渡英
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テリーはコミック・ストリップ作家、アニメーターとしての仕事を始める。後にモンティ・パイソンで仲間となるジョン・クリーズを写真コミック・ストリップ作品として特集し、『ヘルプ!』誌上にて掲載している。その後の1960年代半ば、イギリスへ渡りフリーのイラストレーターとしてロンドンで雑誌の仕事をする。また、知人となっていたジョン・クリーズの紹介で子供向け番組『ドゥ・ノット・アジャスト・ユア・セット』(Do Not Adjust Your Set)に参加、アニメーションを製作する。この番組で、後にモンティ・パイソンで仲間となるエリック・アイドルやマイケル・ペイリン、テリー・ジョーンズと出会っている。 モンティ・パイソン内では唯一の英国人以外のメンバーとして、BBCの製作番組『空飛ぶモンティ・パイソン』に参加する。ここで、アニメーションを担当し、シュールなアニメーションを製作。このアニメーションはしばしば、番組内のスケッチにリンクし、モンティパイソン内におけるヴィジュアル・ランゲージの一つとして機能した。また、いくつかのスケッチには脇役として出演もしている。 モンティ・パイソンにおけるテリーのアニメーションには独自の様式がある。古い写真(ほとんどはヴィクトリア朝のもの)を背景に、自分が描いたイラストと写真から切り抜いたモチーフとを動かすというものである。この手法は、アニメーションやフラッシュアニメ作品などの多くの場所において模倣されている。テリーのアニメーションは「ギリアメーション」(Gilliamations)と呼ばれる。 その後、映画監督としての仕事を始め、主な活動をこれに移して行く。映画監督としての初めての仕事は、1975年製作の『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』であるが、これはテリー・ジョーンズとの共同監督であった。1977年、初の単独監督作『ジャバーウォッキー』を監督。その後、多くの映画作品の監督を務める。 『未来世紀ブラジル』は米国内では改竄されたヴァージョンが公開され、配給のユニヴァーサルとの闘争が展開。第58回アカデミー賞では、その独特の世界観が評価され、脚本賞と美術賞にノミネートされるも興行的には失敗を喫し、次作『バロン』ではプロデューサーの杜撰な製作管理によって予算が膨れ上がり、当初のヴィジョンが反映されなかった上興業的にも製作費回収には程遠い成績に終わった。この体験で「映画作りが嫌になった」と語っている。 しかし、その次に製作した『フィッシャー・キング』ではマーセデス・ルールがアカデミー助演女優賞を、作品自体もヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞している。 2002年、ナイキのワールドカップキャンペーンの一環であるテレビCM「シークレット・トーナメント」(The Secret Tournament)の監督を務めた。これは、世界のベスト・プレーヤーたちが巨大なタンカーの中で3対3で戦うという内容で、BGMにはエルヴィス・プレスリーの「おしゃべりはやめて」が使われた。このCMは高い人気を集め、批評家からも絶賛された。
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渡英
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1922年(大正11年)に神戸より北野丸でイギリスに出帆。同船した徳田敬二郎を通じて従弟の郡虎彦と到着したロンドンで交わる。オックスフォード大学の入学手続きに間に合わず、一年間はロンドンでジョン・コリアー、シェラード・ヴァインズらとの交友の結果、モダニズム文学運動に接する。1923年(大正12年)1月より住居をケンジントン地区のホテル・ローランドに定め、7月にスコットランドを旅行。10月にオックスフォード大学ニュー・カレッジ(New College)英文学Honors courseに入学。フランス、スイスに旅行し、1924年(大正13年)の夏学期に、ラテン語で大学のニューディゲイト賞に応募しようとしたが、時間不足のため英詩に転換。後に『Ambarvalia』に「哀歌」として名残りのラテン詩が載った。 「A KENSINGTON IDYLL」がT・S・エリオットの詩と共に『チャップブック (Chap Book)』39号に掲載され、この年に英詩を乱作し、12月フランスで『シュルレアリスム革命』誌が刊行される。同年、英国の女性画家・マージョリ・ビドルと結婚。1925年(大正14年)にオックスフォード大学を中退し、ロンドンで英文詩集『Spectrum』をケイム・プレス社より自費出版。これがデイリー・ニューズ紙とタイムズ紙文芸附録の書評に取り上げられ、一躍文名をあげた。帰国の途中にパリで仏文詩集『Une Montre Sentimentale』を出そうとしたが果たせなかった。
