韓馥とは? わかりやすく解説

韓馥Han Fu

カンフク

(?~?)
冀州

字は文節潁川郡の人《武帝紀》。

挙兵後潁川から荀氏らを招いており、韓韶一族ではないか思われる

はじめ韓馥は御史中丞務めていたが《武帝紀》、董卓朝廷実権を握ると尚書周毖城門校尉伍瓊らを信任し、彼らの推挙によって当時冷遇されていた士人多く取り立てており、侍中劉岱兗州刺史となり、孔伷予州刺史となり、張咨は南陽太守となり、韓馥も尚書から冀州牧(あるいは刺史とも)に昇進したが、日ごろ董卓親愛していた人物将校留めたままであった董卓許靖後漢書董卓伝》。

韓馥は冀州着任すると、勃海太守袁紹挙兵するのではないか恐れ何人も従事送り込んで彼を監視させていたが、東郡太守橋瑁偽造した三公からの公文書冀州届き、その中には董卓罪状連ねられていた。韓馥が従事たちに「袁氏助けるべきか、董卓助けるべきか」と質問すると、治中劉子恵は「国家のためです。袁氏も董氏もありません」と述べた。韓馥が恥じ入っていると、劉子恵は続けて軍事不吉なものですか口火切っていけません他州動き見て行動起こす者があれば、それから同調されればよろしい。冀州他州より弱くはありませんから、他人功績冀州上回ることはありますまい」と言上した。韓馥はその通りだと思い袁紹手紙出して彼の挙兵認めた武帝紀》。

初平元年一九〇)正月袁紹らが反董卓義兵起こすと、韓馥もそれに呼応した武帝紀》。董卓は韓馥を推挙した周毖伍瓊らを殺している《董卓伝》。袁紹王匡張楊河内に、張邈張超劉岱橋瑁袁遺孔伷酸棗に、袁術孫堅南陽進駐し、韓馥は後方の鄴に残って食糧輸送あたった武帝紀・張楊臧洪・破伝・後漢書袁紹伝》。このころ郷里潁川郡から荀彧らを呼び寄せる荀彧伝》。

翌二年春、韓馥は袁紹らと共謀して大司馬幽州劉虞推し立てて皇帝の座に就けようとした。劉虞はそれを承知せず、また袁紹らが尚書事務宰領するように勧めたが、やはり聞き入れなかった。それでも劉虞袁紹・韓馥らは連合維持し続けた公孫瓚伝》。

そのころ韓馥の将軍麴義叛乱起こし、韓馥を攻撃した敗退した袁紹は韓馥を恨んでいたので彼と同盟し賓客逢紀計略従い公孫瓚手紙送って冀州攻撃させた。公孫瓚はこれに応じて董卓を討つのだと言いながら韓馥を襲撃しようとした《後漢書袁紹伝》。韓馥は安平公孫瓚軍を迎え撃ったが、敗北して彼の侵入許してしまう《袁紹伝》。

四月董卓洛陽自焼して長安引き揚げると、袁紹軍勢延津移し冀州窺う姿勢示した袁紹高幹荀諶郭図張導らをやって韓馥に告げさせた。「公孫瓚勝利乗じて南進し、諸郡が彼に呼応しております。袁車騎将軍袁紹)は軍勢を東に返しており何を企てているかわかりません将軍のために危うく存じております」。韓馥は「一体どうすればいいのか」と恐れおののいた袁紹臧洪後漢書袁紹伝》。

荀諶「君(あなた)はご自身見て人徳寛容さ人々受け入れ天下慕われているのは袁氏君とどちらでしょうか?」、韓馥「(わたしの方が)及ばない」、荀諶危機臨んで決断し智慧勇気の点で人一倍なのはどちらでしょうか?」、韓馥「それも及ばない」、荀諶世に恩徳施し天下がその恩恵被っているのはどちらでしょうか?」、韓馥「やはり及ばない」、荀諶勃海は一郡に過ぎないとはいえ実態一州同然です。いま将軍三つの点で袁紹及ばないされましたが、袁氏一代英傑ですから将軍下位ではいられますまい」《後漢書袁紹伝》。

