長州征討
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長州征討(ちょうしゅうせいとう)は、元治元年(1864年)と慶応2年(1866年)の2回にわたり、江戸幕府が、京都で禁門の変を起こした長州藩の処分をするために長州藩領のある周防国、長門国(以下、防長二州と記す)へ向け征討の兵を出した事件を指す。長州征伐[1]、長州出兵、幕長戦争[2]、長州戦争[3]などとも呼ばれる。
注釈
- ^ 福地源一郎は『幕府衰亡論』において、当時の詳細は伝聞と断りを入れた上で、成算も無く自薦で赴いて恥を晒しただけで終わったと酷評している
- ^ 3月16日に諸隊は奇兵隊((375名、吉田)、御盾隊(150名、三田尻)、鴻城隊または鴻城軍(100名、山口)、遊撃隊または遊撃軍(250名、須々万)、南園隊((150名、荻)、荻野隊(50名、小郡)、膺懲隊(125名、徳地)、第二奇兵隊(100名、石城山)、八幡隊(150名、小郡)、集義隊(50名、三田尻)へ再編され総員は1500名へ削減された。
- ^ 藩主親子の朝敵の名を除き、封地は10万石を削減、藩主は蟄居、世子は永蟄居、家督はしかるべき人に相続させ、三家老の家名は永世断絶。
- ^ この戦訓から、西郷隆盛は幕府に戦いを挑んで勝つ確信を持ち、かつ幕府の戦力は歩兵以外は役に立たないと判断した。以後の戊辰戦争まで続く幕府軍との戦いにおける戦力の根拠を、自軍1に対し幕府軍10と設定したほど幕府側戦力を非常に小さく見積ることとなった[19]。
出典
- ^ 全国歴史教育研究協議会編『日本史Ⓑ用語集』(山川出版社、16刷1998年)p.172.
- ^ 『日本史Ⓑ用語集』(山川出版社)p.172.
- ^ 『日本史Ⓑ用語集』(山川出版社)p.172.
- ^ 『歴史と旅 新・藩史事典』(秋田書店、1993年)p.395.
- ^ 『忠正公勤王事蹟 訂正補修 』P.477、中原邦平、防長史談会、1911年(明治44)5月
- ^ 三宅紹宣『幕末・維新期長州藩の政治構造』p266
- ^ 第二奇兵隊は14日に大畠(遠崎)から笠佐島西岸へ上陸し(大島側からは見えない)、そこから15日未明に大島へ上陸し西蓮寺に本陣を置いた。
- ^ 北川健「幕末長州藩の奇兵隊と部落民軍隊」『山口県文書館研究紀要』第14巻、山口県公文書館、1987年3月、33頁。
- ^ 末松謙澄『修訂防長回天史』 8巻、末松春彦、1921年3月、451-452頁。
- ^ “旧幕府、長吏弾左衛門を編して平人と為す。弾左衛門、乃ち内記と改名す。”. 維新史料綱要データベース. 2023年7月13日閲覧。
- ^ 『北九州市史 近世』 pp.896-899
- ^ 『北九州市史 近世』 p.900
- ^ 『北九州市史 近世』 pp.899-901
- ^ a b 『北九州市史 近世』 pp.901-902
- ^ a b 『北九州市史 近世』 pp.905-908
- ^ 『北九州市史 近世』 pp.909
- ^ 『北九州市史 近世』 pp.908-909
- ^ a b 『北九州市史 近世』 pp.910
- ^ 「史談会速記録」第29巻
- ^ #関山、p.p.63.
