武昌起義
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武昌起義(ぶしょうきぎ)または武昌蜂起(ぶしょうほうき)は、1911年(宣統3年)10月10日に清の湖北省武昌で起きた兵士たちの反乱。辛亥革命の幕開けとなる事件である[1]。
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武昌起義
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1911年10月10日の夜、熊秉坤が工兵第八大隊を率いて蜂起、楚望台の武器庫を占領し、呉兆麟は湖北革命軍の臨時総指揮官に選出された。呉兆麟・蔡済民(中国語版)・熊秉坤の三名は武昌起義の中心的指導者となった。呉兆麟は冷静に戦局を分析し、軍紀の徹底を呼び掛けた。 各部隊2000名以上の将兵を楚望台に集めたのち、鄺傑、馬栄、熊秉坤の各1隊に分け三方面から革命軍を指揮して湖広総督督署を攻撃、砲撃を行おうとしたが、電線が邪魔で目標が定まらなかった。呉は予備隊の中から百名を選抜して突撃するとともに、督署後方に放火させ、火を目印に砲撃を開始させた。10月11日の朝に武昌を解放した。 10月11日正午、湖北諮問局は軍政府組織のため合同会議を開催。現在の構成員では軍政府の威信が欠如すると考え、捕縛した黎元洪を都督に選出した。黎元洪が拒否すると、呉兆麟は黎元洪を最高司令官たる都督として宣伝、湯化竜が民政総参長となった。中華民国軍政府鄂軍都督府の成立後、呉兆麟は参謀部副部長となり、謀略処で戦略を担当した。武漢防衛戦の際には4個防区・8個協民軍第一協統領を務め、漢陽の第1防区を担当した。鄂軍都督府参謀副部長、部長、戦時総司令部参謀長等を務め、また蔡済民とともに川を渡って自ら漢口の前線で指揮を執った。10月28日、黄興が戦時総司令として湖北省の漢陽を防衛に到着すると、呉兆麟は多くの人員を率い、民軍内部の調整、前線と鄂軍都督府の往来、戦闘計画策定に参加し、戦時における本部と鄂軍都督府関係を調整した。11月1日、漢口は陥落し、呉及び参謀部員らは漢陽を全力で死守し増援を待つよう主張し、参謀数名と黄興の防備展開を支援した。27日、漢陽が陥落すると、黄興は上海に逃れ、蒋翊武が戦時総司令官となり、呉兆麟と共同で武昌の防衛を行った。戦況が不利となり黎元洪が葛店(中国語版)まで逃走すると、呉兆麟が武昌防衛の責任を負い、指揮を引き継いだ。 12月17日に黎元洪が大元帥に選出されると、呉兆麟は鄂軍の参謀総長兼第五鎮統制に任命された。南北和議の時は民軍戦時総司令として北伐計画を進めた。
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武昌起義
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その夜、「革命軍大隊長」の熊秉坤は決起を計画し、金兆龍は熊の指示で第八営宿舎の2階寝室で同じ第五棚兵士の程定国とともに小銃と弾薬箱を持ち出して床に就こうとしていたが、当直任務についていた第二排哨長(小隊長に相当)の陶啓勝に発見され「謀反する気か?」と詰問したところ、金兆龍は「反乱だ!反乱!すぐに反乱を起こしてやる!」(反!反!即反矣!)と答え陶啓勝は激怒、金兆龍を平手打ちしたため取っ組み合いとなった。陶啓勝の方が優勢となり、取り押さえられた金兆龍が「もうやめろ、何時までここに居る気だ?」(众同志再不动手、更待何时!)と叫ぶと、程定国が小銃を持って加勢した。しかし程定国は近距離で発砲できず、銃床で陶啓勝を殴りつけた。陶啓勝は倒れて負傷し、逃げ出したところを程定国によって後ろから銃撃された。宿舎1階では前隊隊官(中隊長)の黄坤栄・司務長(軍曹に相当)の張文濤・八営代理管帯(大隊長代理に相当)の阮栄発の3名が鎮圧のため駆けつけたが、次々と程定国に殺された。駐屯地は大混乱となり、その後熊秉坤は、武昌起義を宣言し、楚望台の武器庫を占領した。金は軍需処の電話線を切断、南湖の砲隊を合流させるため中和門へ向かい、大鉄鎖を破壊すると、3発発砲して合図を送り、合流した砲隊と督署に向かった。
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武昌起義
