『漢書』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 07:47 UTC 版)
「倭・倭人関連の中国文献」の記事における「『漢書』」の解説
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。漢書/卷028下 中国正史で倭人の文字の初出は『漢書』地理志である。倭人について有の文字で記されるのは『漢書』が初にして唯一であり、その後の全ての正史では「在」の文字が用いられるので、有の文字は「発見」の意味で用いられ、「在」の文字は所在の意味で用いられたことが示唆される。 『漢書』地理志燕地条 然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫! 樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。 然して東夷は天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。それ、以(ゆゑ)有るかな! 楽浪海中に倭人有り、 分れて百余国を為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。 一方、東夷は性質が柔順であり、他の三方(西戎・南蛮・北狄)と異なる。そのため、孔子は、中国の中原では正しい道理が行われていないことを残念に思い、(筏で)海を渡って九夷に行きたいと望んだ。それは理にかなっている! 楽浪郡の先の海の中に倭人がいる。百余国にわかれており、 定期的に贈り物を持ってやって来る国があった、と言われている。 また、漢の南方にあった呉の地理を記す「呉地」の条に、東鯷人の記事がある。 『漢書』地理志呉地条 會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云 会稽の海の外に東鯷人有り。分ちて二十余国を為し、歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。 会稽の海の外に東鯷人有り。二十数カ国にわかれており、定期的に贈り物を持ってやって来る国があった、と言われている。 「鯷(テイ)」には、ナマズ説と鮭説がある。記紀に年魚と記される。年魚は、従来は鮎説が主流であったが、鮭の方がふさわしい。なぜなら、鮭は、年に一度戻ってきて川を遡上するからである。鮭が遡上する川の南限は北部九州の川であり、昭和の時代まで北部九州の複数の川(遠賀川、筑後川等)に鮭が遡上していた記録がある。いったん鮭の遡上が絶えたが、その後の川の環境改善と鮭の稚魚放流の努力のお陰で、近年は鮭の遡上が復活したことが報告されている。 東鯷人と倭人が同じ人々を指すのかどうかについては不詳であるが、谷川健一は、「わが列島の中に「東鯷人」の国を求めるとすれば、阿蘇山の周辺をおいてほかにないと私は考える」と記している。これは鯷をナマズと仮定しての言葉と推定される。一方、もし鯷が鮭である場合には、鮭は北部九州の川にのみに遡上し、中部九州や南部九州の川には遡上しない。
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