荀諶公孫瓚率いる燕・代の兵士は当たるべからざる勢いです。冀州天下の台所。もし(袁紹公孫瓚の)両雄城下干戈を交えることになれば滅亡目前でありましょう。もともと袁氏将軍旧交あり、か同盟軍でもあります将軍のために計算いたしますと、冀州挙げて袁氏譲渡なさるほど良いことはありません。袁氏冀州を得ることになれば、公孫瓚でも彼と争うことはできますまい。これこそ将軍謙譲美名挙げさせ、泰山如き安泰さをもたらすものですぞ。将軍よ、お疑いなさらぬよう!」《袁紹伝》。

韓馥はもともと臆病な人柄だったから、その計略承諾した長史耿武別駕閔純・治中李歴が韓馥を諫め、「冀州田舎とはいえ武装兵百万人と十年分の食糧ございます袁紹孤立した余所者軍勢困窮し我ら鼻息窺っておる有様譬えてみれば手のひらの上赤子同然、乳をやらねば飢え死にさせるともできるというのに、どうして州をくれてやろうとなさるのですか?」と言ったが、韓馥は「吾(わたし)はもともと袁氏部下だったし、才能も本初(袁紹)には敵わぬ謙譲度量古代の人も貴んだところだ。諸君だけがどうして心配するのか!」と言って聞き入れなかった《袁紹伝》。

韓馥は都督従事趙浮程奐強弩部隊一万人を預けて河内駐屯させていたが、趙浮程奐は韓馥が冀州譲渡しようとしていると聞き孟津出立して急いで東下した。朝歌清水口まで来るとそこに袁紹軍駐留していたので、夜間軍鼓打ち鳴らしながら袁紹軍の側を通り過ぎていった。趙浮らは「袁本初軍勢には一升の米もなく、張楊於夫羅新たに味方付けたといってもまだ役立てることはできません。我ら対戦させてくださいませ十日のうちには土崩瓦解させるでありましょう」と諫言した。韓馥はやはり聞き入れなかった《袁紹伝》。

七月武帝紀》、韓馥は息子印綬預けて黎陽駐屯していた袁紹届けさせ、自分趙忠旧宅移り住んだ袁紹伝》。袁紹が都官従事任じた朱漢はかつて韓馥に冷遇されたことがあり、また同時に袁紹気に入られようと思い勝手に城兵動員して韓馥邸を包囲した。韓馥は逃走して矢倉に登ったが、息子朱漢捕らえられて足を木槌砕かれた。袁紹すぐさま朱漢逮捕して処刑したが、韓馥の恐怖去らず袁紹手紙送って冀州去った袁紹伝》。

韓馥は陳留太守張邈身を寄せたが、ある日袁紹使者がやってきて張邈耳打ちをしたのを見て自分暗殺しようとしているのだと思い込みしばらくして廁に行き、そこで自殺した袁紹伝》。

参照袁遺 / 袁紹 / 袁術 / 於夫羅 / 王匡 / 郭図 / 麴義 / 橋瑁 / 伍瓊 / 公孫瓚 / 孔伷 / 耿武 / 高幹 / 朱漢 / 周珌周毖) / 荀彧 / 荀諶 / 孫堅 / 張咨 / 張超 / 張導 / 張邈 / 張楊 / 趙忠 / 趙浮 / 程奐 / 董卓 / 閔純 / 逢紀 / 李歴 / 劉虞 / 劉子恵 / 劉岱 / 安平国 / 潁川郡 / 燕国 / 兗州 / 延津 / 河内郡 / 冀州 / 鄴県 / 酸棗県 / 清水口 / 代郡 / 泰山 / 長安県 / 朝歌県 / 陳留郡 / 東郡 / 南陽郡 / 勃海郡 / 孟津 / 幽州 / 予州 / 洛陽県 / 黎陽県 / 御史中丞 / 三公 / 刺史 / 侍中 / 車騎将軍 / 従事 / 尚書 / 城門校尉 / 大司馬 / 太守 / 治中従事 / 長史 / 都官従事 / 都督従事 / 別駕従事 / 牧 / 録尚書事尚書事を領す) / 印綬 / 強弩 / 賓客


韓馥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/08 07:11 UTC 版)

