三省堂 大辞林 |
このえ-ふみまろ このゑ― 【近衛文麿】
歴代総理一覧 |
近衞文麿
| 総理在職期間 | ||
| [第1次] | 昭12. 6. 4~昭14. 1. 5 | 581日 |
| [第2次] | 昭15. 7.22~昭16. 7.18 | 362日 |
| [第3次] | 昭16. 7.18~昭16.10.18 | 93日 |
| 在職通算日数 | 1,035日 | |
| 総理就任時年齢:45歳・48歳・49歳 | ||
近代日本人の肖像 |
近衛文麿 このえ ふみまろ
東京生まれ。政治家。五摂家筆頭の家柄で、父は公爵近衛篤麿。京都帝国大学で河上肇に学ぶ。大正5年(1916)貴族院公爵議員。西園寺公望の随員としてパリ講和会議に出席。昭和6年(1931)貴族院副議長、8年(1933)に同議長に就任。12年(1937)第1次近衛内閣を組閣。同年7月の盧溝橋事件を契機に日中全面戦争へ突入したが、新体制運動の中心人物として以後3次にわたり首相をつとめた。15年(1940)大政翼賛会設立、日独伊三国同盟締結。戦後、A級戦犯の容疑者として、逮捕直前に自殺。
| キーワード | 公家・旧大名, 政治家, 首相 |
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(注:この情報は、国立国会図書館ホームページ内の「近代日本人の肖像」の内容を転載しております。掲載内容の複製については、国立国会図書館の許諾を得る必要があります。)
江戸人物事典 |
近衛 文麿 (このえ ふみまろ)
| 1891〜1945 (明治24年〜昭和20年) |
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【政治家】 日中戦争期の首相。日米交渉に尽力するも、大政翼賛会成立など迷走を続けた。 |
| 昭和前期の政治家。東京都出身。公爵近衛篤麿の長男。京大卒。1916年(大正5)から貴族院議員。19年のパリ講和会議に随行する直前に書いた「英米本位の平和主義を排す」では英米を批判。37年に46歳で第一次近衛内閣を組織。翌月盧溝橋事件により始まった日中戦争の和平交渉に失敗。40年に第二次近衛内閣では、展開した新体制運動が陸軍に利用され、大政翼賛会が成立。また日独伊三国同盟を締結、「南進」政策をとった。41年7月、対米調整するため総辞職して第三次近衛内閣を組閣したが、東条陸相の対米主戦論に破れて総辞職。敗戦後、戦犯指定を受け、自決。 |
年(和暦) |
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| ●1894年 (明治27年) | ■日清戦争 | 3才 |
| ●1903年 (明治36年) | ■江戸開府300年 | 12才 |
| ●1904年 (明治37年) | ■日露戦争 | 13才 |
| ●1907年 (明治40年) | ■足尾銅山で暴動 | 16才 |
| ●1910年 (明治43年) | ■韓国併合 | 19才 |
| ●1918年 (大正7年) | ■米騒動 | 27才 |
| ●1923年 (大正12年) | ■関東大震災 | 32才 |
| ●1928年 (昭和3年) | ■初の普通選挙実施 | 37才 |
| ●1932年 (昭和7年) | ■五・一五事件 | 41才 |
| ●1936年 (昭和11年) | ■二・二六事件 | 45才 |
| ●1941年 (昭和16年) | ■対英米宣戦布告 | 50才 |
| ●1945年 (昭和20年) | ■ポツダム宣言受諾 | 54才 |
人物名 |
年齢差 |
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| ・武者小路 実篤 | 1885年〜1976年 (明治18年〜昭和51年) | +6 |
| ・平塚 らいてう | 1886年〜1971年 (明治19年〜昭和46年) | +5 |
| ・山田 耕筰 | 1886年〜1965年 (明治19年〜昭和40年) | +5 |
| ・谷崎 潤一郎 | 1886年〜1965年 (明治19年〜昭和40年) | +5 |
| ・松旭斎 天勝 | 1886年〜1944年 (明治19年〜昭和19年) | +5 |
| ・柳 宗悦 | 1889年〜1961年 (明治22年〜昭和36年) | +2 |
| ・古今亭 志ん生 | 1890年〜1973年 (明治23年〜昭和48年) | +1 |
| ・山川 菊栄 | 1890年〜1980年 (明治23年〜昭和55年) | +1 |
| ・岸田 劉生 | 1891年〜1929年 (明治24年〜昭和4年) | 0 |
| ・河合 栄治郎 | 1891年〜1944年 (明治24年〜昭和19年) | 0 |
| ・芥川 龍之介 | 1892年〜1927年 (明治25年〜昭和2年) | -1 |
| ・西条 八十 | 1892年〜1970年 (明治25年〜昭和45年) | -1 |
| ・早川 徳次 | 1893年〜1980年 (明治26年〜昭和55年) | -2 |
| ・加藤 シヅエ | 1897年〜2001年 (明治30年〜平成13年) | -6 |
ウィキペディア |
近衛文麿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/23 10:51 UTC 版)
近衞 文麿(このえ ふみまろ、1891年(明治24年)10月12日 - 1945年(昭和20年)12月16日)は、日本の政治家。勲等は勲一等。爵位は公爵。新字体で近衛 文麿とも表記される。
