興り
興り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/18 07:33 UTC 版)
1887年、19世紀後半のスウェーデン人移民の誰もがそうであったように、16歳のジョン・W・ノードストローム (en:John W. Nordstrom) もまた、デパートを経営するという夢を持ってアメリカ合衆国へ移民してきた。彼はスウェーデン北部、ルレオに程近いAle村の生まれで、元はヨハン・ノルドストレーム(Johan Nordström)という名前だった。(John W. Nordstromは後にそれを英語風にしたもの)ニューヨークに到着したのち、彼はミシガン州で働きだしたが、アメリカを横断するように召使の仕事をこなし、彼はシアトル近郊のワシントン州アーリントンに20エーカーのジャガイモ農場を購入するのに足るだけの資金を貯めた。1897年にシアトルを出て、カナダ・ユーコン準州クロンダイクでのゴールドラッシュに加わった。二年後に彼は金を掘り当て、13000ドルの利益を得た。その利益を持ってシアトルに戻ると、彼はヒルダ・カールソンと結婚し、ビジネスの機会を探した。最終的に1901年に近くで靴修理業を営むカール・F・ヴァリンと共同で靴屋を開店した。同時期に彼はヒルダとの間に5人の子を儲け、そのうちエヴェレットとエルマー、ロイドの3人は、後に彼の仕事を手伝うことになる。シアトルに2号店を開店した1923年には、エルマーはワシントン大学を卒業し、同店の開店業務に携わるには十分な実務経験を得ていた。 1928年、ジョンは仕事を引退し、エヴェレットとエルマーの二人の息子に仕事の権利を譲り渡した。1929年にはヴァリンが、同じく引退し、彼ら2人に自分の権利を譲渡した。1930年、セカンド・アベニュー店を名をノードストロームの名と改め、新装開店を果たした。続けて1933年にはロイドが仕事に加わり、兄弟たちはそれから40年に亘り、仕事を共同でこなしていくことになる。 1958年、ノードストロームは2州にまたがって店舗を有するまでになっていたが、相変わらず売っているのは靴だけだった。この頃のノードストロームの改革とは顧客へのサービスや、品揃えの拡大、靴のサイズの網羅などで合った。衣料品関係には1963年のBest Apparel of Seattle社買収によって参入し、会社の名前を1969年にノードストローム・ベストと改めた。 1968年までに、エヴェレットの引退も近づき、後継者たちが販売戦略について会議を重ねていた。彼ら第2世代の株式公開を企図した動きは、それに反対して親族経営をすべきだと考えていたノードストローム社の第3世代であるエヴェレットの息子ブルースと、エルマーの2人の息子ジェームズ、ジョン、それにロイドの娘婿であるジョン・マクミランらに感づかれていた。が、にもかかわらず1971年、ナスダックに上場する。1973年、再度名前が変更され、現在のノードストロームという社名になった。1999年にはニューヨーク証券取引所に創業者J.W.ノードストロームのイニシャルとともに上場した。 1990年代までは、同社の第4世代とされる初代ノードストロームの子孫が経営陣を固めていたが、ジョン・ウィテカーが1997年にノードストローム家とは関係のない人間としては初めてCEOの座についた。2001年には創業者一族の一員であるブルースの息子たちが、同社の経営にはノードストローム家が未だに権力を有していると主張するまでになっている。 2016年11月、自社の通販サイトで、南京事件をテーマにした映画のシーンをプリント柄に使ったパーカを販売したところ、「不愉快だ」などと抗議が殺到し、13日までに商品の取り下げに追い込まれた。
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興り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/06 03:36 UTC 版)
クロアチア民主同盟は、当時ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の統治下で、フラニョ・トゥジマンを中心とするクロアチア民族主義を志向する反体制派によって結成された。トゥジマンは第二次世界大戦のパルチザンであったが、終戦後まもなく民族主義に転向した人物であり、クロアチア独立国の肯定やウスタシャによるセルビア人虐殺を否定する歴史修正主義者であり、クロアチアの連邦離脱を主張し逮捕された経歴がある。党が結成されたとき、クロアチアでは多党制は試行途上にあり、クロアチア民族主義を公然と掲げることは無謀であった。クロアチア民主同盟は地下活動的な形で結成され、その最初の事務所はザグレブのとある小屋の中に置かれた。そのため、党の結成者たちは誇りを持って、自らをバラカシ(barakaši)、つまりバラカ(baraka、小屋)の者たちと呼んでいる。 このように密かに誕生したクロアチア民主同盟は、しかしその後共産主義体制が崩壊するに従って急速に勢力を拡大するようになった。トゥジマンやその他の党幹部らは外国を訪ね、在外クロアチア人から多額の資金を集め、またこれを通じてより民族主義的な党基盤が形作られていった。 1990年の総選挙では、与党のクロアチア共産党(Croatian Communist Party)は、クロアチア民主同盟の民族主義的性向は、自党に有利に働くだろうと予想していた。投票は2大政党に有利な制度となっており、共産党から改称されたクロアチア社会民主党(Social Democratic Party of Croatia)は、「危険思想の党」とされるクロアチア民主同盟と比べると「より小さな悪」としてクロアチア国民から選ばれるだろうと考えていた。しかしこの予想ははずれ、クロアチア国民の大多数がクロアチア民主同盟に票を投じた。クロアチア国民は、クロアチア民族主義や、共産主義・ユーゴスラビアからの脱却のためだけでなく、彼らの考える、スロボダン・ミロシェヴィッチらによるセルビア民族主義の勃興への対抗の意味もこめられていた。クロアチア民主同盟はクロアチア議会で多数派を形成し、クロアチアは共産主義の一党支配から反共主義の一党支配に転じた数少ない国であった。1990年5月30日、クロアチア民主同盟が公式に政権を発足させた日は、後に「国家の日」とされ、クロアチアの公式の祝日となった。
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