さっちょう‐どうめい〔サツチヤウ‐〕【薩長同盟】
薩長同盟 (さっちょうどうめい)
薩長同盟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/29 06:20 UTC 版)
薩長同盟(さっちょうどうめい)は、江戸時代後期(幕末)の慶応2年1月21日(1866年[1]3月7日)に、近衛家別邸御花畑屋敷(小松帯刀邸[2][3][4])(京都市上京区)で締結された、薩摩藩と長州藩の政治的、軍事的同盟。薩長盟約、薩長連合ともいう。
概要
薩摩藩と長州藩は、京都を中心とする幕末の政治世界において雄藩として大きな影響力を持ったが、薩摩藩は公武合体の立場から幕府の開国路線を支持しつつ幕政改革を求めたのに対し、長州藩は急進的な破約攘夷論を奉じて反幕的姿勢を強めるなど、両者は容易に相容れない立場にあった。
薩摩藩は文久3年(1863年)8月18日に会津藩と協力し、長州藩勢力を京都政界から追放(八月十八日の政変)。翌元治元年(1864年)7月19日には上京出兵してきた長州藩兵と戦火を交え、敗走させる(禁門の変)。ここに至り両者の敵対関係は決定的となった。禁門の変で朝敵となった長州藩は、幕府から第一次長州征討を受けるなど窮地に陥った。一方で薩摩藩も、自藩の主張する幕政改革の展望を開くことができず大久保利通や西郷隆盛らを中心に幕府に対する強硬論が高まっていった。
長州・薩摩間の和睦は、第一次長州征討中止の周旋や五卿の太宰府延寿王院への受け入れに奔走していた月形洗蔵や早川勇など福岡藩の尊皇攘夷派の周旋によって、イギリスの駐日公使であるハリー・パークスが高杉晋作と会談したり、薩摩や同じく幕末の政界で影響力を持っていた土佐藩を訪問したりするなどして西南の雄藩を結びつけさせたことに始まる。
土佐藩の脱藩浪人で、長崎において亀山社中(後の海援隊)を率いていた坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋もあって、主戦派の長州藩重臣である福永喜助宅において会談が進められ、慶応元年(1865年)閏5月に下関での会談を西郷が直前に拒否する事態もあったが、その後薩摩藩家老の小松帯刀が井上聞多・伊藤俊輔の依頼を受け、薩摩藩の名義貸しによる武器購入を実現させたことにより、長州藩主毛利敬親・広封父子が島津久光・茂久父子に対し、9月8日に礼状を送付するに至り、薩長融和の実現に大きく前進した。同年10月には、大久保一蔵が「非義勅命ハ勅命ニ有らす候故、不可奉所以ニ御坐候」と西郷宛ての書簡に記すなど、長州再征勅許に対する断固反対の周旋を行っており、薩長融和への動きが加速されていた。
そんな中で慶応2年(1866年)1月21日(18日、22日説も)小松邸で坂本を介して薩摩藩の西郷、小松と長州藩の木戸貫治が、6か条の同盟を締結した。他の薩摩側出席者は大久保、島津伊勢、桂久武、吉井友実、奈良原繁。長州藩出席者は他に品川弥次郎、三好軍太郎。
この密約に基づいて薩摩藩は幕府による第二次長州征討に際し出兵を拒否し、以後薩長の連携関係は深まっていくこととなった。薩摩藩士で、明治期には島津久光の側近として歴史編纂事業に従事した市来四郎は、薩摩藩と長州藩の提携が成立したのはより後年の1867年(慶應3年)11月、薩摩藩主島津茂久が多数の兵士を引き連れて上洛する際に長州藩世子毛利広封と会見し、出兵協定を結んだ時点であると指摘している[5]。
