武昌起義とは? わかりやすく解説

武昌起義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/06 15:51 UTC 版)

武昌起義(ぶしょうきぎ)または武昌蜂起(ぶしょうほうき)は、1911年宣統3年)10月10日湖北省武昌で起きた兵士たちの反乱。辛亥革命の幕開けとなる事件である[1]




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武昌起義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/05 14:03 UTC 版)

呉兆麟」の記事における「武昌起義」の解説

1911年10月10日の夜、熊秉坤工兵第八大隊率いて蜂起望台の武器庫占領し呉兆麟湖北革命軍臨時総指揮官に選出された。呉兆麟・蔡済民中国語版)・熊秉坤三名は武昌起義の中心的指導者となった呉兆麟冷静に戦局分析し軍紀徹底呼び掛けた各部隊2000名以上の将兵望台に集めたのち、鄺傑、馬栄、熊秉坤の各1隊に分け三方面から革命軍指揮して湖広総督督署を攻撃砲撃行おうとしたが、電線が邪魔で目標が定まらなかった。呉は予備隊の中から百名選抜し突撃するとともに、督署後方放火させ、火を目印砲撃開始させた。10月11日の朝に武昌解放した10月11日正午湖北諮問局は軍政府組織のため合同会議開催現在の構成員では軍政府威信欠如する考え捕縛した黎元洪都督選出した黎元洪拒否すると、呉兆麟黎元洪最高司令官たる都督として宣伝湯化竜民政総参長となった中華民国軍政府軍都督府の成立後呉兆麟参謀部副部長となり、謀略処で戦略担当した武漢防衛戦の際には4個防区・8個協民軍第一統領務め漢陽の第1防区を担当した。鄂軍都督府参謀副部長部長戦時総司令部参謀長等を務め、また蔡済民とともに川を渡って自ら漢口前線指揮を執った。10月28日黄興戦時総司令として湖北省漢陽防衛到着すると、呉兆麟多く人員率い、民軍内部調整前線と鄂軍都督府の往来戦闘計画策定参加し戦時における本部と鄂軍都督府関係を調整した11月1日漢口陥落し、呉及び参謀部員らは漢陽全力死守増援を待つよう主張し参謀数名黄興防備展開を支援した27日漢陽陥落すると、黄興上海逃れ蒋翊武戦時総司令官となり、呉兆麟共同武昌防衛行った戦況が不利となり黎元洪店(中国語版)まで逃走すると、呉兆麟武昌防衛責任負い指揮引き継いだ12月17日黎元洪大元帥選出されると、呉兆麟は鄂軍の参謀総長第五統制任命された。南北和議の時は民軍戦時総司令として北伐計画進めた

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武昌起義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/12 07:39 UTC 版)

金兆龍」の記事における「武昌起義」の解説

その夜、「革命軍大隊長」の熊秉坤決起計画し金兆龍は熊の指示第八宿舎2階寝室で同じ第五兵士程定国とともに小銃弾薬箱持ち出して床に就こうとしていたが、当直任務についていた第二排哨長(小隊長に相当)の陶啓勝発見され謀反する気か?」と詰問したところ、金兆龍は「反乱だ!反乱!すぐに反乱起こしてやる!」(反!反!即反矣!)と答え陶啓勝激怒金兆龍平手打ちしたため取っ組み合いとなった陶啓勝の方が優勢となり、取り押さえられた金兆龍が「もうやめろ、何時までここに居る気だ?」(众同志再不动手、更待何时!)と叫ぶと、程定国小銃持って加勢した。しかし程定国近距離発砲できず、銃床陶啓勝殴りつけた。陶啓勝倒れて負傷し逃げ出したところを程定国によって後ろから銃撃された。宿舎1階では前隊隊官(中隊長)の黄坤栄・司務長(軍曹に相当)の張文濤・八営代理管帯(大隊長代理に相当)の阮栄発の3名が鎮圧のため駆けつけたが、次々と程定国殺された。駐屯地大混乱となり、その後熊秉坤は、武昌起義を宣言し望台の武器庫占領した。金は軍需処の電話線切断南湖の砲隊を合流させるため中和門向かい大鉄鎖を破壊すると、3発発砲して合図送り合流した砲隊と督署に向かった