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渡英
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1967年の初渡英以来、エリスは定期的に渡英しイギリスのプロデューサーとも仕事をしていたが、3年をカナダで過ごした後、1972年からイギリス・ミドルセックス州ノーソルト(英語版)に移り住み、サウス・ロンドン(英語版)に自らのレーベル兼レコード店オールトーン (All Tone) を設立した。 1977年にはトニー・ガッドの紹介で当時はまだ無名だったジャネット・ケイを見出し、ミニー・リパートン「ラヴィン・ユー」のラヴァーズ・ロック版カバーをプロデュースし、オールトーン・レーベルから発表。同楽曲は全英レゲエチャート1位を記録する大きなヒットとなった。 1980年代に入り、ダンスホールレゲエの時代になっても、エリスはキング・ジャミーやヘンリー・”ジュンジョ“・ローズ(英語版)、シュガー・マイノットなどのプロデューサー達とレコーディングを行い、1982年にはビートルズ「アンド・アイ・ラヴ・ハー」のカバーを発表した。
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渡英
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1982年8月に起きた空軍クーデター未遂事件(英語版)以降、英国からケニアに帰国できず、ロンドンを拠点に活動。
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渡英
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1955年(昭和30年)、阿部は「欧州武徳会を作る」と宣言してイギリスに渡った。これはロンドン柔道協会(LJS)の招聘によるものである。しかし、ロンドンには既に小泉軍治がおり、講道館と結びついて基盤を築いていた。阿部はイギリスで初めて合気道を教えた。この年、阿部はLJSとロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで合気道のデモンストレーションを行った。LJSでは、阿部は2つの問題を感じるようになった。第一は、LJSのメンバーが自分の理論よりも競技に関心を持っていると感じたこと、第二は、メンバーが地位と経験のある武術家としての敬意を持って阿部を扱っていないと感じたことである。国際武道カウンシル(IBC)によると、阿部は1955年にIBCを設立した。 1956年には阿部はLJSから離れ、ロンドンのヒリンドン区のパブの裏手に「ザ・ハット」という愛称の道場を開設し、柔道や合気道を教えていた。稽古は厳しく、阿部は英語がうまくないことから、しばしば姿勢のおかしい部分を竹刀で叩いていた。阿部は「私の英語は下手だが、竹刀は流暢に話す」と言っていた。 阿部は1958年にイギリス柔道カウンシル(BJC)を設立し、他に合気道、空手、剣道、弓道の団体も設立しようとした。この時期、阿部はイギリスやヨーロッパの各地を訪問し、また、イギリスで教えるために日本の武術家を招聘していた。その中には、松濤館空手の原田満祐や合気道の阿部正などがいた。この間、阿部の家族は日本に残った。阿部は家族をロンドンに呼び寄せたが、家族が拒否したという。 阿部は1960年に交通事故に巻き込まれ、首の重度の後遺症が生涯に渡って残った。正確な日付は不明だが、阿部は1960年末までに柔道8段に昇段していた。1960年代後半の複数の独立した資料で、8段の箇所に阿部の名前が記載されている。また、柔道、合気道、剣道の段位に加え、空手5段のほか、弓道、銃剣道でも段位を保持していた。 元祖ケンドー・ナガサキとして知られるイギリスのプロレスラー、ピーター・ソーンリーは、1960年代初頭に阿部から柔道と剣道の指導を受け、ケンドー・ナガサキのギミックで使用していた日本刀は阿部から贈られたものだったと語っている。 1964年(昭和39年)、阿部は1964年東京オリンピック開催にあわせて日本に帰国した。阿部は植芝盛平に会い、イギリスでの合気道の発展の状況を報告し、イギリスにもう一人指導者を派遣してほしいと依頼した。1966年、植芝は千葉和雄(T.K.チバ)をイギリスに派遣し、阿部が始めた活動を継続させた。1968年(昭和43年)12月に再び一時帰国した際、京都の旧武徳殿に「求心道」と称する道場の看板を勝手に掲げ、入門者を募集した。しかし入門者は一人も来なかった。阿部がイギリスを離れている間に、解雇されたBJCの幹部と数名の上級指導員がBJCの財政的・組織的資源を横領し、自分たちのBJCグループを立ち上げた。阿部はこの状況を見て錯乱し、元同僚に組織の再建を手伝ってほしいと頼んだが拒否された。その後、阿部はイギリスを離れ、二度と戻ることはなかった。
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