大政奉還とは? わかりやすく解説

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たいせい‐ほうかん〔‐ホウクワン〕【大政奉還】


大政奉還

読み方:タイセイホウカン(taiseihoukan)

幕末政治事件


大政奉還

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/27 17:15 UTC 版)

大政奉還(たいせいほうかん)は、慶応3年10月14日1867年[3]11月9日)に日本二条城江戸幕府第15代将軍徳川慶喜政権返上を明治天皇奏上し、翌15日(1867年11月10日)に天皇が奏上を勅許したこと。


  1. ^ a b 青山忠正 2017, p. 131.
  2. ^ 青山忠正 2017, p. 131-133.
  3. ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日). https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4d57ba83d5e41aac42e5017f84dc3147e53dc0ff 2020年12月3日閲覧。 
  4. ^ 『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2019年8月30日閲覧。
  5. ^ a b 「大政奉還」克明に記録-「慶喜は大広間で各藩重臣に表明した」に非ず、参加者自筆の記録を初確認 二条城伝達から150年(1/2ページ) - 産経WEST”. 産経WEST. 産経新聞社 (2017年10月13日). 2019年6月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月23日閲覧。
  6. ^ a b 青山忠正. “第7回「慶喜は姿を見せたか?”. 京都市. 2022年6月15日閲覧。
  7. ^ 国宝・二の丸御殿 | 二条城 世界遺産・元離宮二条城”. 2022年6月13日閲覧。
  8. ^ a b c 青山忠正 2017, p. 132.
  9. ^ 「土佐藩大政奉還建白書写」(三条家文書12-8)慶応3(1867)
  10. ^ 「土佐藩大政奉還建白書写」
  11. ^ a b 青山忠正 2017, p. 132-133.
  12. ^ a b c 青山忠正 2017, p. 133.
  13. ^ 高橋秀直 2003, p. 41.
  14. ^ a b 青山忠正 2017, p. 134.
  15. ^ 高橋秀直 2001, p. 11.
  16. ^ a b 高橋秀直 2001, p. 12.
  17. ^ a b 高橋秀直 2001, p. 13.
  18. ^ 高橋秀直 2003, p. 41-42、58.
  19. ^ 高橋秀直 2003, p. 41-42.
  20. ^ 高橋秀直 2001, p. 15-34.
  21. ^ 田中彰『幕末維新史の研究』吉川弘文館〈日本史学研究叢書〉、1996年、188-192頁。ISBN 4-642-03660-1 


「大政奉還」の続きの解説一覧

大政奉還

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 10:03 UTC 版)

寺村道成」の記事における「大政奉還」の解説

10月3日主君山内容堂ほか4名と連名して、老中板倉勝静に大政奉還建白書提出した。これを受けて10月14日将軍徳川慶喜大政奉還し朝廷受け入れられた。この直前左膳報告のため帰藩している。11月、再び上京するが、すでに左膳在京重臣との間には方針隔たりがあり、国事掛は後藤福岡神山左多衛の3人に任され左膳は「君側専務之任」となった

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大政奉還

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:14 UTC 版)

鳥羽・伏見の戦い」の記事における「大政奉還」の解説

土佐藩士後藤象二郎福岡孝弟らが同藩主山内容堂らによる大政奉還を勧める建白書をみて、慶喜将軍職を継ぐと決めた時からの志――王政復古により、以前から希望していた議会主義による国会設けた二院制合議政体への移行果たしつつ、即時攘夷戦は不可能と朝廷建言征夷大将軍覇府としての江戸幕府閉じる志――を遂げ好機会だと考え10月14日、大政奉還を上表した。薩摩藩士・小松帯刀は、薩長両藩への討幕の密勅はこれより先すでに内定があり、大政奉還はそれよりあとでは効果がないと知っており、討幕の密勅出される以前に、大政奉還を今すぐ発するべきだ徳川幕府勧めていた。これは薩長による武力討幕避け徳川家勢力温存したまま、天皇の下での諸侯会議あらため国家首班に就くという策略だったと見られている(公議政体論)[誰?]。慶喜後年『昔夢会筆記』で、大政奉還の決心その後徳川家立場をどう考えていたかとの問いに「それは真の考えは、大政返上して、それで自分俗にいう肩を抜くとか、安を偸(ぬす)むとかいうことになってすまない大政返上した以上は、実は飽くまでも国家のために尽くそうという精神であった。しかし返上した上からは、朝廷のご指図受けて国家のために尽くすというのだね、精神は。それで旗本などの始末どうするかこうするとかいうことまでには、考えが及ばない。ただ返上した上からは、これまでのとおりにいっそう皇国のために尽くさぬではならぬ、肩を抜いたようになってはすまぬというのが真の精神であった。あとで家来どうしようかこうしようとかいうことまでには、考えがまだ及ばなかった」と答えたイェール大学東アジア研究博士研究員マイケル・ソントンはその著『水戸維新』(2021年)で、「仮に(慎重な戦略的政治家だった)慶喜王政復古考えていたとしても、政治から離れるつもりはなかった。フランス指導西洋式兵制着手し徳川家棟梁実戦軍隊率い準備整えようとしたことはそのあたりの意思物語っている」としているが、実際慶喜晩年『昔夢会筆記』のなかで「王政復するというと大変今日明治維新後)からみればたやすいようだが、さてその王政に御復しになる手段はどうなさるといわれると、誰もその手段がつかない」「それにまたひとつは外国の事(欧米列強からの植民地侵略脅威)があり、内外切迫薩長同盟による倒幕動き)の結果だ。それでその王政復古という立派な名にして、そうして(それまで政治的に無力化していた朝廷に代わって、政治的実務全般こなしてきた事実上日本統一政権である江戸幕府の長として、政権朝廷天皇家返上する禅譲行動をした)自分が(国事上の責任放棄の形で)その肩を抜くようになってもならず、また王政になった以上は、これまでよりも国家のために尽くねばならぬ。いろいろそこに考えもある。とにかく諸侯集めて腹蔵伏蔵)なく公平なところの評議及んだよかろう長州もうどうあろうとも寛大でよい。あれはあれでよいという考え出したが、少しそういう辺にもいかなかったのだ……。」と語り、むしろ王政復古後の姿を誰も知らない状況下で政治的指導力発揮しあらたな合議政体下で天皇家一忠臣として皇国為に尽くそうとしていた。同1867(慶応3)年11月当時慶喜ブレーンひとりで幕府開成所教授職務めた蘭学者思想家西周は、慶喜側近幕臣平山敬忠へ『議題草案』を献上し天皇象徴的地位置いた上で大君国家元首とし、三権分立とりいれ近代議会制政体案を出していた。公家岩倉具視はのち慶喜の大政奉還について「孝明天皇将軍家茂がどちらも没したとき、将軍後継者慶喜有能な人物で、天皇直結し政府絶対に不可欠見抜くことができた。この心から確信で、慶喜単なる贈り物としてではなく彼の政権天皇禅譲したが、それが存在する政治的困難の数々解決するただひとつの道だったからだ」と述べた諸国大名様子見をして上京しないまま諸侯会議開かれず、逆に旗本中には無許可上京してくるものも相次いだ

