劉勲
劉勲
字は子璜か。故(もと)の虎牙都尉、あるいは虎牙将軍《臧洪・公孫瓚伝》。 劉勲と劉子璜とを同人視するのは裴松之の説。『公孫瓚伝』注では「故の虎牙都尉」とあるが、それを引く『臧洪伝』注では「故の虎牙将軍」となっている。 初平元年(一九〇)正月の挙兵にあたっては、袁紹らとともに中心人物であった。張楊を帰服させるなど数多くの功績を立てる《公孫瓚伝》。のちに使者の任務を授かったが、期限に間に合わなかった。威光を恐れるとともに肉親を懐かしみ、なんとか帰国しようとしたが、袁紹は怒りのあまり劉勲を殺害した《臧洪・公孫瓚伝》。 初平二年七月の段階で、韓馥の従事趙浮らは「張楊は袁紹の味方になったばかり」と言っている《袁紹伝》。公孫瓚が袁紹による劉勲殺害に言及しているのは同年冬なので《後漢書袁紹伝》、劉勲が殺害されたのはおおよそこの間のことだろう。 |
劉勲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/28 15:19 UTC 版)
劉 勲(りゅう くん、生没年不詳)は、中国後漢末期の武将・政治家。字は子臺[1]。青州琅邪郡の人[2]。妻は王宋と山陽郡の司馬氏。兄が1人(名は不明)[3]。従弟に劉偕[4]。甥(兄の子)に劉威[5]。『三国志』に伝はないが、各所に記録がある。 娘が一人いる[6]。
- ^ “魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』”. 『三国志』. 12. "『魏略』曰:勳字子臺、琅邪人。中平末、爲沛國建平長、與太祖有舊。"
- ^ 『三国志』魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』
- ^ 『三国志』魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』。豫州刺史になったことがあるという。
- ^ 『三国志』呉志「孫破虜討逆伝」が引く『江表伝』
- ^ 『三国志』魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』。豫州刺史であった父の死後、政治を執ったことがあるという。
- ^ 『三国志』「方技伝」が引く『華佗別伝』。それによれば、20歳近くになる劉勲の娘は左足の膝に腫れものができたため、華佗の治療を受けてわずか7日で完治したと記されている。
- ^ 『後漢書』「献帝紀」
- ^ 『三国志』呉志「破虜討逆伝」。なお、『三国志』呉志「孫破虜討逆伝」が引く『江表伝』によると、袁術の従弟の袁胤と女婿の黄猗は、曹操を恐れて寿春を離れ、袁術の棺と袁燿ら袁術の一族や配下を連れて、劉勲に保護を求めたという)。
- ^ なお、以下のような異聞が紹介されている。劉勲は従弟の劉偕を豫章太守の華歆の下に派遣し食糧の援助を申し出た。しかし、華歆の方でも兵糧が不足していたため、郡の役人を劉偕につけて、海昏・上繚の現地の有力者から3万石の米を供用させようとしたが、劉偕は現地に赴いて1ヶ月で数千石しか得られなかった。劉偕は劉勲に手紙を送り、現地に軍勢を送って食糧を強奪することを提案した。劉勲は自ら軍を率いて海昏に向かったところ、現地の有力者は食糧を持ち出して逃亡し、劉勲は結局何も手に入れることはできなかった。たまたま、孫策は江夏太守の黄祖を討つために遠征していたが、劉勲が本拠である皖城を留守にしていることを聞き、孫賁・孫輔らの別働隊を彭沢に派遣し、劉勲の軍勢を待ち伏せさせると共に、皖城を急襲し直ちに降服させ、袁術の残した兵士と物資、それに袁術と劉勲の妻子の身柄を確保した。孫策は捕虜を呉に送りとどけると共に、廬江太守の後任に汝南の李術を任命し皖城を守らせた。劉勲は待ち伏せした孫策の別働隊に敗れ、楚江に入った後、尋陽から徒歩で置馬亭に逃げ延びたところで、本拠の皖城が孫策の手に落ちたことを知り、西塞山に身を潜めた。後に劉勲は山中にある流沂城に拠り、荊州の劉表に急を告げ、さらに江夏太守の黄祖に援軍を求めた。黄祖は子の黄射に水軍5000を与えて援軍を差し向けたが、孫策は西塞山の劉勲を攻撃しこれを打ち破り、劉勲は劉偕と共に北の曹操の下へ逃れたという。(以上、『三国志』呉志「孫破虜討逆伝」が引く『江表伝』
- ^ そのときの劉勲は「平虜将軍」と記されている。
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