韓馥
清代に描かれた韓馥の絵
後漢
冀州牧
出生
豫州潁川郡
死去 初平3年(192年
拼音 Hán Fù
文節
主君 董卓→独立勢力→袁紹張邈
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韓 馥(かん ふく、? - 初平3年(192年)10月以降[1])は、中国後漢時代末期の武将・政治家。文節豫州潁川郡(現在の河南省)の人[2]。『後漢書』・『三国志』に記述がある。

後漢末期、董卓の専横に抵抗し挙兵した諸侯の1人である。一時は袁紹と共に帝の擁立を目論んだ事もあったが失敗し、最後は勢力を弱めた末に袁紹から領地を追われ没落した。

正史の事跡

義兵を挙げる

『後漢書』に伝のある韓韶や同時代の韓融(大鴻臚)の同族と推測されるが、続柄は明らかでない。

御史中丞を務めていたが、実権を掌握した董卓から冀州牧に任じられた(魏志「武帝紀」が引く『英雄記』)。その後、広平沮授を別駕に任命し、騎都尉を兼任させた(魏志「袁紹伝」が引く『献帝紀』)。また、河間張郃を司馬に任命した(魏志「張郃伝」)。

当時、渤海郡には董卓と対立し出奔していた袁紹が、太守として入っていた。韓馥は元々袁氏に仕えた役人であったが(魏志「袁紹伝」)、董卓の意向を忖度して従事を数人使い、袁紹を監視した(魏志「武帝紀」が引く『英雄記』)。

橋瑁三公の公文書を偽造し、各国に配布して董卓の罪悪を述べ、諸侯の決起を促そうとした。韓馥が袁氏に付くか董卓に付くか迷ったが、従事の劉子恵は韓馥の弱気な態度を諌めると共に、真っ先に行動を起こさず「他に決起をする者が出たら、その時に同調すればよいだろう」と進言した。韓馥は渤海の袁紹に手紙を送り、董卓の悪事を伝えその挙兵を認めた(魏志「武帝紀」が引く『英雄記』)。

初平元年(190年)春正月、関東で反董卓の義兵が挙兵し、韓馥は諸侯の1人として参加した(魏志「武帝紀」)。このため董卓は韓馥らを推挙した周毖らを斬殺した(魏志「董卓伝」・蜀志「許靖伝」)。

同年2月、董卓が長安への遷都を決めたため、盟主である袁紹は河内に、韓馥もに駐屯したが、董卓軍が強力であったため、敢えて行動を起こそうとはしなかった(魏志「武帝紀」)。

帝擁立を目指す

袁紹と共に、皇族で幽州牧の劉虞を擁立しようと計画したが、袁術[3]曹操らがこれに反対した(魏志「袁術伝」・魏志「武帝紀」)。翌2年(191年)春には劉虞本人に擁立を持ちかけたが[4]、劉虞に固辞されたため失敗した(魏志「武帝紀」・「公孫瓚伝」)。また官爵を発行させるため、劉虞に尚書の事務を執り行なわせようとしたが、これも拒絶された(魏志「公孫瓚伝」)。

韓馥は安平に駐屯していたが、公孫瓚の攻撃を受け撃破された。公孫瓚は表向きは董卓征伐に協力すると言いつつも、内心は冀州に攻め寄せる意思を持っていた。また諸郡がこれに呼応する動きを見せたため、韓馥は恐怖心を抱いたという。董卓が長安遷都後も、しばらく洛陽に留まって関東諸侯の侵攻に備えていたが、同年夏4月に長安へ退いたため(魏志「武帝紀」)、袁紹は延津に引き返した(魏志「袁紹伝」)。

冀州を奪われる

当時の袁紹軍は補給に苦しんでおり、物資の供給を韓馥に依存していた。このため逢紀はこの機会に公孫瓚を利用し、冀州を韓馥から奪い取るための策略を袁紹に具申した。袁紹はそれを容れて公孫瓚と連絡を取り、韓馥に軍事的な圧力をかけたという(魏志「袁紹伝」が引く『英雄記』)

麴義は韓馥の将だったが、この前後に部曲を引き連れて袁紹に寝返ったという(『後漢書』「袁紹伝」)。また、張楊於夫羅もこの時期に袁紹へ帰服したという(魏志「張楊伝」・魏志「袁紹伝」が引く『九州春秋』)。