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大政奉還

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 17:59 UTC 版)

市川弘美」の記事における「大政奉還」の解説

1868年幕府江戸城明け渡して徳川慶喜水戸謹慎することになると、京都における本圀寺勢(天狗党派)が朝廷より「除奸反正」(市川三左衛門らを討伐し,藩政正常化せよの意)の勅書賜る情勢の不利を察した市川は、4月諸生党500名を率いて水戸脱出し戊辰戦争においては奥羽越後各地転戦して官軍と戦う。しかし、9月会津落城すると行き場失って再度水戸戻り藩校弘道館拠って水戸城拠る本圀寺勢と戦闘及んだ弘道館戦争)。しかし、市川自身二人の子息を失うなど多数死傷者をだして下総方面敗走し銚子匝瑳にて追討される(松山戦争)。これによって諸生党残党壊滅したが、市川脱して江戸潜伏した。 市川江戸市中寺院旧友宅に潜伏したが、1869年2月に藩の捕吏縛され水戸移送された。4月水戸郊外長岡原で逆さ磔極刑処された。墓所水戸市祇園寺。なお同寺には諸生党士の慰霊碑恩光無辺の碑)がある。

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「大政奉還」を含む「市川弘美」の記事については、「市川弘美」の概要を参照ください。


大政奉還

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 19:35 UTC 版)

小栗忠順」の記事における「大政奉還」の解説

慶応3年10月14日1867年11月9日)、15代将徳川慶喜朝廷に大政奉還。翌慶応4年1868年1月鳥羽・伏見の戦いが行われて戊辰戦争が始まる。 慶喜江戸帰還後1月12日から江戸城開かれた評定において、小栗榎本武揚大鳥圭介水野忠徳らと徹底抗戦主張する。この時、小栗は「薩長軍が箱根降りてきたところを陸軍迎撃し、同時に榎本率い旧幕府艦隊駿河湾突入させて艦砲射撃後続補給部隊壊滅させ、孤立化補給途絶えた薩長軍を殲滅する」という挟撃策を提案した。後に、この作戦聞いた大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」として恐れたという逸話がある。実際、この時点において旧幕府側は、鳥羽・伏見の戦い参加していなかった多数予備兵力を保有していたが、慶喜はこの作戦退けて勝海舟恭順論を採った。 ただし、一方で慶喜和戦両論構え取っており、横浜警備体制増強して箱根関碓氷関目付派遣し官軍迎え撃つ体制強化している。小栗作戦却下した理由としては、その時点での慶喜はあくまで武備恭順姿勢であり、家臣団小栗意見に引きずられて武備恭順の域から逸脱するのを防ぐためだった推測されている。慶喜としては抗戦意思捨てる気はないものの、薩長官軍化に困惑する味方安心させる為、朝廷に対して恭順意思見せる必要があり、明確に敵対意思を示す小栗作戦受け入れることが出来なかったとされる。なお、幕臣のほとんどは主戦論唱えていたが、小栗作戦以外にも「軍艦大坂城攻撃する」「富士川官軍食い止める」「碓氷峠防衛線にする」など様々な作戦提案される議論百出の状態で、一つ意見集約できる状態ではなかったという。 慶応4年1868年1月15日江戸城にて勝手掛老中松平康英から呼出切紙渡され芙蓉の間にて老中酒井忠惇若年寄稲葉重正から御役御免及び勤仕寄合となる沙汰申し渡されると、同月28日に「上野国群馬郡権田現在の群馬県高崎市倉渕町権田)への土着願書」を提出した旧知三野村利左衛門から千両箱贈られ米国亡命勧められたものの、これを丁重に断り、「暫く上野国引き上げるが、婦女子困窮することがあれば、その時宜しく頼む」と三野村伝えたまた、2月末に渋沢成一郎から彰義隊隊長推されたが、「徳川慶喜薩長と戦う意思が無い以上、無名の師有り大義名分の無い戦いはしない」とこれを拒絶した3月初頭小栗一家揃って権田東善寺移り住む当時村人記録によると、水路整備したり塾を開くなど静かな生活送っており、農兵訓練をしていた様子見られない

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「大政奉還」を含む「小栗忠順」の記事については、「小栗忠順」の概要を参照ください。

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