その戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 02:35 UTC 版)
「ドイッチュラント級装甲艦」の記事における「その戦い」の解説
第一次世界大戦の教訓とレーダーの構想から、本級は当初の陸戦の支援という建造構想とは異なり、第二次世界大戦では英国と植民地とを結ぶ広大な公海で、その長大な航続力を利用して、あらかじめ展開された補助巡洋艦や補給艦と共に通商破壊作戦に従事した。1939年(昭和14年)9月の開戦後、出撃したグラーフ・シュペーはイギリス海軍の追跡を受けた。ラプラタ沖海戦でイギリス巡洋艦3隻と交戦し、損傷する。修理のため中立国であったウルグアイのモンテビデオ港に入港した。だが英軍の情報操作および前述の燃料系統損傷により離脱不能と判断、シュペーは自沈を選んだ。 1940年(昭和15年)10月に出撃したアドミラル・シェーアは幸運にも恵まれ、まずHX84船団を撃破した。その後は英軍の追跡を逃れて、大西洋だけでなくインド洋にまで進出し、合計10万トン近い商船を破壊・捕獲し、半年後の1941年(昭和16年)4月1日にキール軍港に無事帰投した。ところが5月中旬に通商破壊作戦を企図して大西洋に出撃した新鋭戦艦ビスマルクは、イギリス空母を含む艦隊に捕捉されて沈没した。その後、アメリカの参戦により大西洋で余裕のできた英軍は通商破壊艦の一掃に乗り出した。こうして水上艦による通商破壊は終焉した。 また、フランスや本国での英空軍による執拗な基地への爆撃から艦隊を守るためと、東部戦線を重要視するヒトラーの意志により、リュッツォウとシェーアは他の主力艦(ティルピッツなど)同様にノルウェーに配備された。ディーゼルエンジンの本級は、燃料不足に陥りつつあったドイツ海軍にあっても重宝される存在であった。北方に集まったドイツ艦艇はソ連への輸送船団攻撃を狙っていたが、1942年末のバレンツ海海戦における敗北で転機が訪れた。もともと水上艦に不信感を抱くヒトラーが、海戦が敗北に終わったことを聞いて激怒し大型艦廃艦命令を出し、一時は廃艦の危機にさらされたからである。レーダーの退任とデーニッツの就任、英国への水上艦隊の必要性から最終的に廃艦計画は撤回されたものの、フィヨルドの奥で英軍の航空攻撃から逃れるために係留される状態が続いた。 1944年(昭和19年)の秋から、東部戦線が両艦へ近づき、リュッツオウとシェーアは陸上砲撃をたびたび行い、バルト海沿岸を後退するドイツ陸軍を支援した。当初の構想どおりの陸軍と海軍の共同攻撃が実現した。 1945年(昭和20年)4月16日、リュッツォウは爆撃で大破着底したが、上甲板がまだ水面上に出ていたので、残った砲で陸上砲撃を行った後に放棄された。シェーアはキール軍港で同年4月9日の空爆で破壊され、転覆した。
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