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1911年10月10日、武漢市の武昌で新軍内の革命派が蜂起するという武昌起義が起こる。形勢を不利と見た湖広総督の瑞澂はいち早く武昌を脱出して漢口の租界に退避し、第八鎮統制の張彪もその後を追った。逃げ遅れたのは黎元洪である。翌11日正午には武昌全域が革命軍に制圧され、幕僚の劉文吉の家に隠れていた黎元洪も革命派に捕らえられる。だが、ここで革命派内で意外な思惑が働いた。 武昌蜂起は突発的に発生したため革命派の主要メンバーは武漢にいないが、革命を進めるためにはそれなりの地位にある人物を「表看板」として掲げる必要がある。 黎元洪は将兵からも尊敬されており、革命派の主張する「民間鉄道会社の国有化反対」にも理解を示している上、英語を話せるので諸外国の革命政府承認も得られやすいだろう。 この2つの思惑から、革命派はこれまで革命派を弾圧してきた黎元洪に対して湖北の暫定的な司令官になるよう迫った。最初は身の危険を感じて渋々軍政府湖北都督に就任した黎元洪だが、次第に革命に積極的になっていく。11月30日には革命軍司令官に就任し、12月4日には革命派の代表として清朝の軍機大臣(事実上の総理大臣)である袁世凱と停戦交渉を行った。 いつのまにか革命の中心人物となっていた黎元洪だが、武昌蜂起の後には14の省が続々と清朝からの独立を宣言しており、「革命政府をどこに置くか」「革命政権の主導者を誰にするか」で意見がまとまらず、武昌派と上海派に分かれていた。そこでアメリカから帰国したのが中国革命同盟会の孫文である。結局論争は孫文で一本化し、1912年1月1日、孫文が南京で中華民国臨時大総統に就任する。妥協案として黎元洪は副大総統に就任する。
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武昌起義
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1909年以後、同盟会と共進会の間には多くの接触があった。その中には孫武が香港を訪問し同盟会に加盟し、同盟会の譚人鳳が武昌を訪問し活動資金を提供するなど協力関係の協議が可能となった。しかし革命運動の中心を長江流域にするか華南地方にするかについては合意に達せず、双方が各自の革命活動を維持することとなった。 文学社は1904年に科学補習所、日知会等の名称で結成された。1911年に文学社に改編され、共進会より以前に湖北地区で活動を行い、一般兵士を主な構成員としていた。1911年の広州起義失敗後、湖北地区での革命の重要性を認識した共進会と文学社は組織合併と革命蜂起を協議した。後に同盟会の譚人鳳も湖北に到着し合併に向けた協議が進められ、後の武昌起義の成功を導くこととなった。 武昌起義の成功後、共進会はその役割を終えたとして解散、政治活動を継続したメンバーの一部は同盟会に加盟し、後の副総統である黎元洪の下に終結している。
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武昌起義
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詳細は「武昌起義」を参照 1911年3月、武漢新軍内部に文学社が組織された。共進会は陸軍第八鎮第16協第32標に集中して会員を集め、武昌起義の段階で5,000名の兵士が文学社及び共進会に加入し、新兵総数の3分の1に達した。文学社と共進会は新興知識層による革命組織であり、新軍兵士は革命の潜在力となるため、両者は新軍兵士を主要な工作対象とした。 1911年5月9日、清朝は鉄道の国有化政策を実施し、民間資本により建設された粤漢線、川漢線の買収を発表した。国有化政策は湘、鄂、川、粤の民衆の反発を招き、四川省が中心となり保路運動が展開された。 6月17日、四川民間各団体により“四川保路同志会”が結成され、四川諮議局議長の蒲殿俊が会長に、副議長の羅綸が副会長に選出され、各種宣伝活動や北京への請願運動が実施された。8月5日、成都で川漢線鉄道会社の臨時株主総会が開催、8月24日には市民によりゼネストが実施、9月1日には川漢鉄道会社の株主総会の指導のもとに「抗糧抗捐活動」が実施された。9月7日、四川都督の趙爾豊は保路同志会の指導者を拘束、鉄道会社と同志会を押さえ込みを行った。