- ^ 原口清『原口清著作集2 孝明天皇と岩倉具視』
長州征討
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文久3年(1863年)10月、萩へ帰国する。24日、手当防御事務用掛に任命。翌元治元年(1864年)2月24日、兵学校教授役となり、藩の山口明倫館での西洋兵学の講義を行い、5月10日からは鉄煩御用取調方として製鉄所建設に取りかかるなど、藩内に充満せる攘夷の動きに合わせるかのように軍備関係の仕事に邁進する。一方では語学力を買われ、8月14日には四国艦隊下関砲撃事件の後始末のため外人応接掛に任命され、下関に出張している。26日の外国艦隊退去後、29日に政務座役事務掛として軍事関係に復帰、明倫館廃止後の12月9日、博習堂用掛兼赤間関応接掛に任命される。 長州藩では、その風貌から「火吹き達磨」のあだ名を付けられた。このあだ名は、周布政之助が付けたとも高杉晋作が付けたとも言われている。長州藩では元治元年(1864年)の第一次長州征伐の結果、幕府へ恭順し、保守派が政権を握ったが、慶応元年(1865年)、高杉晋作らが馬関で挙兵して保守派を打倒、藩論を倒幕でまとめた。同年、益次郎は藩の軍艦壬戌丸売却のため、秘密裏に上海へ渡っている。この公式文書は残されておらず、わずかに残された益次郎本人のメモしか知ることが出来ないため仔細は不明のままである。 福沢諭吉は自伝『福翁自伝』で、1863年の江戸における緒方洪庵の通夜の席での出来事として、 「(福沢が)『どうだえ、馬関では大変なことをやったじゃないか。……あきれ返った話じゃないか』と言うと、村田が眼に角を立て『なんだと、やったらどうだ。……長州ではちゃんと国是が決まっている。あんな奴原にわがままをされてたまるものか。……これを打ち払うのが当然だ。もう防長の土民はことごとく死に尽くしても許しはせぬ。どこまでもやるのだ。』と言うその剣幕は以前の村田ではない。」 と、長州藩士になりたての益次郎が過激な攘夷論を吐いたことに驚き 「自身防御のために攘夷の仮面をかぶっていたのか、または長州に行って、どうせ毒をなめれば皿までと云うような訳で、本当に攘夷主義になったのか分かりませぬが……」 と解釈している。益次郎自身が攘夷について言及した記録が他には見当たらないので真相は不明であるが、諭吉と益次郎は元来そりが合わず、長州藩を攘夷の狂人扱いする福沢の物言いに立腹して口走ったのではないかという説もある 晋作らは、西洋式兵制を採用した奇兵隊の創設をはじめとする軍制改革に着手、益次郎にその指導を要請する。桂小五郎(木戸孝允)の推挙により、益次郎は馬廻役譜代100石取の上士となり、藩命により「大村 益次郎(おおむら ますじろう)」と改名する。「大村」は故郷の地名から、「益次郎」は父親の「孝益」の「益」をそれぞれとっている。 このころ、益次郎は精力的に明倫館や宿舎の普門寺で西洋兵学を教授したが、特に益次郎の私塾であった普門寺は、普門寺塾や三兵塾と呼ばれた。ここで益次郎はオランダの兵学者クノープの西洋兵術書を翻訳した『兵家須知戦闘術門』を刊行、さらにそれを現状に即し、実戦に役立つようわかりやすく書き改めたテキストを作成し、その教え方も無駄がなく的確であったという。 慶応2年(1866年)、幕府は第二次長州征伐を号令、騒然とした中、明倫館が再開される。桂小五郎は同年5月に藩の指導権を握り、益次郎、晋作、伊藤博文、井上聞多(のち井上馨)らと倒幕による日本の近代化を図り、幕府との全面戦争への体制固めを行っていた。すでに3月13日、益次郎は兵学校御用掛兼御手当御用掛として明倫館で兵学教授を始めていたが5月には近代軍建設の責任者となり、閏5月6日に大組御譜代に昇格、100石を支給され名実共に藩士となる。 益次郎は桂の意見を参考に、四方からの攻撃に備えるには従来の武士だけでなく、農民、町人階級から組織される市民軍の組織体系確立が急務であり、藩はその給与を負担し、併せて兵士として基本的訓練を決行しなければならぬと述べ、有志により結成されていた諸隊を整理統合して藩の統制下に組み入れ、5月22日には1600人の満16歳から25歳までの農商階級の兵士を再編した。さらに旧来の藩士らの再編を断行し、石高に合わせた隊にまとめ上げて、従卒なしに単独で行動できるようにして効率のよい機動性を持たせた軍を作るかたわら、隊の指揮官を普門塾に集めて戦術を徹底的に教えた。さらに、5月26日、青木群平を長崎に派遣して最新のライフル銃であるミニエー銃を購入させようとするが、これは幕府の横槍で不調に終わり、7月に桂が伊藤と井上を長崎のイギリス商人グラバーと交渉して、同盟関係に合った薩摩藩の協力もあってミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺を購入する。 6月に戦闘が開始された。益次郎は石州口方面の実戦指揮を担当する。その戦術は最新の武器と巧妙な用兵術に加え、無駄な攻撃を避け、相手の自滅を誘ってから攻撃を加えるという合理的なもので、旧態依然とした戦術に捉われた幕府側をことごとく撃破するなど、益次郎の軍事的才能が遺憾なく発揮されたものであった。6月16日、益次郎は中立的立場を取った津和野藩を通過して浜田まで進撃する。7月18日に浜田城を陥落させ、のち石見銀山を占領した。このとき、炎上する城を見て部下が出雲藩の救援を心配したが、益次郎は赤穂浪士の討ち入りの故事を引き合いにして「決して雲州そのほかから無闇に応援に来るものではない、それでは事情が許さない。」と論理的に戦況を分析して断言し、皆を安心させた。長州藩の旧知で蘭学者の青木周弼は益次郎を評して「その才知、鬼の如し」と語ったという。他の戦線でも長州藩は優勢に戦いを進め、事実上の勝利のもとに停戦した。 益次郎は征討終了後、山口に帰還、12月12日海軍用掛を兼務する。海軍頭取前原彦太郎(のちの前原一誠)を補佐した。翌年には軍の編制替えを行うなど、その多忙さは変わることがなかった。
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