劉勲とは? わかりやすく解説

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劉勲Liu Xun

リュウクン
リウクン

(?~?)
漢平将軍郷侯

字は子台。琅邪の人《司馬芝伝》。「征将軍」ともある《司馬芝伝》。

中平年間一八四~一八九)に沛国建平県長となり、曹操交流した司馬芝伝》。袁術配下孫策廬江太守陸康攻め滅ぼすと、もともと袁術部下であった劉勲は廬江太守任じられた《討逆伝》。

建安四年(一九九)、袁術横死すると、彼の従弟袁胤女婿黄猗らは袁術担ぎ、その妻子連れて劉勲のもとに身を寄せた。また袁術将軍張勲長史楊弘らは軍勢伴って孫策頼ろうとしたが、劉勲が迎撃してみんな生け捕りにしてしまった《袁術・討逆伝》。袁術軍勢手に入れたものの食糧不足悩み従弟劉偕を使者として予章太守華歆援助求めた華歆郡内の上繚・海昏の宗民から食糧借りたが、それでも充分な量は得られなかった。劉偕はこのことを劉勲に伝えて上繚を襲撃すべきだと述べた孫策はそれを聞いて劉勲と同盟し、上繚の宗民一万余り攻撃するよう依頼した《討逆伝》。

それ以前揚州侠客鄭宝らが高貴な家の名士であった劉曄擁立しようとしたが、劉曄酒席で鄭宝を斬り捨て、その部下説得して服従させ、彼らを引き連れて廬江行って劉勲に身を寄せていた《劉曄伝》。このとき劉曄は「上繚城の守り堅固です。十日以内片付けられなければ軍勢疲労するうえ国内がら空きなります孫策襲撃されれば帰る場所なくなりますぞ」と諫言した。劉勲は聞き入れずに上繚を攻撃した劉曄伝》。

劉勲は密かに海昏まで軍勢進めたが、宗民たちが城邑空っぽにして逃げ隠れしたので何も得られなかった。孫策黄祖討伐にあたっていたが、劉勲が本拠地廬江留守にしていると聞き軍勢二手分けて孫賁孫輔八千人には彭沢で劉勲の退路遮断させ、孫策自身周瑜とともに軍勢率いがら空きになっていた廬江皖城を占拠した袁術配下の三万人余り袁術・劉勲の妻子孫策の手落ちた《討逆伝》。

劉勲は海昏出発して彭沢まで引き返した孫賁らに敗れ尋陽周瑜程普董襲らの追撃受けたので、徒歩で置馬亭まで遡ったが、そこで皖城陥落の報を聞いて西塞山潜伏した。そして山中にある流沂城に籠り劉表黄祖に急を告げた黄祖太子黄射水軍五千預けて劉勲を救援させたが、孫策西塞山入って劉勲を撃破した。そこで劉勲・劉偕は北方逃走した《討逆・周瑜程普董襲伝》。

劉勲は孫策敗れて曹操頼り列侯封じられた《武帝紀・司馬芝伝》。曹操側近として平時にも議論参加した司馬芝伝》。

のちに河内太守任じられたが、身分尊貴なうえ寵愛集め傲慢不遜であった賓客子弟の者も郡境を越えて不法行為繰り返したが、劉勲は広平県司馬芝手紙送り、彼らのことを(大目に見るよう)依頼した。しかし司馬芝返事を送らず、法律の定め通りに彼らを処罰した司馬芝》。また鄴県令楊沛法律厳格であった。そこで彼が任地到着する前に、劉勲は子弟使者をやって自重させている《賈逵伝》。また河東太守杜畿大きな所望したが拒絶されている《杜畿伝》。

劉勲には二十歳に近い女(むすめ)がいたが、七・八年ほどかゆみのある腫れ物わずらっていた。医者華佗呼んで診察させたところ、華佗は「これは簡単に治ると言って馬と赤犬用意させた。赤犬の首に縄を巻いて馬に引っ張らせ、その馬が疲れると別の馬に繋ぎ、その馬も疲れると人間赤犬引っ張った女に飲ませて眠らせ赤犬腹を切って患部近付けると、長さ三尺で目がなく逆さまをもつのようなものが患部から出てきた。華佗がそれを串刺しにして引っ張り出すと、腫れ物七日治った華佗伝》。

建安十八年(二一三)五月献帝劉協曹操魏公封じようとしたところ、曹操三度わたって固辞した。劉勲は平将軍郷侯の肩書きで、群臣連名拝受するように訴えている《武帝紀》。

劉勲は奮威将軍鄧展とともに曹丕酒席同座したことがある。このとき鄧展撃剣について語ったが、曹丕は「将軍の法は間違っている」と言い、ともに取って手合わせをし、曹丕鄧展打ち負かした左右の者は大笑した。鄧展がふたたび願って手合わせをしたところ、曹丕彼の突き避けて額を切った。劉勲らは目を見張った文帝紀》。

劉勲は曹操との旧縁があったことから日に日に思い上がり不法行為誹謗中傷重ね、とうとう申成が告発することになった曹操逮捕され処刑となり、兄の子劉威も予州刺史罷免された《司馬芝伝》。

