカは王位継承問題に介入してアスカポツァルコ王国に勝利すると、テスココ・トラコパンの有力な都市と同盟して力を蓄え次々と周辺都市国家を征服していった。1600年までに最盛期のアステカはメキシコ湾から太平洋沿岸にまでを領有し500万人以上の人民を支配した。首都テノチティトランの人口は数十万人に達し、当時、世界最大級の都市であった。中心部には神殿や宮殿が立ち並び市もたって大いに繁栄した。[1]
社会構造
階級社会
アステカでは多神教に基づいた神権政治が行われ、最高位の神官である国王[2]を神官[3]や貴族[4]さらに軍人[5]がこれを補佐した。支配者階級の下位に農民や職人[6]さらに商人[7]があって最下級に戦争捕虜や負債などのために身売りした奴隷[8]が存在した。奴隷は自由身分に解放されることもあったが個人の所有物として相続の対象とされた。[1]
軍国主義
軍国主義国家であるアステカは戦士を大切にした。戦争功労者にはジャガーの戦士や鷲の戦士の称号や土地・屋敷を与えあるいは年金を給付してその功に報いた。ジャガーの戦士や鷲の戦士を中核とする強力な軍隊が征服戦争をくり返し諸国民に恐れられ、服属する国家から朝貢を受ける見返りに自治を与えて人民を間接統治した。諸国を旅する商人はスパイとして重宝され、敵情視察や反乱情報の収集に従事した。
道路網整備と経済の発達
アステカは軍隊の迅速な移動を可能にするため道路網を整備し、一定区間に駅所を設けて管理したのでその周辺の治安が維持され、婦女子でさえ単独で国内を旅行することが可能であった。新来のスペイン人はこの整備された道路網と治安の良さに感心したという。
この道路網を通じて諸地域の産物がアステカに集まりその繁栄を支えた。テノチティトランの中心部では毎日市場が開かれたという。基本的な商業活動は物々交換であったが、カカオ豆が貨幣として流通し、カカオ豆3粒で七面鳥の卵1個、カカオ豆30粒で小型のウサギ1匹、カカオ豆500~700粒で奴隷1人と交換できた。
食料
高い生産性を誇るチナンパ農業から得られるとうもろこしや芋類・豆類などの農産物、リュウゼツランから醸造されるプルケ酒やタバコなどの嗜好品、専門の職人によって製作された質の高い陶製品やさまざまな日用品が、市場で売買されていた。
文化
アステカ文明は、先に興ったオルメカ・テオティワカン・マヤ・トルテカ文明を継承し、土木・建築・製陶・工芸に優れていた。精密な天体観測によって現代に引けを取らない精巧な暦を持っていた。
同時期に隆盛を極めたインカ帝国とは間接交流があったのではないかと推定されているが、直接交流の実態は解明されていない。
人身御供
アステカ社会を語る上で特筆すべきことは人身御供の神事である。人身御供は世界各地で普遍的に存在した儀式であるが、アステカのそれは他と比べて特異であった。メソアメリカでは太陽は消滅するという終末信仰が普及していて、人間の新鮮な心臓を神に奉げることで太陽の消滅を先延ばしすることが可能になると信じられていた。そのため人々は日常的に人身御供を行い生贄になった者の心臓を神に捧げた。また人々は神々に雨乞いや豊穣を祈願する際にも、人身御供の神事を行った。アステカは多くの生贄を必要としたので、生贄を確保するために戦争することもあった。
一般的に生贄になった者は祭壇に据えられた石のテーブルの上に仰向けにされ、神官達がその四肢を抑えて黒曜石のナイフで生きたまま胸を切り裂き心臓を摘出した。人身御供の神事は目的に応じて様々な形態があり、神官が生贄から剥ぎ取った生皮を着て踊り狂ったり、生贄を火中に放り込むこともあった
現代人から見れば残酷極まりない儀式であったが、生贄にされることは本人にとって名誉なことでもあった。通常、戦争捕虜や買い取られた奴隷の中から、健康で見た目も高潔な者が生贄に選ばれ、人身御供の神事の日まで丁重に世話された。神事によっては貴人や若い男女さらには幼い小児が生贄にされることもあった。
一の葦
かつてテスカトリポカ神に追われた白い肌を持つケツァルコアトル神が戻って来る『一の葦』の年(1519年にあたる)が迫っていた。アステカでは帰還したケツァルコアトルが古い世界を破壊して新しい世界を建設すると信じられていた。アステカ人が漠然と将来に不安を感じ始めていたころ、テノチティトランの上空に突然大きな火玉が現れ神殿の一部が焼け落ちてしまった。その後も次々と不吉な出来事が起こった。
さらに『一の葦』の年の2年前(1517年)から東方の沿岸に白い異邦人が現れるようになり、その情報が逐次アステカ国王モクテスマ2世に伝わった。人々は白い異邦人が帰還したケツァルコアトル一行ではないかと噂しあったが、実はスペインキューバ総督府からメキシコ周辺の情報収集を命じられたスペイン人の一団であった。彼らはキューバに戻ってアステカの繁栄をキューバ総督ディエゴ・ベラスケスに報告した。
