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やまだ-あきよし 【山田顕義】

(1844-1892) 軍人政治家長州藩士。佐賀の乱西南戦争鎮定の功により中将となった。以後政界転じて司法卿法相歴任刑法はじめ法典編纂(へんさん)尽力。また、日本法律学校(現、日本大学)を創設


近代日本人の肖像

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山田顕義 やまだ あきよし

山田顕義の肖像 その1
山田顕義の肖像 その2

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山田顕義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/05 14:40 UTC 版)

山田 顕義[1](やまだ あきよし、天保15年10月9日1844年11月18日) - 明治25年(1892年11月11日)は、日本武士長州藩士)、政治家陸軍軍人通称は市之允、は顕孝、のち顕義と改めた。位階勲等は陸軍中将正二位勲一等爵位伯爵。初代司法大臣

「日本の小ナポレオン」といわれ、明治維新期の軍人として新政府に貢献するとともに、新日本の建立者として、近代日本の法典整備に力を尽くした。

また、山田自らが所長を務めた皇典講究所においては、日本法律学校(後の日本大学)、國學院(後の國學院大學)を創設しており、とりわけ日本大学は彼を学祖としている。




  1. ^ 学術誌、研究書、文部科学省検定教科書における歴史人物としての表記は「山田顕義」、新聞報道や『職員録』など存命中の印刷物における表記は「山田顯義」、御署名原本(法令などの天皇署名の原本)における山田本人の署名は「山田顕義」である。
  2. ^ 山田本人が明治政府に提出した『履歴書』では「長門国阿武郡松本村」と記している
  3. ^ 実際には8月まで募兵は続いている
  4. ^ 実情は大津事件で犯人を死刑に処せとの明治天皇の指示に副えなかった責任をとっての辞任であった
  5. ^ 死因は脳溢血と見られている。
  6. ^ 高木俊朗によればその死は花谷正に強要された自決である。


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