楊任とは? わかりやすく解説

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楊任Yang Ren

ヨウジン
ヤウジン

(?~215

張魯の将。

建安二十年二一五)七月曹操大軍催して陽平関に攻め寄せたとき、張魯の弟張衛独断で軍を動かして陽平関に籠った。曹操はこれを攻撃したものの数多く死傷者出し食糧少なくなっていたので撤退しようとした。ところが高祚らの部隊誤って張衛陣営踏み込んだため、張衛軍は大混乱に陥って敗走した。楊任は、この戦いで戦死している《武帝紀・張魯伝》。

参照高祚 / 曹操 / 張衛 / 張魯 / 陽平


楊任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/15 08:59 UTC 版)

楊 任(よう じん)は、中国後漢時代末期の人物。張魯配下の武将。

建安20年(215年)7月、張魯は張衛楊昂らを陽平関の守備に当たらせていたが、曹操配下の高祚らの夜襲を受けて大敗した(陽平関の戦い)。正史三国志』においては、楊任はこの時に斬られた将としてのみ名が伝わる[1]

三国志演義

羅貫中の小説『三国志演義』では楊昂と同格の大将として登場し、陽平関付近の砦を守る。曹操軍との諸戦では夏侯淵張郃らの軍に夜襲をかけ、勝利を収めた。その後、曹操が撤退したとの情報が入ると、楊昂が楊任の反対を振り切って追撃。濃霧で立ち往生している間に、夏侯淵に砦を奪われる。楊任はこの救援に訪れたが、多勢に無勢で敗走。楊昂は張郃に殺され、陽平関を守っていた張衛も撤退する。

復讐に燃える楊任は、再度軍勢を預かって出撃。夏侯淵との一騎打ちとなり、三十余合打ち合うが、最期は拖刀の計[2]にかかって斬り落とされる[3]

脚注

  1. ^ 陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書 武帝紀
  2. ^ 刀をひきずって敗走するふりをし、いきなり振り返って敵をやっつける計略。ちくま文庫『三国志演義 4』386頁より。
  3. ^ s:zh:三國演義/第067回

楊任(よう じん)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:06 UTC 版)

封神演義の登場人物一覧」の記事における「楊任(よう じん)」の解説

元は商の上大夫紂王諌めて眼を抉り取られるが、清虚道徳真君助けられ弟子となった眼窩から腕を生やし、その掌に付いた眼は天庭・地穴・俗世界全てを見ることができる。呂岳が瘟コウ陣を開いて周軍を阻んだ際、師の命令受けて下山した。封神されて甲子太歳神となる。

※この「楊任(よう じん)」の解説は、「封神演義の登場人物一覧」の解説の一部です。
「楊任(よう じん)」を含む「封神演義の登場人物一覧」の記事については、「封神演義の登場人物一覧」の概要を参照ください。

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