なお、この盟約は倒幕のための軍事同盟で、その後の王政復古や戊辰戦争への第一段階となったが、その事について青山忠正らは木戸の書状を独自に研究して異論を唱えている[6][7]。青山たちの検証では、「木戸書状は、幕府による長州藩処分問題に関して、政治的活動の自由を奪われた長州藩の復権を、薩摩藩は支援するという内容であり、共に倒幕へ向けて積極的に動き出そうとするものではない[7]。」「木戸書状では『倒幕』という類の文言は、かなり拡張解釈しないと読み取れない[7]。」「『決戦』の相手として想定されているのは、幕府そのものではなく『橋会桑』、すなわち当時京都政局を制圧していた一橋慶喜、松平容保(会津藩)、松平定敬(桑名藩)の3者(一会桑政権)である。」「一橋徳川家当主の慶喜は固有の軍事力を殆ど保有しておらず、軍事的対決の相手としては会津・桑名両藩、とりわけ会津藩を想定するものであった[8]。」と考察している。その他には、「この時期の薩摩は、一会桑と幕府本体を分けて見ていた[7][9]。」という見解もある。また、薩長同盟は、薩摩と長州のそれぞれの立場によってその受け取り方が違うという見解がある。町田剛士は「木戸としては幕府との戦闘開始が目前と認識しており、薩摩藩による明確な「冤罪の赦免」という支援を小松、西郷から引き出すことができ、また長州再征に対して少なくとも薩摩は敵にならないということを確認できたことは大きな成果であった。」とし、「一方小松、西郷としては幕長開戦の可能性は低いと考えていたものの、万一開戦したとしても情報収集の結果、長州の軍事力や組織は強固であり、一会桑を含む幕府を消耗させ、薩摩藩が志向する雄藩連合体制へ持ち込むことができると考えた。」としている。[4]
提携内容(6ヶ条)
一、戦ひと相成り候時は直様二千余の兵を急速差登し只今在京の兵と合し、浪華へも千程は差置き、京坂両処を相固め候事一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒これ有り候とき、其節朝廷へ申上屹度尽力の次第これ有り候との事
一、万一負色にこれ有り候とも一年や半年に決て壊滅致し候と申事はこれ無き事に付、其間には必尽力の次第屹度これ有り候との事
一、是なりにて幕兵東帰せしときは屹度朝廷へ申上、直様冤罪は朝廷より御免に相成候都合に屹度尽力の事
一、兵士をも上国の上、橋会桑等も今の如き次第にて勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗み周旋尽力の道を相遮り候ときは、終に決戦に及び候外これ無きとの事
一、冤罪も御免の上は双方誠心を以て相合し皇国の御為皇威相暉き御回復に立至り候を目途に誠心を尽し屹度尽力仕まつる可しとの事
薩長同盟が結ばれた会談の内容はその場で記録されず、正式な盟約書も残されていない。上記の内容は木戸が記憶を頼りに会談の内容を6カ条にまとめ、内容の確認のため坂本に送付した書簡(慶応2年1月23日付)によるものである[10]。
坂本はこれに応じ、上記の木戸書簡の裏面に「表に御記成被候六条は小西両氏及老兄龍等も御同席にて談論せし所にて毛も相違これ無き候、後来といへとも決して変り候事はこれ無きは神明の知る所に御座候」と朱書して返信(2月5日付)している。
上記の各条の具体的な内容は、主に第二次長州征伐に際し、薩摩が長州に対し物心両面の援助を約するものである。第一条では長州で戦争が始まった場合に薩摩が京都・大坂に出兵して幕府に圧力を加えること、第二条~第四条で戦争の帰趨如何に関わらず薩摩が長州の政治的復権のために朝廷工作を行うことを、それぞれ約束している。第五条では、薩摩が第一条により畿内に出兵して圧力を加えた上でも、橋会桑(一会桑政権)が朝廷を牛耳ったうえで薩摩側の要求を拒むようであれば、彼らとの軍事的対決に至る覚悟があることを長州に対し表明する内容となっている。
現代における記念・比喩
鹿児島大学(旧薩摩藩に所在)と山口大学(旧長州藩に所在)は2018年、明治維新150年を記念して醸造した焼酎「薩長同盟」を発売した[12]。
現代の政局や社会運動などにおいて、複数の人物・勢力が手を結ぶことやそれを期待する場合に、比喩として「薩長同盟」が使われることがある[13]。
関連
