禁門の変
禁門の変 (きんもんのへん)
禁門の変
禁門の変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 04:21 UTC 版)
翌元治元年(1864年)、前回の政変で失った長州藩の失地回復のために激烈に出兵を主張し、禁門の変の前に家老福原元僴らと共に上洛、薩摩藩国父島津久光の暗殺を計画したが失敗。一旦長州に戻り、藩主毛利敬親に改めて出兵を促した。 6月に福原・益田親施・国司親相・久坂玄瑞らと再度上洛、7月19日に変が起こると、又兵衛は風折烏帽子に先祖伝来の甲冑を着込み、自ら遊撃隊600名の兵を率いて、激戦を繰り広げた。しかしこの禁裏内の蛤御門の戦いで、当時薩摩藩兵の銃撃隊として活躍した川路利良の狙撃で胸を撃ちぬかれた。助からないと悟った又兵衛は、甥の喜多村武七に介錯を命じ、自ら槍で喉を突いた後、首を刎ねられて死亡した。享年48(満47歳)。
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禁門の変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 01:47 UTC 版)
元治元年7月15日(1864年8月16日)、長州兵の入京を阻止せんと薩摩藩士・吉井幸輔、土佐藩士・乾正厚、久留米藩士・大塚敬介の3名が正親町実徳邸を訪ね、従来の朝命を維持し「長州の嘆願を許可せぬよう」家中を通じて伝える。同日、議奏・正親町三条実愛邸にも同上の3人が訪れ「長州へ処置は追討之外無き」ことを伝えた。 更に翌7月16日(1864年8月17日)、同上の3人は尹宮朝彦親王邸を訪れ、薩摩藩士・大島吉之助(西郷隆盛)、吉井幸輔、久留米藩士・大塚敬介、田中紋次郎らが会し重ねて長州藩士の入京を阻止せん事を議す。翌7月17日(1864年8月18日)、意見書をまとめて連署で朝廷に建白。その決意を求めた(禁門の変)。 長門宰相父子之儀、去年八月以来、勅勘候。未其藩臣歎願とは乍申、人數兵器を相携、近畿所々へ屯集奉要、天朝候姿無紛候處、寛大之御仁恕を以て、再度理非分明之被爲在御沙汰候得共、今以抗言不引拂段甚如何にも奉存候。就而者、譬申立候筋條理有之共、決而此儘御許容被爲在儀、萬々有御座間敷と奉存候得共、自然右邊御廟議にも被爲在候而者堂々たる天朝之御威光乍ら廢替、實以御大事之御場合に奉存候。方今夷難相迫り不容易御時際、一旦 朝權、地に落候而者、後日何を以て皇威振興可仕哉。甚不可然儀に付、速かに斷然と御處置被爲在候様状而奉懇願候。不肖我々共禁裡警衛相勤候儀も全く 朝威不廢替様盡力仕候。武門當然何分難黙止奉存に付、三藩在京之重役共一同申談奉歎願候事。 (元治元年)七月十七日 松平修理大夫内 吉井幸輔(友實) 松平土佐守内 乾市郎平(正厚) 有馬中務大輔内 大塚敬介 右 同 田中紋次郎 これらを受け朝廷は、元治元年7月17日(1864年8月18日)夜、大会議を開く事となり、関白・二條斉敬、右大臣・徳大寺公純、中務卿宮、尹宮、有栖川帥宮、山階宮、内大臣・近衛忠房らが参内し徹宵会議を行い、ついに長州藩を追討する旨を決定した。これにより、翌7月18日(太陽暦8月19日)、大納言・正親町三條実愛、六條有容、柳原光愛、野宮定功らは長州藩の京都留守居役・乃美織江を六條家に呼び出し、「天龍寺以下、伏見屯集の浪士を今日中に引拂可申様、若又於相距者、追討被仰出候事」と厳令を伝えた。また、公卿一同には、「方今之形勢、可及戰爭計難候得共、被動玉座候儀、無之旨被仰出候事」と発令した。乃美織江は、右の旨を山崎と天龍寺の屯営に急報。男山に布陣していた益田右衛門介の本陣では、長州藩の諸将が軍議を開き、入江九一、久坂玄瑞らは一旦、退却して再起を図る戦略を述べるも、進軍を主張する来島又兵衛、真木保臣らの意見から遂に「諸隊同時に三道から進軍し、君家の寃を雪(そそ)ぐ可し」と決した。よって久坂らはここに水盃をして討死を覚悟した。追討総督の一橋慶喜は、先手となる伏見方面へは、大垣藩をして守らせ、彦根藩を二番手に布陣。桃山の要害は会津、桑名の両藩に守らせ、丸岡藩、小倉藩は山崎方面、鯖江藩、仁正寺、園部藩は豊後橋の警固につかせた。 元治元年8月30日(1864年9月30日)、朝彦親王へ『関東風聞書』を奉呈し幕府側の情勢を伝える。 元治元年9月2日(1864年10月2日)、朝彦親王より将軍・徳川家茂の上坂周旋を相談される。正厚は「上の者と相談する」旨を告げて帰った。 元治元年9月4日(1864年10月4日)、朝彦親王へ「土佐藩としては将軍・徳川家茂の上坂周旋は難しい。この件は朝彦親王より会津藩へご相談されますように」と返答。朝彦親王は、会津藩士・手代木直右衛門を呼びこの旨を相談し承諾を得た。 慶応元年4月19日(1865年5月13日)、朝彦親王へ紀貫之の真蹟の刷物を献上。 ゆえあって、同年8月23日(1865年10月12日)から9月7日(1865年10月26日)まで謹慎。
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禁門の変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:14 UTC 版)
