南京事件
(南京事件 (1937年) から転送)
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南京事件(ナンキンじけん)は、日中戦争中の1937年12月に日本軍が中国の南京市を占領した後、数か月にわたって多数の一般市民、捕虜、敗残兵、便衣兵を虐殺した事件である[1][2]。南京虐殺事件[2]や南京大虐殺[3]とも呼ばれる。事件の規模、虐殺の存否、戦時国際法違反か否かについては南京事件論争、犠牲者数をめぐる論争は、南京事件の被害者数にて詳細が論じられている。
注釈
- ^ 東京裁判判決では20万人以上とされている[6]。
- ^ 2000年時点
- ^ ジョージ・ワシントン大学教授[注釈 2]の歴史学者楊大慶(Daqing Yang)は名称を巡る議論について次のようにまとめている。「一九三七年の議論をどう呼称するかについて合意がないということは、言語上の問題の一つの反映である。初めは中国で使われ、その後、日本、その他の国でも使われている『南京大屠(虐)殺』という語は、それが南京での事件の内容をどのように限定しているかを示している。大屠(虐)殺という語は、強姦や略奪や放火を軽く見ている語ではないだろうか。それはたんに虐殺だったのだろうか、それとも大虐殺だったのだろうか。他方、日本では、さまざまな文筆家によって『南京事件』という語が使われてきたが、しかし、他の国ぐにではそれは、一九三七年の恐怖に、ありふれた事件であるかのような響きを与えるものだとして多分に批判をまねいている[7]」
- ^ 引用は笠原十九司『南京事件』72頁より。ほとんど同文の評は吉田裕『もうひとつの日中戦争史、天皇の軍隊と南京事件』にも見られる。以下は吉田の評の引用である。「上海攻略後、南京に向かう追撃戦の全過程は、すでに上海戦の段階で顕著になっていたさまざまな不法行為、残虐行為がより大規模な形で拡大される過程であり、南京事件の直接の前史をなす過程でもあった[28]。」
- ^ 原文のカタカナ表記をひらがなに改めた。
- ^ このような行軍中の虐殺行為には様々な証言がある。歩兵第20連隊の上等兵牧原信夫の陣中日記は以下のような記述を残す。「(十一月二二日)道路上には支那兵の死体、民衆および婦人の死体が見ずらい様子でのびていたのも可愛想である。橋の付近には五、六個の支那軍の死体がやかれたり、あるいは首をはねられて倒れている。話では砲兵隊の将校がためし切りをやったそうである。(十一月二六日)午前(原文注:午後の誤り)四時、第二大隊は喚声をあげ勇ましく敵陣地に突撃し、敵第一線を奪取。住民は家をやかれ、逃げるに道なく、失神状態で右往左往しているのもまったく可愛想だがしかたがない。(十一月二七日)支那人のメリケン粉を焼いて食う。休憩中に家に隠れていた敗残兵をなぐり殺す。支那人二名を連れて十一時、出発す。...鉄道路線上を前進す。休憩中に五、六軒の藁ぶきの家を焼いた。炎は天高くもえあがり、気持ちがせいせいした。(十一月二八日)午前十一時、大隊長の命令により、下野班長以下六名は小銃を持ち、残敵の掃討に行く。その前にある橋梁に来たとき、橋本与一は船で逃げる五、六名を発見、照準をつけ一名射殺。掃討はすでにこの時から始まったのである。自分たちが前進するにつれて支那人の若い者が先を競って逃げて行く。何のために逃げるのかわからないが、逃げる者は怪しいと見て射殺する。部落の十二、三家に付火すると、たちまち火は全村を包み、全く火の海である。老人が二、三人いて可愛想だったが、命令だから仕方がない。次、次と三部落を全焼さす。そのうえ五、六名を射殺する。意気揚々とあがる。(十一月二九日)武進(常州市に属する)は抗日、排日の根拠地であるため全町掃討し、老若男女をとわず全員銃殺す。敵は無錫の線で破れてより、全く浮足立って戦意がないのか、あるいは後方の強固な陣地にたてこもるのかわからないが、全く見えない[40]。」
- ^ 秦郁彦が引用する日本の外交官日高信六郎の東京裁判での証言によれば12月17日時点で憲兵14人、数日中に補助憲兵40人が得られるはずという状況であった。秦郁彦は上海派遣軍と第十軍を合わせて、南京占領直後に城内で活動していた日本軍の正規の憲兵は30人を越えなかったと推定している[50]。
- ^ 「ラーべの感謝状」とは、1937年12月14日に南京安全区国際委員会のジョン・ラーベより日本軍に提出された文書「南京安全区トウ案」第1号文書(Z1)のことである[54]。この文書の冒頭に「貴軍の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことにたいして感謝申し上げるとともに、安全区内に居住する中国人一般市民の保護につき今後の計画をたてるために貴下と接触をもちたいのであります。」とある。
- ^ 笠原十九司によれば、当時の駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーは日記においてパナイ号事件によって日米の国交断絶を覚悟したと記している。日米開戦にも繋がりかねないこの事件を巡る交渉の方に注目が集中したのは自然の成り行きであった[110]。また、パナイ号はジャーナリストの一時待機所になっており、日本軍の南京占領直前までに行われた取材活動の資料などはパナイ号と共に失われた[111]。パナイ号事件を研究するアメリカの研究者の間では、この事件は真珠湾攻撃に至る日米開戦への転機と位置付けられている[112]。
- ^ 1937年12月2日に松井石根大将から交代。
- ^ 1937年12月28日、稲葉四郎中将に交代。
- ^ 海軍
- ^ これについて秦郁彦は「松井大将は元来が南京攻略論者だったし、上海派遣軍をひきいる立場から第十軍とのライバル意識を刺激されたのかもしれない」と評している[144]。また、笠原十九司は現地入りしていた武藤章が南京進撃を成功させるために、第10軍(第6師団)の急進撃と戦果を称える一方で上海派遣軍(第16師団)の戦果をこき下ろすような電報を第16師団宛てに送り、第10軍と上海派遣軍の南京一番乗り競争を煽ったことを指摘している[145]
- ^ 南京攻略戦の際、中支那方面軍司令官であった松井石根大将は病気と疲労のため蘇州司令部におり、南京攻略戦自体には参加していなかった[149]。
- ^ 兵士30,000人、一般市民8,000人から12,000人の合計。これはルイス・S・C・スマイスによる民間慈善団体の紅卍字会および崇善堂の死体埋葬記録の調査で得られた数字を参考に調整したものである[180]。
- ^ 秦は南京の中国軍の兵力10万、5万が戦死、4万が捕虜、3万が殺害(生存捕虜は1万)と推定。台湾公式戦史、上海派遣軍参謀長飯沼守少将日記、上海派遣軍郵便長佐々木元勝の12月15日日記の「俘虜はおよそ四万二千と私は聞かされている」に符合[184]。
出典
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- ^ 笠原 (1997)、153-154頁および秦 (2007)、116頁引用より孫引き。原文は旧仮名遣いであるが、笠原引用では現代文に直されている。
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- ^ 吉田 (1985)、148頁の引用より孫引き。引用元は旧字旧仮名遣いカタカナ表記。いずれも現代文に改めた。強調は原文ママ、ただし吉田による強調は太字ではなく傍点。
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