アメリカに移住
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「ゾラフ・バルハフティク」の記事における「アメリカに移住」の解説
バルハフティクは日本に戻った後、1941年6月5日、家族とともに氷川丸で横浜からバンクーバーに渡る。彼はこの時の気持ちを以下の様に記している。 海は静かで平穏な航海だった。あたかも夏休みを洋上で過ごすような雰囲気で、われわれは甲板で甲羅干しをして時を過ごした。戦争の影と嵐はかなたに去り、それがまき起こす波乱と緊張は消えていった。だが、責任のくびきにしばりつけられている者に、心の平安はなかった。陸にあろうが洋上にあろうが、私にとって、毎日はいつもの仕事日と変わらず、船に乗っていても世界のあちこちから電報が打ちこまれてくるので、難民委員会の扱かう諸問題をその都度処理した。 — ゾラフ・バルハフティク著 原書房「日本に来たユダヤ難民」251-252p その後彼は、戦争が終わるまでの4年間、アメリカで過ごす。その間、妻ナオミとの間に3人の子供が生まれている。
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アメリカに移住
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「サード・アリ・ワルサメ」の記事における「アメリカに移住」の解説
1990年代初めにソマリア内戦が始まると、アメリカ合衆国ミネソタ州のミネアポリスに移住。後、セントクラウドに移った。ワルサメの作品は国民のアイデンティティーと、内戦終結後の復興プロセスへの参加を呼び掛けるものとなった。 ワルサメの「ラス・アノド、あなたは常にソマリアの一部、私たちの国は一つ (Libdhimeyside Laas Caanood, Laba maahaa Waddankeennu)」は、2007年にソマリランド軍がソマリア北西部の町ラス・アノドを占領したことを受け、ラス・アノドの町が民族主義、反植民地主義の象徴であるダーヴィッシュ国(英語版)の発祥の地として歴史的役割を果たしていることを称えた歌である。 2009年のワルサメの「助言させてください (Aan kuu Taliyo)」は、政治的な対立をユーモラスに風刺している。また、ソマリア独裁政権時代の元副大統領モハメド・アリ・サマターがアメリカで民事訴訟を起こされた際には、サマターが独裁政権にいたというだけで不当に低く扱われていると訴えた。
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