この措置に激昂した民衆は総督衙門で請願行動を起こすと、趙爾豊は清兵に発砲を命令、請願行動中の市民30名が射殺される成都血案が発生した。9月8日、成都近郊の農民は同盟会及び会党組織である哥老會の指導の下に保路同志軍を組織して武装蜂起、省城を包囲し、清兵との交戦が行われると、付近の住民も参加し、数日の内に20数万の規模となった。9月25日、同盟会会員の呉玉章、王天傑等は栄県の独立を指導している。清朝は民衆による武装蜂起と成都包囲を知ると端方に湖北新軍の一部を指揮させて四川での革命運動の鎮圧を命じた。 湖北新軍は張之洞による訓練された“鄂軍”であり、中級軍官以下多くの人材が官費で日本に留学していた影響もあり、革命党の影響力、特に共進会及び文学社の影響を強く受けていた。保路運動が民衆蜂起に変化した後、命令を受けた端方は湖北新軍を率いて四川鎮圧に向かったが、それにより武漢の清朝勢力が弱まったことを好機と捉えた革命党人士は革命蜂起の絶好の機会と捉えた。 1911年9月24日、文学社と共進会は武昌で双方の責任者と新軍代表60余名で会議を開催、武装蜂起の統一指揮部(起義総指揮部)を組織、文学社の蔣翊武が総指揮に、共進会の孫武が参謀長に、同じく共進会の劉公が政治準備局総理に選出された。起義総指揮部は武昌小朝街85号文学社機関に、準備局は漢口ロシア租界宝善里14号に設置され、1911年10月6日(旧暦8月15日)に武装蜂起が確認されたが、準備不足により10月16日に延期された。 10月9日、孫武はロシア租界で爆弾を製造している際に爆発事故が発生、孫武が負傷、ロシア当局の調査を逃れるために逃亡したが、武装蜂起の文書や旗などが押収され、秘密工場の隣に居住していた劉公自宅より劉公の弟である劉同が連行された。湖広総督の瑞澂がこの事件の発生を知るや全市に警戒命令を発し、革命党関係者の逮捕に当った。文学社の蔣翊武は清朝当局の動きを知り、予定を早めて武装蜂起を決定、各方面に文書を送付した。9日夜、彭楚藩、劉復基が起義総指揮部で逮捕、楊宏勝が弾薬輸送中に逮捕され、10月10日深夜に3名は斬首されている。 新軍工程営後隊正目(班長に相当)の熊秉坤等は予定を早めて蜂起することを決定、隊官の呉兆麟を決起軍臨時総指揮、熊秉坤を参謀長とすることを決定した。1911年10月10日20時(この時間は正確な考証を経たものではない)、程正瀛による武昌起義は発動され、決起兵士は軍の武器庫を襲撃、深夜になると文学社及び共進会の影響を受けた大部分の兵士が呼応した。呉兆麟、熊秉坤は決起部隊を指揮して総督府を攻撃、南湖砲隊の砲撃の下、夜明け前には総督衙門を占拠、湖広総督・瑞澂は逃亡した。 10月11日未明、決起軍は湖北省諮議局大楼會議室に集結し、新軍八鎮十五協二十九標二営司務長の蔡済民により会議が招集され、軍政府の組織と都督人選が議論された。革命党の呉醒漢、徐達明等10数名以外、湖北諮議局議長湯化竜、副議長張国溶及び議員、旧軍官呉兆麟が参加した。会議は湯化竜が議長となり進行し、呉兆麟により第21混成協統領黎元洪を都督とすることが提案され、立憲派により承認された。この時革命党勢力は黄興、宋教仁は武昌におらず、彭楚藩、劉復基、楊宏勝は被害を受け、孫武は爆発事故で負傷、蔣翊武は逃亡中であったことより他の有力な提案が行われず、黎元洪を都督、湯化竜を民政総長(一説には総参謀とも)に選出することが決定した。 11日午前、武昌全域が決起軍の支配下に置かれ、夜には謀略処が設置された。謀略処により中華民国軍政府鄂軍都督府(中華民国湖北軍政府)の成立が宣言され、同時に軍政府の檄文と『安民布告』が発表され、国号を中華民国と改め、清朝の年号である宣統を廃止して黄帝紀元の採用を発表、宣統3年を黄帝紀元4609年とした。軍政府は参謀部、軍務部、政事部、外交部を設置、諮議局大楼を事務所とし十八星旗を軍旗とした。謀略処は軍政府名義により『布告全国電』や『通告各省文』などの電信を全国に発信している。 10月12日、革命党人である第二十一混成協第四十二標士兵胡玉珍、邱文彬、趙承武等は漢陽で武装蜂起を決行、支配下に置くと、趙承武は漢口を攻略、ここに武漢三鎮は革命勢力下に置かれることとなった。
※この「武昌起義」の解説は、「辛亥革命」の解説の一部です。
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