日本滞在
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二度目の目的地もヨーロッパだったが、前回とは異なり、日本とアメリカ合衆国を経由して向かった。1888年2月28日にリサールは横浜に到着し、駐日スペイン公使館邸や日比谷の東京ホテルに宿泊し、2か月間滞在した。本来は経由地として、船の乗り継ぎのために2日間滞在する予定だったが、スペイン公使館に滞在中、近所で見かけた元旗本で貿易商の娘「おせいさん」こと臼井勢似子(1866-1947)に声をかけたことにより親しくなった。英語とフランス語がある程度できた勢似子とリサールは、二人で歌舞伎を見物に行ったり日光や箱根に逗留し、リサールは日本の文化と言葉を学びつつ、滞在は延びて二か月近くに及んだ。リサールは生前、勢似子のことを誰にも話さなかったため、その存在は知られることは無かったが、没後にリサールの遺族が遺品を整理した際、勢似子の写真が一枚発見された。また、日記には「あなたのように私を愛してくれた人はいなかった」と記されていた。勢似子もまた、誰に話すこともなく、所有物はその後の太平洋戦争の空襲被災で多くを失ったために、残る文物もほとんどない。後述されるリサールの死は日本でも多く報道された。その翌年の1897年、勢似子は30歳で英国人男性アルフレッド・チャールトン(学習院大学講師)と結婚、1947年(昭和22年)に80歳で亡くなった。現在、雑司ヶ谷霊園に勢似子の墓があるが、毎年リサールの誕生日にフィリピン大使館により花が供えられている。
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日本滞在
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「フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン (1854-1888)」の記事における「日本滞在」の解説
旅行中に日本の東京を訪れたのは1887年5月中旬のことで、フリードリヒ・ヴィルヘルムは外国貴賓として赤坂仮御所で明治天皇夫妻に謁見し、彼のために仮御所内で西洋式の歓迎昼食会が開かれた。天皇・皇后とヘッセン方伯の会話は、宮内省式部官の英語通訳を通じて行われた。当時、日本の宮廷は西洋化改革に着手したばかりで、昼食会では給仕を務めた宮内省職員が運び慣れない食器・カトラリーの音を鳴らしたり床に落としたりし、宴会場は騒音に満たされた。その後、北白川宮能久親王、青木周蔵といった親独派の貴顕、駐日ドイツ臨時全権公使テオドール・フォン・ホルレーベン(ドイツ語版)がヘッセン方伯のためにそれぞれの自邸で豪華な晩餐会を催した。フリードリヒ・ヴィルヘルムは日本滞在中に大勲位菊花章頸飾を授与されることを期待していたが、この日本最高位の勲章は在位中の君主にのみ与えられる格式であったため、授与の対象にはならなかった。なお、歓迎宴席で失態を演じた宮中給仕たちは、こののち宮中顧問官オットマール・フォン・モールの助言により東京駐在ロシア公使のベルギー人執事の講習会を週二回受けることになり、この2年後に来日し多くの宮中晩餐会に出席した駐日英国公使夫人に「完璧」と言わしめるほどとなった。
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日本滞在
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豪介は日本に関する特集記事を書くことになり、マレッタと一緒に日本に向かう。ところが、新宿でマレッタははぐれてしまう。マレッタは豪介のメモを頼りに新宿→甲府→浜松→大阪→岡山と移動し、14日目に長崎に到着する。豪介は何とかしてやって来るとひたすら待っている。日本滞在の中で、中学を卒業した豪介がフランスの渡るいきさつが明らかにされる。二人は東京に戻り、鈴木代議士の家を訪問し、トメの歓待を受ける。
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日本滞在
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「セルゲイ・プロコフィエフ」の記事における「日本滞在」の解説
1918年、『古典』交響曲の初演を果たした直後、プロコフィエフはアメリカへの亡命を決意した。5月7日、シベリア鉄道にてモスクワを発つ。31日、敦賀港に上陸し、6月1日に東京に到着した。冬シーズン中の南米行きの船便を探すが出航した直後で、次便ではシーズン終了後になることから、8月になるまで日本に滞在してから北米へ向かうことにする。11日までは東京、横浜周辺、12から18日には京都に滞在し、琵琶湖疏水や祇園などを散策した。13日に大阪を訪れた後、19から28日にかけて奈良に留まって奈良ホテルに宿泊、奈良公園周辺を散策している。この奈良滞在中に、ピアノ協奏曲第3番等の原型となった『白鍵四重奏曲』の構想が練られた。29日に東京に戻り、以後離日まで東京、横浜周辺に滞在するが、7月19-21日には軽井沢を、28日には箱根を訪れている。更に7月6日、7日に東京、9日には横浜で自作を含むピアノ・リサイタルを開催した。8月2日にアメリカへ向けて出国した。このプロコフィエフの日本滞在は西洋の大作曲家の最初の日本訪問と言うことができ、評論家大田黒元雄や徳川頼貞などとの交流により、日本の音楽界に少なからず影響を与えたといわれる。