ベラスケス総督の配下であったコンキスタドールのエルナン・コルテスは大変な野心家で、1519年2月、総督の命令を無視してアステカ征服を目指して16頭の馬と大砲や小銃で武装した500人の部下を率いてユカタン半島に上陸した。コルテスはタバスコ地方の勢力との戦いに勝利すると戦利品として贈られた女奴隷の中からマリンチェという没落貴族の娘を選んで現地妻にした。通訳としてまた案内人として有能であったマリンチェはコルテスに献身的に仕えた。
さらに軍を進めたコルテスは有力なトラスカラ王国と戦いこれを屈服させた。トラスカラは長年アステカの圧政に苦しんでいたためこれを機にコルテスと同盟を結んだ。コルテスは数万の同盟軍を得て自信を深めトラスカラ残留部隊を除いた400人の部下と千人のトラスカラ軍を率いてアステカ深部へと進軍していった。
『一の葦』の年に現れたコルテスはケツァルコアトル神の化身と信じられテノチティトランへと順調に進軍し、1519年11月18日、モクテスマ2世に迎えられてテノチティトランに入城した。テノチティトランの名所を案内されその豊かさと繁栄振りに目を見張ったコルテスは、入城6日目にしてモクテスマ2世を捕らえると宮殿に幽閉して人々に人身御供の禁止を布告した。
滅亡
ベラスケス総督がベラクルスにコルテス追討軍を派遣したため、コルテスは僅かの守備隊をペドロ・デ・アルバラードに託して一時的にテノチティトランをあとにした。引き返したコルテスは同盟軍と協力してナルバエスに率いられた1000人の追討軍に勝利すると、投降者を編入して本格的なアステカ征服に専念した。
コルテスがテノチティトランに戻ると大規模な反乱が起こり、仲裁をかって出たモクテスマ2世はアステカ人の憎しみを受けて殺されてしまう。1520年6月30日アステカ人が諸悪の根源であるコルテス軍を激しく攻撃したので、コルテスは命からがらテノチティトランから脱出した。アステカはクィトラワク新国王を擁立して国の再建を目指し、コルテス軍捕虜を生贄にして気勢を上げた。
トラスカラで軍を立て直し用意周到に抵抗勢力を駆逐してテテスコ湖々畔に立ったコルテスは、1521年4月28日、13隻の帆船を築いてテテスコ湖に浮かべ数万の同盟軍とともにテノチティトランを包囲した。1521年8月13日、コルテスは総攻撃をしかけて病死したクィトラワク国王に代わって即位していたクアウテモック国王を捕らえアステカを滅ぼした。
その後スペインは金銀財宝を略奪し徹底的にテノチティトランを破壊しつくして、遺構の上に植民地ヌエバ・エスパーニャの首都(メキシコシティ)を建設した。アステカ人の多くが奴隷にされスペインのメキシコ経営に酷使され倒れ、あるいは旧大陸から伝わった疫病に感染し、そのため地域の人口が激減した。
その犠牲者は征服前の人口はおよそ1100万人であったと推測されるが、1600年の人口調査では、先住民の人口は100万程度になっていた。スペイン人は暴虐の限りを尽くしたうえに、疫病により免疫のない先住民はあっという間に激減した。これによりスペインの植民地政策の凄まじさが理解できる。(「スペインの歴史」立石博高他編・昭和堂)
アステカ歴代君主
- 1375年: アカマピチトリ
- 1395年: ウィツィリウィトル
- 1417年: チマルポポカ
- 1427年: イツコアトル
- 1440年: モクテスマ1世
- 1469年: アシャヤカトル
- 1481年: ティソック
- 1486年: アウィツォトル
- 1502年: モクテスマ2世
- 1520年: クィトラワク
- 1521年: クアウテモック
俗説
人身御供の儀式によって死んだものの怨念が凝縮され、写真に赤い影が写りこみ、その中に祭壇らしきものが移りこむという心霊写真が、USO!?ジャパンの心霊特集にて取り上げられた。放送終了後、大量の電話がかかり「なんというものを放送したんだ」と憤慨するという現象が起こった。[1]
脚注
- ^ a b c 増田義郎「先コロンブス期の文化」49~51ページ(増田義郎・山田睦男編『新版世界各国史25 ラテン・アメリカ史Ⅰ メキシコ・中央アメリカ・カリブ海』山川出版社)
- ^ ウェイ・トラトアニ、はじめは世襲ではなく選挙によって選ばれた。しかし、社会の進化に伴って特権階級の代表者会議が、先代のウェイ・トラトアニの兄弟、または子供の中から選ぶようになった。
- ^ トラマカスキ、もっと細かい地位の区別があった。
- ^ 首長、貴族の階層には、トラトニア、テクートリ、ビリなどの階層
- ^ テキワと呼ばれ、内部に地位の分化があった。
- ^ 大多数の平民はマセワル、その下にトラマイテス、マエッケなどがあり、隷属民である。
- ^ ポチテカ、特別な法や神殿を持つ特権集団を形成していた。
- ^ トラコトリ
関連項目
固有名詞の分類


