鉄道建設
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1883年、イタリア側の路線の工事がクーネオから始まった。1889年にはタンド峠トンネルの掘削が始まり、1898年に貫通した。フランスでは1900年に軍務省がニース-ブレイユ・シュル・ロワイヤ間の着工を決めた。 この頃イタリアでは、路線の経路を修正して全線がイタリア領内を通るようにすべきだとの提案がなされたが、そのためには稜線のイタリア側に長大トンネルを掘らなければならないため却下された。一方フランス側では、ソスペル-ブレイユ・シュル・ロワイヤ間の経路を短縮するため、グラジヤン山の地下にトンネルを掘ることが提案された。このトンネルは両端はフランス領だが、全長3882mのうち中間の2305mがイタリア領の地下を通っているため、建設には両国の合意が必要であった。 1904年6月のフランス・イタリア間の協定で、ニース-クーネオ間を1914年に開通させることが定められた。1908年にはロワイヤ川下流部分のヴェンティミリアからフランス国境までの工事が始められ、また1912年にはニース-ソスペル間のブラウストンネル(5938m)が着工された。 1914年、第一次世界大戦の勃発にともない、フランス側の工事は中断した。イタリア側ではその後も工事が続けられたが、1915年のオーストリア・ハンガリー帝国との開戦にともない、やはり工事が中断した。 戦後工事は再開された。1921年にはスカラスイ、サオルジュの橋梁が着工され、ともに1923年に完成した。
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鉄道建設
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1912年、マデイラ・マモレ鉄道が開通した。ボリビア政府は、マデイラ川を挟んで終点駅のあるグアジャラ・ミリン(英語版、ポルトガル語版)の対岸に位置する、ボリビア側の町、グアヤラメリンからリベラルタへの鉄道を計画していた。ボリビア政府は、この路線の建設をマデイラ・マモレ鉄道会社に要請した。計画区間は約45kmと短く、鉄道会社の調査でも技術的に可能と判断し、ボリビア側の延長線建設に踏み切った。 延長工事は、1914年1月にグアヤラメリンとリベラルタの両側から始められた。この時、リベラルタ側からの工事を請け負ったのは、日系移民の八木宣貞とリベラルタの有力者であったボリビア人のメナチョであった。八木宣貞は、日系移民30人、ボリビア人30人を雇い入れ、原始林の伐採を始めた。しかし、1914年8月、下落が止まらない天然ゴム価格を受けてマデイラ・マモレ鉄道会社は延長線工事の中止を決定した。 八木の回顧によると、工事中止は無線で伝えられたため、状況を確認するために共同経営者のメナチョを、ポルト・ヴェーリョに派遣した。しかし、メナチョは鉄道会社から無断で清算金を受け取り、アメリカに逃亡していた。このため、借金の返済を約束した借用書を作成し、リマへと戻った。
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