こく‐がく【国学】
国学 (こくがく)
こくがく 【国学】
国学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/08 10:20 UTC 版)
国学(こくがく、正字: 國學)は、日本の江戸時代中期に勃興した学問である。蘭学と並び江戸時代を代表する学問の一つで、和学、皇朝学、古学(古道学)などの別名がある[3][4]。皇学の基部学問でもある。その扱う範囲は国語学、国文学、歌道、歴史学、地理学、有職故実、神学に及び、学問に対する態度も学者それぞれによって幅広い。
注釈
- ^ 例えば宣長は、遣隋使や遣唐使を「得るものがあった時代でも好んで行うようなものではなかったのに、落命する危険を冒してまで行く意味はない」と断じている一方で[10]、豊臣秀吉の朝鮮出兵については、「神への帰依を怠ったことにより、配下の将兵たちが朝鮮の罪も無い民衆を無益に殺したので敗北した」とする[10]。この「神への帰依」については、『増鏡』に「二条為氏が伊勢神宮に勅使として敵国の降伏を祈った」という故事を引用しながら、「日本は神々の庇護によって神風が吹いて元寇を撃退したのだ」と述べており、「敗北の原因を季節や地形の問題にするのは、霊験に対する無知と負け惜しみである」と非難している[10]。
- ^ 「国学史上の最重要人物」として掲げられるが、これは大国隆正が『学統弁論』で定めたことに始まるもので[20][21]、国学の思想的主張を重視する立場を反映したものである[2]。なお、「四大人」は「したいじん[4]」「しうし[21]」「ようし[22]」「よはしらのうし」と読まれる。
出典
- ^ 岩崎允胤 (1993), p. 2.
- ^ a b 國學院大學日本文化研究所編 (2022), pp. 2–3.
- ^ a b 中澤伸弘 (2006), pp. 16–17.
- ^ a b 國學院大學日本文化研究所編 (2022), p. 2.
- ^ a b c d 日本史用語研究会 (2009).
- ^ 中澤伸弘 (2006), pp. 36–37.
- ^ 國學院大學日本文化研究所編 (2022), pp. 27–30.
- ^ 小川靖彦 (2014), pp. 191–192.
- ^ a b c 中野等 (2010), p. 307.
- ^ a b c 田中康二 (2016), pp. 314–320.
- ^ a b 田中康二 (2016), pp. 320–325.
- ^ 佐藤信淵『混同秘策』コマ8、近代デジタルライブラリー https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/783122/4
- ^ 秦郁彦 (2012), pp. 13–14.
- ^ 「幽囚録」山口県教育会 編『吉田松陰全集 (第1巻)』岩波書店、1940年2月、350-351頁。
- ^ 秦郁彦 (2012), pp. 14–18.
- ^ 田中康二 (2020), pp. 44–47.
- ^ 國學院大學日本文化研究所編 (2022), p. 1.
- ^ 田中康二 (2019), pp. 37–41.
- ^ 津田左右吉 (1946).
- ^ 源了圓 (1973), p. 178.
- ^ a b 中澤伸弘 (2006), pp. 112–113.
- ^ 本居宣長記念館 (2001), p. 244.
- ^ 國學院大學日本文化研究所編 (2022), pp. 277–290.
国学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 05:25 UTC 版)
安永8年(1779年)、『ぬば玉の巻』(ぬばたまのまき) - 『源氏物語』の注釈書。 寛政4年(1792年)、『安々言』(やすみごと) - 日本の外交史論。本居宣長との論争を含む。 寛政5年(1793年)、『よしやあしや』 - 『伊勢物語』論。 寛政6年(1794年)、『霊語通』(れいごつう) - 日本の古代からの仮名遣いの研究書。 享和元年(1801年)、『冠辞続貂』(かんじぞくちょう、かむりごとつぎお) - 賀茂真淵の「冠辞考」の続編で、枕詞329例を五十音順に分類。 享和2年(1802年)、『遠駝延五登』(おだえごと) - 古代史論。 文化2年(1805年)、『神代かたり』(かみよかたり) - 「日本書紀」神代(神話時代)を解説したもの。
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国学
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18世紀に本居宣長によって完成された国学をより実践的な学風へと転換した平田篤胤や藤田幽谷・東湖親子らによって当初の儒学的傾向から強烈な尊王思想へとシフトした水戸学などは幕末の尊皇攘夷思想の形成に一役買った。 薩英戦争や馬関戦争から攘夷の非現実性が明らかになった一方で、尊王思想はより一層強化され、国学の地位は日本における民族主義(主に戦前のそれ)、あるいは教育勅語、国体思想、皇国史観などの基礎として存在し続けた。
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国学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 14:28 UTC 版)
「国学」も参照 江戸時代中期に、仏教や儒教のような外国の思想に対抗して、国学と呼ばれる日本の古代文学や思想、文化の研究が盛んになった。江戸幕府の鎖国政策によって江戸の知識人は西洋文明と積極的な交流を持てなかったため、蘭学、つまりオランダの研究が唯一の西洋を覗き見る窓であった。 江戸時代中期に、国学は背景としてナショナリズムおよび、大坂懐徳堂などの実証的な儒学の影響を受けながら広まった。国学は、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』を含む古代日本の思想・文化を実証的に研究した。国学は仏教や儒教と異なる日本の本来の道徳文化を発掘することを狙いとしていた。賀茂真淵は『万葉集』の研究に取り組み、男性らしく寛容な様式を「益荒男ぶり」と呼び、蔵書を純粋かつ簡潔に評価した。古事記の研究を通じて、本居宣長は、日本文学の本質は、物事に接した時に自然に起こってくる感情である「もののあはれ」から生まれてくると主張した。彼は中国の(儒教・仏教の)「からごころ」に代えて「やまとごころ」を尊重した。彼によれば、国学は神道という日本の古い流儀を追究するべきであるという。国学の研究を通じて、平田篤胤は国粋的な復古神道、天皇への服従、儒教及び仏教の廃止を唱えた。これが江戸幕府の崩壊と明治維新の駆動力となった。
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「国学」の例文・使い方・用例・文例
- 英国学士院会員
- 教授は英国学士院会員に選出された。
- 私はある外国学生と親しくなった。
- 英国学士院特別会員.
- 英国学士院 (The Royal Society)の会報.
- 彼は正式に英国学士院の会員に選ばれた.
- 国学者
- 宗教団体と学校のために、社会的・政治的な国学的保守主義、学校で行う祈りおよび連邦政府からの財政援助を主唱する米国政治派閥
- 帝国学士院という機関
- 江戸中期の国学者で,歌人でもある賀茂真淵の門下にあること
- 江戸中期の国学者で歌人でもある賀茂真淵の門下の人々
- 国学という学校
- 国学という学問
- 国学院大学という私立大学
- 国学
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