慶応3年5月21日(1867年6月23日)、中岡慎太郎の仲介によって、薩摩藩・西郷隆盛らと土佐藩・板垣退助らの間で締結された武力討幕のための軍事同盟である「薩土討幕の密約(薩土密約)」も「薩長同盟」と同じ京都御花畑の小松帯刀寓居で締結された。明治維新151年・令和元年・板垣退助百周忌を記念して「薩土討幕之密約紀念碑」が建立されるにあたり、同所には既に「薩長同盟所縁之地」の石碑があるため、薩土密約の石碑は、この密約が締結される前段階として京都東山の「近安楼」で会議が行われたことを記念し、京都祇園に建立された[14]。
脚注
- ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日) 2020年12月3日閲覧。
- ^ 原田良子・新出高久「薩長同盟締結の地『御花畑』発見」『敬天愛人』34号(2016年9月、公益財団法人西郷南州顕彰会)
- ^ 佐野静代「近衛家別邸「御花畑」の成立とその政治史上の役割 : 禁裏御用水・桂宮家・尾張藩・薩摩藩との関わりについて」『人文學』第205巻、同志社大学人文学会、2020年3月、1-53頁、CRID 1390853649846471168、doi:10.14988/pa.2020.0000000074、ISSN 0447-7340、NAID 120006843077。
- ^ a b 町田, 剛士 (2017-03-31). “幕末薩摩外交-情報収集の点からみた薩長同盟-”. 黎明館調査研究報告 (鹿児島県歴史資料センター黎明館) 29: 85–123 最終頁に御花畑絵図の画像を掲載. doi:10.24484/sitereports.129116-119327 .
- ^ 家近良樹 『西郷隆盛と幕末維新の政局』(ミネルヴァ書房)2011年、pp.153。
- ^ 青山忠正「薩長盟約の成立とその背景」歴史学研究557号、1986
- ^ a b c d 久住真也「第一章 維新史研究」、小林和幸編「明治史研究の最前線」2020-01-15,筑摩選書、p28-29.
- ^ 家近良樹 『孝明天皇と「一会桑」』(文春新書)2002年、pp.138-139。
- ^ 家近良樹「江戸幕府崩壊」2014年
- ^ 松浦玲 『坂本龍馬』(岩波新書)2008年、pp.100-101。
- ^ 尺牘(龍馬裏書) 宮内庁公式サイト
- ^ 「維新150年記念で薩長同盟焼酎」『日本経済新聞』朝刊2018年7月25日(大学面)2018年9月19日閲覧。
- ^ 例として、安倍晋三首相、鹿児島で「平成の薩長同盟」を演出「反安倍」鎮めた森山裕氏に論功行賞/産経ニュース(2018年8月26日)、倉本圭造『21世紀の薩長同盟を結べ』(星海社新書)など。
- ^ “「薩土密約」の石碑 京都祇園に建立 板垣退助の子孫ら集う”. 京都新聞デジタル. (2019年9月23日) 2019年12月5日閲覧。
関連項目
薩長同盟
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詳細は「薩長同盟」および「坂本龍馬襲撃事件」を参照 慶応2年(1866年)1月8日、小松帯刀の京都屋敷において、桂と西郷の会談が開かれた。だが、話し合いは難航して容易に妥結しなかった。龍馬が1月20日に下関から 京都に到着すると未だ盟約が成立していないことに驚愕し、桂に問いただしたところ、長州はこれ以上頭を下げられないと答えた。龍馬はそれ以上桂を責めることはしなかった。しかし薩摩側が桂の帰藩を止め、1月22日、薩摩側からの6か条の条文が提示された。その場で検討が行われ、桂はこれを了承した。これにより薩長両藩は後世薩長同盟と呼ばれることになる盟約を結んだ。龍馬はこの締結の場に列席している。盟約成立後、木戸は自分の記憶に誤りがないかと、龍馬に条文の確認を行い、間違いないという返書を受け取っている。 