烏珠留若鞮単于とは? わかりやすく解説

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烏珠留若鞮単于

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/24 13:40 UTC 版)

烏珠留若鞮単于呉音: うしゅるにゃくたいぜんう、漢音: おしゅりゅうじゃくていせんう、拼音: Wūzhūliúruòdīchányú、? - 13年)は、中国前漢時代から時代にかけての匈奴単于呼韓邪単于と第1閼氏(顓渠閼氏)との子で、車牙若鞮単于の弟。烏珠留若鞮[1]単于というのは単于号で、姓は攣鞮氏、名は嚢知牙斯(のうちがし)という。


  1. ^ “若鞮”とは匈奴の言葉で“”という意味である。当時、漢の歴代皇帝が帝号に“孝”をつけていたため、匈奴は復株累若鞮単于以降、それを真似るようになった。<『漢書』匈奴伝下、『後漢書』南匈奴列伝>
  2. ^ 以下、特に注釈がない場合、出典は、『漢書』匈奴伝下
  3. ^ 王昭君も含まれる。
  4. ^ 左賢王(さけんおう)は匈奴における王位継承第一位。
  5. ^ 呼韓邪単于と顓渠閼氏の間の子。
  6. ^ 成帝の母の王政君の弟。
  7. ^ 渡邉義浩は、「匈奴との和親という新たな政治状況を背景に、宣帝期に出現した『春秋穀梁伝』は華夷混一(中華と夷狄が混在一体化していくこと)の理想社会の実現を説く」、「莽新建国以前の王莽は、『春秋穀梁伝』の華夷混一の世界観に基づき、匈奴との和親関係を結んでいたのである」と論じている『王莽―改革者の孤独』』p.83・85
  8. ^ 『漢書』匈奴伝下及び『漢書』西域伝下
  9. ^ 『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.233
  10. ^ 『王莽―改革者の孤独』p.84
  11. ^ 渡邉義浩は、「王莽が即位の際に下した策名は、中国内の諸侯とともに、四方の夷狄が王と称することを「一統に悖る」と糾弾している。前漢が、匈奴との和親を機に、夷狄を王に封建していたことは、儒教の経義に悖ると否定するのである。このように異民族への政策を変更した理由は、西域の問題を契機とする匈奴との関係悪化に加え、莽新の成立とともに、周公と夷狄との関係を理想とする必要性が終焉したことに求められる」と論じている。『王莽―改革者の孤独』』p.148-149
  12. ^ 東晋次は、「王莽が匈奴単于のみならず、周辺の「四夷」が王を称することは古典に違うという理由で、王から侯への格下げを指示した詔令には(中略)『礼記』「曾子問」の一文「天に二日なく、王に二王なし」が引用されていた。『孟子』万章篇にも「天に二日なく、民に二王なし」という孔子の言葉がある。王莽の見地は、この地上界に複数の「王」が存在すること自体、孔子の言に示される儒家の世界観に違反しているというものであろう」とみなしている。『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.240
  13. ^ 渡邉義浩は、「夷狄の「称王」を否定する典拠となる経義は、『礼記』と『春秋公羊伝』に求められた。(中略)『礼記』曾子問篇に、「孔子は、『天に二日がなく、王に二人の王がない』と言った」とあり、王莽の策命は王の並立を否定する『礼記』のこの部分をそのまま引用している。また、(中略)『春秋公羊伝』隠公元年に、「どうして王の正月の言うのか。一統を尊重するからである」とあり、王莽の策命は、「天下」が王のもとに一統されるべきとする『春秋公羊伝』冒頭の隠公元年の「春秋の義」に基づき、夷狄に称王を否定する。莽新の異民族政策は、『礼記』と『春秋公羊伝』を典拠に正当化されていたのである」、「王莽が夷狄の王号を剥奪する経学的典拠は、『礼記』の「方三千里」の夷狄を含まない天下と、『春秋公羊伝』の夷狄を含む「天下」の「大一統」の組み合わせとして表現されていた。しかしながら、経典相互の「天下」概念の夷狄観が異なるため、相互矛盾を来していると言わざるを得ない」と論じている。『王莽―改革者の孤独』』p.149-150
  14. ^ a b c d e f g h i 『漢書』王莽伝中
  15. ^ 『漢書』王莽伝中では五威将の下の五人の属官を「帥」としているが、『漢書』匈奴伝下では「率」とする。
  16. ^ 『王莽―改革者の孤独』』p.152-153
  17. ^ 『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.237-238
  18. ^ 右伊秩訾王。
  19. ^ 東晋次は、「王莽らしい「名」にこだわった処置である」とみなしている。『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.244
  20. ^ 渡邉義浩は、「理念の帝国に相応しい概念操作と言えよう」と論じている。『王莽―改革者の孤独』』p.156
  21. ^ 『漢書』王莽伝中によれば、匈奴の西域や新への侵攻は始建国2年(10年)にすでに行われ、また、王莽による匈奴の討伐に行ったように記されるが、『漢書』匈奴伝下では、翌年の始建国3年(11年)に行われたように記している。継続的に行われたものであることや、施行と実施の時間差もありえるため、双方を併記する。
  22. ^ a b 『漢書』匈奴伝下及び『漢書』王莽伝中
  23. ^ 『漢書』匈奴伝下によれば、始建国3年(11年)のこととされるが、『漢書』王莽伝中では、翌年の始建国4年(12年)に行われたものとする。
  24. ^ 始建国3年(11年)には左賢王の楽が存在するため、これ以降に楽が死去し、その後も左賢王に任じられた人物が死去することが続いたものと考えられる


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