参照袁胤 / 袁術 / 華歆 / 華佗 / 黄猗 / 黄射 / 黄祖 / 司馬芝 / 周瑜 / 曹操 / 曹丕 / 孫策 / 孫輔 / 孫賁 / 張勲 / 程普 / 鄭宝 / 杜畿 / 董襲 / 鄧展 / 楊弘 / 楊沛 / 申成 / 陸康 / 劉威 / 劉偕 / 劉協献帝) / 劉表 / 劉曄 / 海昬侯国海昏侯国) / 郷 / 河内郡 / 河東郡 / 晥県(皖県) / 魏 / 鄴県 / 建平県 / 広平県 / 上繚 / 尋陽県 / 西塞山 / 置馬亭 / 沛国 / 彭沢 / 揚州 / 予州 / 予章郡 / 流沂城 / 琅邪国 / 廬江郡 / 郷侯 / 県長 / 県令 / 公 / 侯 / 刺史 / 征将軍 / 太守 / 長史 / 奮威将軍 / 平将軍 / 撃剣 / 宗民


劉勲Liu Xun

リュウクン
リウクン

(?~191?)
京兆虎牙都尉

字は子璜か。故(もと)の虎牙都尉、あるいは虎牙将軍臧洪公孫瓚伝》。

劉勲と劉子璜とを同人視するのは裴松之の説。『公孫瓚伝』注では「故の虎牙都尉」とあるが、それを引く『臧洪伝』注では「故の虎牙将軍となっている。

初平元年一九〇)正月挙兵にあたっては、袁紹とともに中心人物であった張楊帰服させるなど数多く功績立てる《公孫瓚伝》。のちに使者任務授かったが、期限に間に合わなかった。威光恐れとともに肉親懐かしみ、なんとか帰国しようとしたが、袁紹怒りのあまり劉勲を殺害した臧洪公孫瓚伝》。

初平二年七月段階で、韓馥従事趙浮らは「張楊袁紹味方になったばかり」と言っている《袁紹伝》。公孫瓚袁紹による劉勲殺害言及しているのは同年冬なので《後漢書袁紹伝》、劉勲が殺害されたのはおおよそこの間のことだろう。

参照袁紹 / 張楊 / 京兆虎牙都尉虎牙都尉) / 虎牙将軍


劉勲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/28 15:19 UTC 版)

劉 勲(りゅう くん、生没年不詳)は、中国後漢末期の武将・政治家。字は子臺[1]青州琅邪郡の人[2]。妻は王宋山陽郡の司馬氏。兄が1人(名は不明)[3]。従弟に劉偕[4]。甥(兄の子)に劉威[5]。『三国志』に伝はないが、各所に記録がある。 娘が一人いる[6]


  1. ^ “魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』”. 『三国志』. 12. "『魏略』曰:勳字子臺、琅邪人。中平末、爲沛國建平長、與太祖有舊。" 
  2. ^ 『三国志』魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』
  3. ^ 『三国志』魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』。豫州刺史になったことがあるという。
  4. ^ 『三国志』呉志「孫破虜討逆伝」が引く『江表伝』
  5. ^ 『三国志』魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』。豫州刺史であった父の死後、政治を執ったことがあるという。
  6. ^ 『三国志』「方技伝」が引く『華佗別伝』。それによれば、20歳近くになる劉勲の娘は左足の膝に腫れものができたため、華佗の治療を受けてわずか7日で完治したと記されている。
  7. ^ 『後漢書』「献帝紀」
  8. ^ 『三国志』呉志「破虜討逆伝」。なお、『三国志』呉志「孫破虜討逆伝」が引く『江表伝』によると、袁術の従弟の袁胤と女婿の黄猗は、曹操を恐れて寿春を離れ、袁術の棺と袁燿ら袁術の一族や配下を連れて、劉勲に保護を求めたという)。
  9. ^ なお、以下のような異聞が紹介されている。劉勲は従弟の劉偕を豫章太守の華歆の下に派遣し食糧の援助を申し出た。しかし、華歆の方でも兵糧が不足していたため、郡の役人を劉偕につけて、海昏・上繚の現地の有力者から3万石の米を供用させようとしたが、劉偕は現地に赴いて1ヶ月で数千石しか得られなかった。劉偕は劉勲に手紙を送り、現地に軍勢を送って食糧を強奪することを提案した。劉勲は自ら軍を率いて海昏に向かったところ、現地の有力者は食糧を持ち出して逃亡し、劉勲は結局何も手に入れることはできなかった。たまたま、孫策は江夏太守の黄祖を討つために遠征していたが、劉勲が本拠である皖城を留守にしていることを聞き、孫賁孫輔らの別働隊を彭沢に派遣し、劉勲の軍勢を待ち伏せさせると共に、皖城を急襲し直ちに降服させ、袁術の残した兵士と物資、それに袁術と劉勲の妻子の身柄を確保した。孫策は捕虜を呉に送りとどけると共に、廬江太守の後任に汝南の李術を任命し皖城を守らせた。劉勲は待ち伏せした孫策の別働隊に敗れ、楚江に入った後、尋陽から徒歩で置馬亭に逃げ延びたところで、本拠の皖城が孫策の手に落ちたことを知り、西塞山に身を潜めた。後に劉勲は山中にある流沂城に拠り、荊州劉表に急を告げ、さらに江夏太守の黄祖に援軍を求めた。黄祖は子の黄射に水軍5000を与えて援軍を差し向けたが、孫策は西塞山の劉勲を攻撃しこれを打ち破り、劉勲は劉偕と共に北の曹操の下へ逃れたという。(以上、『三国志』呉志「孫破虜討逆伝」が引く『江表伝』
  10. ^ そのときの劉勲は「平虜将軍」と記されている。


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