江戸時代中期
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陸奥左近が雷電爲右衞門と立合うも、「雷電には足りないものがある」と立合いを放棄、谷風梶之助を倒した。10年後、雷電と再戦する機会を得ないまま病没した左近にかわり左近の娘・葉月が雷電に挑むが、今度は「葉月には足りないものがある」と雷電が立合いを放棄。更に20年後、葉月の息子・兵衛が雷電と対決、互いに死力を振り絞った戦いの末雷電は立ったまま絶命した。兵衛は、雷電と葉月の間に生まれた子とも示唆されている。(修羅の刻・雷電爲右衞門編)
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江戸時代中期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 06:12 UTC 版)
第7代藩主・頼徸は享保14年(1729年)に16歳で家督を継ぎ、以後54年間にわたって藩主の座にあった。頼徸は関流和算家の大家であり、数学書『拾璣算法(しゅうきさんぽう)』全5巻を著述した大名数学者として有名である。しかし藩政においては、享保17年(1732年)の享保の大飢饉に際してウンカによる大被害を受けて多数の餓死者を出し、さらに御殿造営や幕命による東海道の諸河川改修手伝いにともなう出費を賄うための増徴政策をとったため、領民が6万人規模にも及ぶ一揆を起こすなど、その治世は平坦なものではなかった。 第8代藩主・頼貴は、相撲を愛好して多くの力士を召し抱えたり(雷電爲右エ門との勝負で知られる横綱小野川喜三郎や筑後出身の鯱和三郎は久留米藩の抱え力士である)、犬を愛好して買い集めるなど自らの趣味に傾倒し、悪化していた藩財政を顧みなかった。一方、頼貴の治世の功績としては、天明3年(1783年)に学問所(藩校)を開き、文教の興隆を図った点が挙げられる。学問所は天明7年(1787年)に「修道館」と名付けられたが、寛政7年(1795年)に焼失した。樺島石梁らの奔走によって寛政8年(1796年)に再建された藩校は、新たに「明善堂」と名付けられた。明善堂は真木保臣などの人材を輩出し、今日の福岡県立明善高等学校につながっている。
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江戸時代中期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 09:48 UTC 版)
だが、江戸時代中期に入ると経常的・臨時的(例:勅使・朝鮮通信使の接待や将軍の日光社参参詣の供奉など)の両面における財政支出の拡大に加えて享保3年(1718年)以後の米価の低落傾向によって財政難に拍車がかかり、恒常的な借り入れ関係が生じ、更に領内の凶作によって蔵屋敷への年貢米(蔵米)や特産品(蔵物)搬入が減少するなどで売却代金によって返済しきれなくなる事態も生じた。 それでも不足額を「証文貸」と称して元利金を複数年にわたる売却代金からの分割返済によって行われれば、一応はきちんと返済したものとみなされた。だが、どの藩も財政難は深刻化する一方であり、藩側による蔵元・掛屋の解任や証文の破棄などによる一方的な債務破棄(踏み倒し)やこれに伴う商人の破産、反対に中小藩の中には商人側からの取引打切通知を受ける藩も現れ、更に江戸幕府も大名救済と商業抑制のために宝暦11年(1761年)以後、幕府御用金の藩への実質的な貸付や幕命から商人に対して親藩への強制的な貸付命令を行うようになった。 極端な場合として領内の凶作にも関わらず、貸付の停止を恐れた藩が農民から強制的に徴収して蔵屋敷に送って、同一年の年貢米を担保に複数の商人から融資を受ける例や、返済実績の確保を行ったために蔵屋敷に大量に米が送られているにも関わらず領内は飢饉で餓死者が出るという「飢饉移出」が発生して餓死者の発生に伴って耕作者のいない田畑が発生して更なる財政収入の悪化をもたらして更なる大名貸を依頼するという悪循環が発生した例もあった。そのため、大名貸の危険(リスク)は高くなる一方で、利潤率は低下するようになった。 だが、慢性的な財政難に苦しむ借手側の藩も勿論のこと、既に多額の貸付を抱えてしまった貸手側の商人も全ての大名貸から手を引けるような状況ではなくなりつつあった。このため、借手側の藩は商人に対して扶持米を与えて藩士と同様の待遇を与えるなどの厚遇策によって商人の関係断絶を回避し、貸手側の商人は締貸し・分貸しなどの融資額の制約を設定したり枝手形を発行して投資者を募ることで危険の分散を図った。また、草間直方や石田敬起(大根屋小右衛門)のように藩政改革に助言を行って藩財政の再建に協力することで、自らの持つ債権の踏み倒しを回避しようとする商人も存在した。 更に大坂堂島米会所に所属する米仲買・米方両替である「浜方」と呼ばれる商人から、米切手を担保として融資を受ける浜方先納と呼ばれる融資を得ることもあったが、この方法は通常の大名貸の方法では融資が受けられなくなった藩が採ることが多かった。
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江戸時代中期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/18 08:17 UTC 版)
江戸時代中期以降、新田開発のために海への放水路が開削された。1730年(享保15年)に通水した松ヶ崎堀割は、翌1731年(享保16年)の増水で決壊して幅が広がり、阿賀野川の新河口(現在の河口)になった。また、1820年(文政3年)に通水した内野新川は、現在も西区・西蒲区一帯の基幹排水路となっている。 この頃、長岡藩は新潟町に、度々御用金を課した。1768年(明和5年)、長岡藩による御用金を原因とする一揆である新潟明和騒動が発生。町民の支持を得た一揆側が涌井藤四郎を町の総代とし、約2か月にわたり町政を執行した。事件後、町民は処刑された涌井を、義民として密かに語り伝えた。 新田開発の進展と人口増加により、市域では近世中期までに葛塚(くずつか)(北区)、亀田(江南区)、新津・小須戸(秋葉区)、白根(南区)、大野(西区)、曽根・巻(西蒲区)などの在郷町が生まれた。在郷町には六斎市(定期市)が開かれた。在郷町は舟運の要所に位置しており、舟運が交通の動脈であった。
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江戸時代中期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 14:19 UTC 版)
男性の髪型は本多髷が主流。女性の髪型は灯籠鬢という、横に張り出し、透けた感じの鬢が主流になり、髷も島田髷や勝山など横に広くて大きい髷になる一方、髱の方は鬢の張り出しと反比例して概ね小さい膨らみか、全くないものとなるかあるいは後ではなく下の方に膨らむようになり、この頃から抜き衣紋が行われるようになった。
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江戸時代中期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 03:57 UTC 版)
1728年(享保13年)から17年間、飛騨国の代官であった長谷川忠崇が徳川吉宗の命を受けて著した『濃州志』の巻第七踏歌の中で、「転木麿歌(するまうた)」と題して「本土ノ民家於イテ籾オヒク礱也其時ウタフ歌也、郡上ノ八幡出テ来ルトキハ雨ハ降ラネトミノ恋シ(按スルニ濃州郡上ニ八幡町アリ飛州ノ隣国タリ)」と記している。これは飛騨の地で八幡のことを歌ったもので、郡上の八幡出て行く時は雨も降らぬに袖しぼる〜の替え歌と思われ、これが書かれた以前より郡上でこの歌が歌われていたことを物語っている。なお、この歌が踊り歌として歌われていたかは不明である。1840年(天保11年)に書かれた郷中盛衰記によると「延享時代(1744年〜1747年)までは神社の拝殿が九頭宮(くずのみや)と祖師野(そしの)だけにあって盆中は氏子がその拝殿で夜明かしして踊った」と書かれており、この時代より以前から郡上の盆踊りが徹夜で行われていたようである。
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