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武昌起義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/04 02:26 UTC 版)

黎元洪」の記事における「武昌起義」の解説

1911年10月10日武漢市武昌新軍内の革命派蜂起するという武昌起義が起こる。形勢を不利と見た湖広総督瑞澂いち早く武昌脱出して漢口租界退避し第八統制の張彪もその後追った逃げ遅れたのは黎元洪である。翌11日正午には武昌全域革命軍制圧され幕僚の劉文吉の家に隠れていた黎元洪革命派捕らえられる。だが、ここで革命派内で意外な思惑働いた武昌蜂起突発的に発生したため革命派の主要メンバー武漢にいないが、革命進めるためにはそれなりの地位にある人物を「表看板」として掲げ必要がある黎元洪将兵からも尊敬されており、革命派主張する民間鉄道会社国有化反対」にも理解示している上、英語を話せるので諸外国革命政府承認得られやすいだろう。 この2つ思惑から、革命派これまで革命派弾圧してきた黎元洪に対して湖北暫定的な司令官になるよう迫った最初身の危険感じて渋々軍政府湖北都督就任した黎元洪だが、次第革命積極的になっていく。11月30日には革命軍司令官に就任し、12月4日には革命派代表として清朝軍機大臣(事実上総理大臣)である袁世凱停戦交渉行ったいつのまに革命中心人物となっていた黎元洪だが、武昌蜂起の後には14の省が続々清朝からの独立宣言しており、「革命政府をどこに置くか」「革命政権主導者を誰にするか」で意見まとまらず武昌派と上海派に分かれていた。そこでアメリカから帰国したのが中国革命同盟会孫文である。結局論争孫文一本化し1912年1月1日孫文南京中華民国臨時大総統就任する妥協案として黎元洪は副大総統就任する

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武昌起義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/31 03:43 UTC 版)

共進会」の記事における「武昌起義」の解説

1909年以後同盟会と共進会の間には多く接触があった。その中には孫武香港訪問し同盟会に加盟し同盟会の譚人鳳武昌訪問し活動資金提供するなど協力関係協議が可能となった。しかし革命運動の中心長江流域にするか華南地方にするかについては合意達せず双方各自革命活動維持することとなった文学社1904年科学補習所、日知会等の名称で結成された。1911年文学社改編され、共進会より以前湖北地区活動行い一般兵士を主な構成員としていた。1911年広州起義失敗後、湖北地区での革命重要性認識した共進会文学社組織合併革命蜂起協議した。後に同盟会の譚人鳳湖北到着し合併向けた協議進められ、後の武昌起義の成功を導くこととなった。 武昌起義の成功後共進会その役割終えたとして解散政治活動継続したメンバー一部同盟会に加盟し、後の副総統である黎元洪の下に終結している。

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武昌起義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 23:14 UTC 版)