龍馬は薩長同盟成立にあたって両者を周旋し、交渉をまとめた立役者とする意見がある。これらのものでは、桂が難色を示したあとに、龍馬が西郷に働きかけ、妥協を引き出したとされる。逆に近年の研究者の主張で西郷や小松帯刀ら薩摩藩の指示を受けて動いていたという説を唱える者(青山忠正など)もおり、薩長連合に果たした役割は小さかったと考える研究者もいる。 盟約成立から程ない1月23日、龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と投宿していた伏見の寺田屋へ戻り祝杯を挙げた。だがこのとき、伏見奉行が龍馬捕縛の準備を進めていた。明け方2時頃、一階で入浴していた龍馬の恋人のお龍が窓外の異常を察知して袷一枚のまま二階に駆け上がり、二人に知らせた。すぐに多数の捕り手が屋内に押し入り、龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃を、三吉は長槍をもって応戦するが、多勢に無勢で龍馬は両手指を斬られ、両人は屋外に脱出した。負傷した龍馬は材木場に潜み、三吉は旅人を装って伏見薩摩藩邸に逃げ込み救援を求めた。これにより龍馬は薩摩藩に救出された。寺田屋での遭難の様子を龍馬は12月4日付の手紙で兄・権平に報告している。 龍馬不在の長崎の亀山社中では、1月14日にユニオン号購入で活躍した近藤長次郎(上杉宗次郎)が独断で英国留学を企てて露見し、自刃させられる事件が起きていた。事件を知らされた龍馬は『手帳摘要』に「術数はあるが誠が足らず。上杉氏(近藤)の身を亡ぼすところなり」 と書き残しているが、後年のお龍の回顧では「自分がいたら殺しはしなかった」と嘆いたという。 寺田屋遭難での龍馬の傷は深く、以後、それが理由で写真撮影などでは左手を隠していることが多いのではないかと指摘する研究者もいる。西郷の勧めにより、刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養することを決めた龍馬は、2月29日に薩摩藩船・三邦丸に便乗してお龍を伴い京都を出立した。3月10日に薩摩に到着し、83日間逗留した。二人は温泉療養のかたわら霧島山、日当山温泉、塩浸温泉、鹿児島などを巡った。温泉で休養をとるとともに左手の傷を治療したこの旅は龍馬とお龍との蜜月旅行となり、これが日本最初の新婚旅行とされている。 5月1日、薩摩藩からの要請に応えて長州から兵糧500俵を積んだユニオン号が鹿児島に入港したが、この航海で薩摩藩から供与された帆船ワイル・ウエフ号が遭難沈没し、土佐脱藩の池内蔵太ら12名が犠牲になってしまった。幕府による長州再征が迫っており、薩摩は国難にある長州から兵糧は受け取れないと謝辞し、ユニオン号は長州へ引き返した。 6月、幕府は10万を超える兵力を投入して第二次長州征伐を開始した。6月16日にユニオン号に乗って下関に寄港した龍馬は長州藩の求めにより参戦することになり、高杉晋作が指揮する6月17日の小倉藩への渡海作戦で龍馬はユニオン号を指揮して最初で最後の実戦を経験した。龍馬はこの戦いについて、戦況図つきの長文の手紙を兄・権平に送っている。 長州藩は西洋の新式兵器を装備していたのに対して幕府軍は総じて旧式であり、指揮統制も拙劣だった。幕府軍は圧倒的な兵力を投入しても長州軍には敵わず、長州軍は連戦連勝した。思わしくない戦況に幕府軍総司令官の将軍・徳川家茂は心労が重なり7月10日に大坂城で病に倒れ、7月20日に21歳の短い人生を終えた。このため、第二次長州征伐は立ち消えとなり、勝海舟が長州藩と談判を行い9月19日に幕府軍は撤兵した(小倉口では交戦が続き和議が成立したのは翌慶応3年1月23日)。
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