1864(元治元)年3月25日江戸幕府第14代征夷大将軍・徳川家茂(当時18歳)の将軍後見職をしていた徳川慶喜(当時27歳)は、禁裏御守衛総督(今の皇宮警察長官)へ就任した。慶喜は水戸徳川家出身だったが、おくにもとにあたる水戸藩尊攘急進派の義勇軍・天狗党は、慶喜を主君と頼って、鎮圧を図る幕府軍の追手と抗戦しながら、越前国敦賀まで約千名の浪士らを率い進軍してきていた。慶喜はやはり御所へ向け入京を求め進軍してくる長州藩の尊攘急進派(進発勢)の大軍にまず対処しなければならなかった。 御所で将軍の藩屏をしていた京都守護職の会津藩や桑名藩の侍らの間では、長州進発兵をただちに武力排除する論が盛んだったが、慶喜ははじめ、「朝廷への嘆願」が目的と称し入京する者をみだりに武力行使するのは不可能だと固く制止していた。しかし日を経るに従って形勢が切迫してくると、7月18日御所から慶喜へすぐ参内するよう二条城に通達があった。9時ころ慶喜が衣冠し騎馬で3人ほどの従者と共に馳せいでると、途中ですでに軍備をしている兵士に会う事がしばしばあり、暴発が起きたのかと危惧しながら朝廷へ着いた。関白・鷹司輔煕以下の重臣が慶喜へ長州藩からの内密の上申書(密疏)を示すと、文章が長く全てを読み下す暇はなかったが末尾に「会津藩に天誅を加える」との字がみられたので、この一句をみれば足りる、と慶喜はただちに座を立ち、会津藩・桑名藩ら諸藩へ命令を下し、御所警備の兵隊を出した。19日午前4時頃、伏見で砲声がきこえると攻める長州藩兵と守る大垣藩兵とが開戦すると、慶喜は菊亭家に入って衣冠を小具足に改め、御所周囲を巡検した。下舘立売御門あたりで鉄砲で狙撃した者がいたため、慶喜はやむをえず御台所口から御所内へ引き入ったところ、公卿らが衣冠の上にたすきをかけ東奔西走し、甲冑をつけ抜き身の槍や刀などを携えた警備兵らが左右に徘徊しており、禁中の騒動はすでにただごとではなかった。慶喜はこの様に乱れていては仕方がないと一旦兵士らを御所内から追い出し、新たに部署を定め再配置した。そのとき孝明天皇は早くも慶喜が銃撃されたと聞くと酷く心を痛め、慶喜へ勅諚を与えた。慶喜はご覧のとおり無事な旨を申し上げ、ふたたび戦線にもどった。慶喜が御所の塀の外で指揮していると、急いでくるよう御所の中からしらせがあり、とりあえずもどってみると鷹司家に潜伏している長州藩兵が塀越しに打ち出す銃丸が「カツカツ」と時たま紫宸殿の高御座の軒端にあたっており、天皇の身に危険が迫っているのはいうまでもなく明らかだった。このとき長州加担派の公卿・裏松恭光をはじめとする堂上らが、しきりに長州兵と和睦すべきだと主張し、「万一玉体(天皇の体)にご異変があれば、禁裏御守衛総督たる職掌も立つまいに」などといった。慶喜は時勢が移れば長州への入京許可も朝廷から直接でるかもしれないものの、いまは一大事で、現実の天皇を守るに一刻の猶予もないと判断し、必死の覚悟を決めると心中で断然とその意見を退け、「玉体のご安全は確かにお請け合い申し上げます」と述べると、取り急ぎ裏松ら公卿の前を去って戦線にもどった。ちょうど正午ごろだったが、慶喜は戦線へもどるとすぐ会津藩・桑名藩兵と大砲方へ命じ鷹司家に火を放たせたため、ここに潜んで紫宸殿を正面から砲撃していた長州藩兵は死に絶えたり逃れたりしたりし、天皇へすぐそこまで迫った直接の危険をようやく除き得た。その後、慶喜は承明門を陣所に定め御所を警備していたが、20日午後3時ころ幕臣・糟屋義明が「支配向探索方(密偵)が十津川郷士一味の秘密会議を聴いたところ、今夜、鳳輦(ほうれん、天皇の行幸用の晴れの御輿)を奪って天皇を誘拐しようとする企てがあります」と慶喜へ秘密報告をした。同時にどこからか「十津川郷士らはすでに御所の中に入りこんでいます」と報告した者がいたので、慶喜は大変驚き、筑後守から会津・桑名両藩へ内々にしらせ、ひそかに衛兵を天皇のいる常御殿の塀外へおくりこんだ。慶喜はまた関白・鷹司輔煕へも十津川郷士勢の天皇誘拐計画を伝えておいた。夜が更け、慶喜が警備で御所に入ってみると天皇はまだ常御殿にいたが、その縁側にはすでに麻の裃を着た者数十人が入り込み、天皇誘拐用の1つの御輿を担ぎだし、御輿のそばでひざまづいていた。このため慶喜は急いで天皇へ事態を上奏すると紫宸殿へ移動してもらい、また会津・桑名藩兵を御庭内に繰りこませると、郷士らは誘拐に失敗したとみて御輿をかつぎ逃げ去った。あとから慶喜がきくところでは、御所の裏門の鍵がねじ切られており、そこから侵入されたように考えられ、また宮中にも彼らを手引きした者がいたと思われる節があった。慶喜はこのときが人生で死を覚悟したときの一つだったという。
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禁門の変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 14:30 UTC 版)
藩主松平容保の京都守護職就任に伴い、海老名は幕末の京へ赴く。禁門の変において功を挙げ使番へ昇進した。さらに大砲隊組頭へ進んでいる。
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