ナンキン‐じけん【南京事件】
南京事件
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南京事件(なんきんじけん)は、日中戦争の最中である1937年12月に、日本軍が南京戦において中華民国の首都である南京市を占領した後(もしくはその前後)に、数か月間にわたって多数の一般市民、捕虜、敗残兵、便衣兵を虐殺したとされている事件である[1][2]。南京虐殺事件[2]や南京大虐殺[3]、中国では南京大屠殺という呼称が使われている。事件の規模、虐殺の存否、戦時国際法違反か否かは南京事件論争、犠牲者数をめぐる論争は南京事件の被害者数にて詳細が論じられている。
- 1 南京事件とは
- 2 南京事件の概要
南京事件
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「ハロルド・J・ティンパーリ」の記事における「南京事件」の解説
1937年12月13日の南京陥落時とその後の日本軍占領時に起こったといわれる南京事件に際して、1938年1月16日付電報で「長江(揚子江)デルタで市民30万人以上が虐殺された」と記載した。この電報は、日本人検閲官によりに差し止められた。
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南京事件
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不法な虐殺数を十数万から数十万とする大虐殺存在派と、不法殺害をゼロ乃至殆どないものとする大虐殺否定派(まぼろし派)の間に位置する、虐殺の存在を虐殺数数千から数万のオーダーで認める中間派(矮小化派、限定派とも)の立場に立つ。南京事件については自著『南京事件』において、日本軍の不法行為による犠牲者数を「3.8万-4.2万人」とし、以後も被虐殺者数は約4万人程度と推定している。2007年に出した同著の増補版では、「4万の概数は最高限であること、実数はそれをかなり下まわるであろうことを付言しておきたい」と追記しており、週刊新潮2007年12月27日号では、「だいたい4万人」とコメントしている。秦のこの数に対して、歴史学者の吉田裕は、便衣兵(ゲリラ)・投降捕虜・不法殺害等の定義の問題を別にしても、①第九師団の敗残兵掃討戦に関しては殲滅数7千人を不法殺害に計上しながら他師団の掃討戦の殲滅数は計上した形跡がない、②スマイス調査による一般市民の推定死者数をより少ない推定である2.3万人に下方修正する根拠が示されていない、③下方修正した一般市民の推定死者数2.3万人にさらに1/2~1/3の割引率を書ける意味が不明であることを指摘している。とくに③の割引率は2.3万人全てが不法殺害ではなく、砲撃・銃撃に巻き込まれた市民も含まれているということであろうが、そもそもスマイス調査はそのような軍事行動による死者数と兵士の暴行による死者数を分けて推計値を出しているため、暴行による死者数を取るべきで、割引率をかける意味がないと指摘している。 百人斬り競争については、行ったとされる旧日本陸軍少尉が故郷鹿児島県において地元の小学校や中学校で「投降した敵」を斬ったと自ら公言していたことを、名簿を頼りに問合せ4人から回答を得て、1991年に日本大学法学会『政経研究』42巻1号・4号にて発表している。志々目彰証言は「戦意を失って投降した敵を斬」ったと言っている。秦自身が語る捕虜の要件は「リーダーがいて、標識を制服につけていて、公然と兵器を携帯しているのが条件で、国際法上の待遇が受けられます」。北之園陽徳は中国兵が綿服を着ていたと言っている。
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南京事件
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1927年の南京事件の際にも日本領事館は襲撃され、領事一家以下、在留邦人、日本軍将兵等が殺傷された。この事件の際には、海軍陸戦隊の荒木亀男大尉は「反抗は徒らに避難民全部を尼港事件同様の虐殺に陥らしむるだけだから、一切手向いせず、暴徒のなすがままにせよ」と命令し、陸戦隊員は中国人の暴行に反抗しなかった。このため領事館内では駐在武官の根本博少佐、領事館警察木村署長を始め多くが重傷を負い、婦女子も丸裸にされ金品・衣服などすべてを奪われ領事館内は木端微塵となったものの邦人虐殺事件に発展しなかったが、荒木大尉は事件後に責任を取り自決を図った。1945年のソ連対日参戦の際には北支那方面軍兼駐蒙軍司令官となった根本博は大本営の武装解除命令を拒否し殺到するソ連軍と戦い抜き4万人の在留邦人の脱出を成功させた。
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南京事件
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南京事件で話題となる遺体の埋葬は「臨時的慈業」に属する。事変での傷病兵民の看護や埋葬は本来の事業ではない。末光高義『支那の秘密結社と慈善結社』に掲載されている「世界紅卍字會救済隊規定」において注目されるのは、「本會の救済隊員は出發に際し戦時公法に依り従軍救護するものとす」(第二條)とし、需用品を汽船汽車等に輸送する場合は「陸海軍人同等の特遇を受くるものとす」(第三條)とされている箇所である。世界紅卍字会には赤十字社に匹敵する特殊な地位が与えられていたことを示すものと考えられる。白地の楕円に紅の卍は人夫の制服の認識票であり(第十條・乙)、日中戦争の写真にみることができる。
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南京事件 (1927年)
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「南京事件に関する参考文献」の記事における「南京事件 (1927年)」の解説
南京事件 (1927年)に関する参考文献。 田中秀雄『もうひとつの南京事件-日本人遭難者の記録』(中支被難者聯合会編、田中秀雄編集・解説、芙蓉書房出版、2006年6月)ISBN 4829503815 フレデリック・ヴィンセント・ウイリアムズ 『中国の戦争宣伝の内幕 日中戦争の真実』田中秀雄訳(芙蓉書房出版、2009年) ISBN 978-4-8295-0467-3原著:Frederic Vincent Williams "Behind the News in China", 1938.
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南京事件 (1937年)
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「南京事件に関する参考文献」の記事における「南京事件 (1937年)」の解説
南京事件 (1937年)に関する参考文献。 NDL-OPACにおける件名:南京事件(1937)
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