貴族院議員、貴族院副議長(第10代)、貴族院議長(第9代)、内閣総理大臣(第34・38・39代)、外務大臣(第57代)、拓務大臣(第13代)、班列、農林大臣(臨時代理)、司法大臣(第43代)、国務大臣などを歴任した。
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- ^ 貞が「文麿がいなければ私の産んだ息子の誰かが近衛家の後継者となれた」と公言していたのが理由といわれる。一方の文麿は貞を長年実母と思っており、成人して事実を知った後の衝撃は大きく、以後「この世のことはすべて嘘だと思うようになった」(『近衛文麿公清談録』)。このことが文麿の性格形成に与えた影響はあまりにも大きかった。
- ^ 後に近衞は、西園寺のもとを初めて訪れたとき、西園寺が家格が上の近衞を上座に据えて「閣下」と呼ぶので、子供心に非常に居心地が悪かったと回想している。
- ^ 政界に身を投じて以降は、日本は自国と同じ「もたざる国」であるドイツ・イタリアと同一歩調をとるべきと考え、天然資源を各国は平等に持つべきという社会主義的ないし唯物論的平等を持論として展開した。その一方で、西園寺や昭和天皇の主張する英米との協調外交に反対し、これらのスタンスが戦後A級戦犯として起訴される最大の要因になったとされている。
- ^ 『清談録』千倉書房。
- ^ 『新思潮』五月号が発禁処分を受けたのは近衞の翻訳文が原因とするのが通説となっているが、中西寛が「近衛文麿「英米本位の平和主義を排す」論文の背景-普遍主義への対応」(『法學論叢』第132巻・第4-6号)で指摘しているように発禁理由が近衞の翻訳文によるという確たる証拠があるのかどうかはっきりしない。
- ^ これは、秦郁彦の言葉を借りれば、「近衛内閣が自発的に展開したパフォーマンスは、国民の戦争熱を煽る華々しい宣伝攻勢と見られてもしかたのないものであった」(秦郁彦『盧溝橋事件』)という代物であった。
- ^ しかし、11日には政府は確かに華北への派兵を決定しているが、同軍司令官香月清司に対し杉山元から「盧溝橋事件ニ就テハ、極力不拡大方針ノ下ニ現地解決ヲ計ラレタシ」との命令が与えられ、しかも現地では今井武夫らの奔走で事件解決条件の合意すら成立していた。他方、現地の中国軍である第二十九軍長・宋哲元は18日香月軍司令官に丁重な謝罪を行い遺憾の意を表しており、このままなら事件が日中間のささいな衝突として解決する可能性すら存在していた。
- ^ 7月18日、この状況を憂慮した石原少将は、杉山陸相に意見具申し、「このまま日中戦争に突入すれば、その結果はあたかもスペイン戦争でのナポレオン同様、底無し沼にはまることになる。この際、思いきって北支にある日本軍全体を一挙に山海関の満支国境まで引き下げる。近衛首相が自ら南京に飛び蒋介石と膝詰めで談判する。」という提案をした。同席した梅津美治郎は、「そうしたいが、近衛首相の自信は確かめてあるのか」と聞き、杉山元も、「近衛首相にはその気迫はあるまい」と述べた。実際、風見書記官長によれば、近衛は陸軍が和平で一本化するかどうか自信がなく、せっかくの首脳会談構想を断念したと言われている。
- ^ 其処で支那事変を早期解決する為に、近衛と蒋介石とのトップ会談を提唱します。其の為の条件として「日本軍は支那全土からの撤退。治外法権はじめ一切 の権益を返還。支那が欧米列強からの権益を回復する運動に協力する。支那は其の見返りに満州国の独立を承認する」と謂う大胆なものであった。
- ^ 週刊『アサヒグラフ』はこれを「平沼・近衛 交流内閣」と皮肉っている。「交流」とは、今で言う「合流」「合体」といった意味。
- ^ この辺りの詳細については、矢部貞治『近衞文麿』(読売新聞社)、児島襄『史録 日本国憲法』(文春文庫)等を参照。
- ^ 矢部貞治『近衞文麿』(読売新聞社)738-739頁
- ^ 東條英機も、戦犯訴追を逃れるために自殺を図ったとされるが、東條の方は未遂に終わっている
- ^ この遺書は翌日にGHQにより没収されている。
- ^ 近衛は軽井沢町や我孫子市、鎌倉市等にも別荘を所有していた。
- ^ 吉田茂は、近衞の死後この荻外荘を一時近衛家から借りて私邸代わりにしていたことがある。あるとき来客から「なぜまたこちらに」と聞かれた吉田は、「ここにぼくが寝ていたらそのうち近衛が出てくるだろうと思ってね」と平然と言ってのけたという。
- ^ 今東光『続極道辻説法』(集英社)、今はこれに対し昨今のクラブで、ナンバー・ワンとナンバー・ツーを左右に自慢話をする国会議員を「田舎っぺ」としている。
- ^ 大平進一「木戸幸一、天皇を語る」(『文藝春秋』1975年(昭和50年)10月号。引用は『昭和天皇の時代』(文藝春秋社、1989年)pp.74-75に拠る)
- ^ 明治維新後に創設された宮家はほとんどが伏見宮家の系統で、その伏見宮は遠く南北朝時代の崇光天皇の第一皇子・榮仁親王(1351−1416)を祖としている。
- ^ 以上、参考文献『日本の肖像 旧皇族・華族秘蔵アルバム』九毎日新聞社編。京都の新居には女中もいれば書生も抱えており、一般サラリーマンの平均月収100円の時代に、一月当たり150円の生活費をかけていた。ちなみにこの時の新居は宗忠神社の社務所として現存している。
- ^ 『宰相近衛文麿の生涯』有馬頼義 著。
- ^ 姪の証言より
固有名詞の分類
近衛文麿に関連した本
- われ巣鴨に出頭せず―近衛文麿と天皇 (中公文庫) 工藤 美代子 中央公論新社
- われ巣鴨に出頭せず―近衛文麿と天皇 工藤 美代子 日本経済新聞社
- 大統領への証言 近衛 文麿 毎日ワンズ
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