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日本滞在
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「リュドヴィック・ド・ボーヴォワール」の記事における「日本滞在」の解説
ボーヴォワールは1867年(慶応3年)4月、横浜に到着し、以後35日間日本に滞在した。この間、江戸見物や横須賀製鉄所の見学、箱根への訪問を行っている。 5月17日、ボーヴォワールは箱根の宮ノ下を訪れ、宿屋の温泉に入浴した。文献に見られる中では箱根の温泉に入浴した最初の西洋人とされる。 当時、日本を訪れた多くの西洋人は、日本人男女の混浴を不道徳なことと見なしており、多くの旅行者が批判的な「観察」を書き残している。こうした中でボーヴォワールは、宮ノ下で最も大きな温泉宿(奈良屋)で風呂上がりの男女が「アダムとイヴの姿そのままで」くつろいでいる様を見てこの宿での宿泊を願い、満室でかなわなかったために高台にある別の旅館(富士屋ホテルの前身にあたる藤屋か)で宿泊と入浴を果たした。ボーヴォワールは自ら望んで入浴し、抵抗感なく混浴に溶け込んだ点で珍しい西洋人であった。
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日本滞在
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須恵村でのフィールドワーク以前に、エンブリーは日本を二度訪れている。最初は1926年2月、リンカーン高校の学生のときに両親に連れられて訪日し、その後、中国、インド、フランスを歴訪した。二回目はハワイ大学卒業後の1932年6月から9月まで、軽井沢に滞在した。 1935年8月12日、妻・エラと2歳の娘・クレアとともに横浜港に到着した。8月下旬から2ヶ月の間、調査地選びのために日本各地を訪問し、予備調査をした町村は22ヶ所に上った。その間、那須皓、鈴木栄太郎、渋沢敬三、柳田國男らと面会している。訪日していたラドクリフ=ブラウンも交えて、10月15日に調査地を須恵村に決定し、準備期間を経て11月2日に須恵村に居を構える。 丸一年に及ぶ滞在の後、1936年11月2日に須恵村を離れる。東京に一ヶ月滞在し、柳田國男と再会した後、12月7日に横浜港から帰国の途に就く。
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日本滞在
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 07:30 UTC 版)
「アドルフ・エリク・ノルデンショルド」の記事における「日本滞在」の解説
ヴェガ号はそのまま太平洋を南下し、カムチャツカ半島沖を通過し、1879年(明治12年)9月2日、日本の横浜港に到着した。この航海は世界中に知られており、日本でもセンセーションを巻き起こした。すでに日本政府は、ドイツ大使からヴェガ号の日本への寄港を通達されており、ヴェガ号の寄港を歓迎した。 歓迎の祝典は、9月15日、旧東京帝国大学工学部の前身、工部大学校で開催され、皇族、イギリス、アメリカ、ロシアの大使など100人以上が祝典に参加した。ノルデンショルドは祝典で、日本の地学の発展と世界地理の発見に貢献するようスピーチを行った。17日には、明治天皇とも謁見している。 その後ヴェガ号の一行は、神戸、京都などを観光した後、10月21日に長崎港より出港した。帰りはインド洋を横断し、スエズ運河を越えて1880年4月24日に帰国した。 日本では、自分の専門である鉱物や化石などの蒐集のほか、銅器、武器、武具などの工芸品を多く購入した。また、日本の歴史に感嘆し、いずれ入手困難・高価になるだろうと東京・横浜・京都の本屋から約6000冊(1100部)の古典籍を集めて持ち帰り、王立図書館に寄付した。
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「日本滞在」の例文・使い方・用例・文例
- いつまで日本滞在されますか?
- 今回の日本滞在があなたにとって有意義でありますように。
- 私が日本滞在中に最も上達したものは乗馬です。
- あなたの日本滞在が有意義であったなら私も嬉しいです。
- あなたは日本滞在に満足できましたか。
- 私はそれをあなたの日本滞在の思い出にしてもらえたら嬉しいです。
- 今回の日本滞在があなたにとって有意義でありますように
- 彼は日本滞在中、町から町へと訪ね歩いた。
- もしよろしければ、日本滞在中に歌舞伎を見に行きませんか。
- 北朝鮮側は,5人の拉致被害者を2週間の日本滞在後に北朝鮮へ戻すという約束を破っていると日本政府を批判した。
- 3日間の日本滞在中,クリントン長官は麻生(あそう)太郎首相や中(なか)曽(そ)根(ね)弘(ひろ)文(ふみ)外相,小沢一郎民主党代表と会談した。
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