辛亥革命」の記事における「武昌起義」の解説

詳細は「武昌起義」を参照 1911年3月武漢新軍内部文学社組織された。共進会陸軍第八鎮第16協第32標に集中して会員集め、武昌起義の段階で5,000名の兵士文学社及び共進会加入し新兵総数3分の1達した文学社共進会新興知識層による革命組織であり、新軍兵士革命潜在力となるため、両者新軍兵士主要な工作対象とした。 1911年5月9日清朝鉄道国有化政策実施し民間資本により建設され粤漢線川漢線買収発表した国有化政策は湘、鄂、川、粤の民衆反発招き四川省中心となり保路運動展開された。 6月17日四川民間団体により“四川保路同志会”が結成され四川諮議局議長蒲殿俊会長に、副議長の羅綸が副会長選出され各種宣伝活動北京への請願運動実施された。8月5日成都川漢線鉄道会社臨時株主総会開催8月24日には市民によりゼネスト実施9月1日には川漢鉄道会社株主総会指導のもとに「抗糧抗捐活動」が実施された。9月7日四川都督趙爾豊は保路同志会指導者拘束鉄道会社同志会押さえ込み行った。この措置激昂し民衆総督衙門請願行動起こすと、趙爾豊は清兵に発砲命令請願行動中の市民30名が射殺される成都血案が発生した9月8日成都近郊農民同盟会及び会党組織である哥老會指導の下に保路同志軍を組織して武装蜂起省城包囲し、清兵との交戦が行われると、付近住民参加し数日の内に20数万規模となった9月25日同盟会員呉玉章、王天傑等は栄県独立指導している。清朝民衆による武装蜂起成都包囲を知ると端方湖北新軍一部指揮させて四川での革命運動の鎮圧命じた湖北新軍張之洞による訓練された“鄂軍”であり、中級軍官以下多く人材官費日本留学していた影響もあり、革命党影響力、特に共進会及び文学社影響強く受けていた。保路運動民衆蜂起変化した後、命令受けた端方湖北新軍率いて四川鎮圧向かったが、それにより武漢清朝勢力弱まったことを好機捉えた革命党人士革命蜂起絶好機会捉えた1911年9月24日文学社共進会武昌双方責任者新軍代表60余名会議開催武装蜂起統一指揮部(起義総指揮部)を組織文学社蔣翊武総指揮に、共進会孫武参謀長に、同じく共進会の劉公が政治準備局総理選出された。起義総指揮部は武昌小朝85文学社機関に、準備局漢口ロシア租界宝善里14号設置され1911年10月6日旧暦8月15日)に武装蜂起確認されたが、準備不足により10月16日延期された。 10月9日孫武ロシア租界爆弾製造している際に爆発事故発生孫武負傷ロシア当局調査逃れるために逃亡したが、武装蜂起文書や旗などが押収され秘密工場の隣に居住していた劉公自宅より劉公の弟である劉同が連行された。湖広総督瑞澂がこの事件の発生を知るや全市警戒命令発し革命党関係者の逮捕に当った。文学社蔣翊武清朝当局動き知り予定早めて武装蜂起決定各方面文書送付した9日夜、彭楚藩劉復基が起義総指揮部で逮捕楊宏勝弾薬輸送中に逮捕され10月10日深夜に3名は斬首されている。 新軍工程営後隊正目班長に相当)の熊秉坤等は予定早めて蜂起することを決定、隊官の呉兆麟決起軍臨時総指揮熊秉坤参謀長とすることを決定した1911年10月10日20時(この時間正確な考証経たものではない)、程正瀛による武昌起義は発動され決起兵士は軍の武器庫襲撃深夜になると文学社及び共進会影響受けた大部分兵士呼応した呉兆麟熊秉坤決起部隊指揮して総督府攻撃南湖砲隊の砲撃の下、夜明け前には総督衙門占拠湖広総督瑞澂逃亡した10月11日未明決起軍湖北省諮議局大會議室集結し新軍八鎮十五二十九標二営司務長の済民により会議招集され軍政府組織都督人選議論された。革命党の呉醒漢、徐達明等10数名以外、湖北諮議局議長湯化竜副議長張国溶及び議員旧軍呉兆麟参加した会議湯化竜議長となり進行し呉兆麟により第21混成統領黎元洪都督とすることが提案され立憲派により承認された。この時革命党勢力黄興宋教仁武昌におらず、彭楚藩劉復基楊宏勝被害を受け、孫武爆発事故負傷蔣翊武逃亡であったことより他の有力な提案が行われず、黎元洪都督湯化竜民政総長一説には総参謀とも)に選出することが決定した11日午前武昌全域決起軍支配下置かれ夜に謀略処が設置された。謀略処により中華民国軍政府軍都督府(中華民国湖北軍政府)の成立宣言され同時に軍政府檄文と『安民布告』が発表され国号中華民国改め清朝年号である宣統廃止して黄帝紀元採用発表宣統3年黄帝紀元4609年とした。軍政府参謀部軍務部、政事部、外交部設置、諮議局大事務所とし十八星旗軍旗とした。謀略処は軍政府名義により『布告全国電』や『通告各省文』などの電信全国発信している。 10月12日革命党人である第二十一混成第四十二士兵胡玉珍、邱文彬、趙承武等は漢陽武装蜂起決行支配下に置くと、趙承武は漢口攻略、ここに武漢三鎮革命勢力下に置かれることとなった

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