この期を逃すまいと考えた袁紹は韓馥の動揺に付け込み、使者として荀諶高幹らを派遣し韓馥に冀州を譲るよう説得させた(魏志「袁紹伝」)。韓馥は元々臆病な性格であったため、荀諶の説得を聞き、この提案を受け入れる気になったという(魏志「袁紹伝」)。耿武閔純李歴らが、現時点での冀州の軍事力が袁紹を上回っている事を理由に韓馥を諫止したが、韓馥は聞き入れなかった(魏志「袁紹伝」)。また、趙浮程奐が兵を出して袁紹に抵抗したいと願い出たが、韓馥はこれも聞かず、冀州を袁紹に譲ってしまった[5]。同年秋7月の事だった(魏志「武帝紀」)。

これより前、韓馥は騎兵を故郷である潁川に派遣し、同郷の荀氏一門(荀彧ら)を冀州に招いていたが、荀彧が到着した時には、既に袁紹に冀州を奪われた後であったという(魏志「荀彧伝」)。

没落と死

韓馥は奮威将軍に任命されたものの実権がなかったという(『後漢書』「袁紹伝」)。韓馥の従事のほとんどが韓馥を見捨てる中、耿武・閔純だけは袁紹を暗殺しようとしたが、袁紹に取り立てられた田豊により殺害された(『後漢書』「袁紹伝」が引く『英雄記』)。

やがて韓馥は袁紹の勢いを恐れ、袁紹の下を去り張邈の下に身を寄せた[6]

その後、張邈と袁紹の使者が会見している時、袁紹の使者が張邈に耳打ちするのを見た韓馥は、殺されるのではと勘違いしで自殺してしまった(魏志「袁紹伝」)。

物語中の韓馥

小説『三国志演義』でも、反董卓同盟に参加し、第2鎮・冀州刺史(史実は牧)として名を連ねている。董卓軍の猛将華雄に対し、自軍の潘鳳を当たらせるよう推挙するが、あっという間に討たれている。その後、史実同様に公孫瓚の脅威に怯え、耿武の諌めを聞かず袁紹に冀州を譲渡してしまい、実権を失い後悔して、張邈の下に逃げ込むところで物語から姿を消している。その最期には触れられていない。

荀諶・辛評が韓馥の幕僚とされているが、史実ではこの2人は韓馥に仕えた事がない。逆に史実では配下であった沮授・張郃・麴義について、『演義』では全く言及がない。

関連人物

所属配下等
演義のみ登場

参考文献

  • 『後漢書』本文に言及のある伝
  • 『三国志』本文上に言及のある伝
  • 盧弼『三国志集解』古籍出版社、1957年
  • 三国演義

脚注

  1. ^ 『後漢書』五行志注に引いた『呉書』
  2. ^ (魏志「武帝紀」が引く『英雄記』)
  3. ^ 袁術への手紙には献帝霊帝の子ではないとまで書いたという(魏志「公孫瓚伝」が引く『呉書』)。
  4. ^ 使者として甘陵太守の張岐を派遣したという(魏志「公孫瓚伝」が引く『九州春秋』)。
  5. ^ 子に印綬を持たせて袁紹の元への使者とし、自身は過去に宦官趙忠が住んでいた屋敷に引き籠ってしまったという(魏志「袁紹伝」が引く『九州春秋』)。
  6. ^ かつて、韓馥の部下であった河内の朱漢が、袁紹に採り立てられ漢都官従事に任じられていた。この朱漢はかつての韓馥からの待遇に不満を持っており、また袁紹の歓心を買いたい気持ちもあり、勝手に守備兵を使って韓馥の屋敷を襲撃し、捕らえた韓馥の長男の両脚を木槌でへし折った。この事を聞いた袁紹は、直ちに朱漢を逮捕して処刑したという。しかし、韓馥の袁紹に対する恐怖は修まらなかったため、手紙を書いて袁紹の元から辞去したという(魏志「袁紹伝」が引く『英雄記』・『後漢書』「袁紹伝」)。

韓馥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 21:42 UTC 版)

三国志 (横山光輝の漫画)」の記事における「韓馥」の解説

冀州長官。臆病で気が小さく公孫瓚脅威怯え袁紹持ちかけてきた加勢申し出安易に受け入れてしまう。結果的に冀州奪われてしまい、張邈のもとに身を寄せた

※この「韓馥」の解説は、「三国志 (横山光輝の漫画)」の解説の一部です。
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