第1次伊藤内閣
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第1次伊藤内閣(だいいちじ いとうないかく)は、参議の伊藤博文が第1代内閣総理大臣に任命され、1885年(明治18年)12月22日から1888年(明治21年)4月30日まで続いた日本の内閣。
注釈
出典
- ^ 『官報』第744号「叙任」、明治18年12月22日
- ^ a b c d 『官報』第1169号「叙任及辞令」、明治20年9月19日
- ^ a b 『官報』第1375号「叙任及辞令」、明治21年2月2日
- ^ a b 『官報』第1123号「叙任及辞令」、明治20年7月27日
- ^ a b 農商務省『農商務省沿革略誌. 〔第1編〕』農商務省、1892年、142頁。
- ^ 『官報』第809号「叙任」、明治19年3月17日
- ^ a b 農商務省『農商務省沿革略誌. 〔第1編〕』農商務省、1892年、120頁。
- ^ 『官報』第1161号「叙任及辞令」、明治20年5月16日
- ^ a b 『官報』第745号「達」、明治18年12月23日、斎藤和太郎『政府大改革之顛末 上編』静岡大務新聞社、1886年、72頁。
- ^ a b 『官報』第1381号「叙任及辞令」、明治21年2月9日
- ^ 『明治・大正の宰相 第1巻 伊藤博文と維新の元勲』 戸川猪佐武著 講談社 単行本で pp.264-265、憲法調査団の渡欧(以下、部分引用)
とにかく政府は、憲法制定の準備と、解説すべき国会の態様の検討を、急ぐ必要があった。
そのために、参事院なるものを、法律制定の府として新設した。この参事院議長に選ばれたのは、伊藤であった。木戸、大久保が没し、大隈が追放されたあと、伊藤が政治の実力者になるのは、趨勢(すうせい)であった。重大な憲法制定、国会開設の責任者として、伊藤以外に選ぶべき人物はいなかった。
これを機会として、のちのち明治憲法の作成、制定は、伊藤を中心に運ばれることになる。この伊藤に対して、新政府がヨーロッパ派遣のことを取り決めたのは、十五年(一八八二)二月のことであった。
もっとも、このときすでに伊藤は、井上をブレーンとし、ヨーロッパに行って勉強をしなければならない調査事項三十一項目を、取り決めていた。これは、太政大臣の三条実美が、伊藤に三十一項の調査事項を託するというかたちがとられた。この調査事項なるものをみれば、のちのち制定される明治憲法のポイントが明らかである。
「皇室の諸特権のこと」
「内閣大臣と上下両院とのあいだに存する諸関係のこと」
「貴族の制度、特権のこと」
「上院および下院の開閉、解散ならびに停会のこと」
「上下両院議員の資格ならびに選挙法のこと」
「各省と上下両院とのあいだに存する諸関係のこと」
これらの調査を行うために、伊藤は三月十四日、ヨーロッパに出発した。このときの随員は、山崎直胤(やまざきなおたね、太政官大書記官)、伊東巳代治(いとうみよじ、参事院議官補、同書記官)、川島醇(かわしまあつし、大蔵権大書記官)、平田東助(ひらたとうすけ、大蔵権少書記官)、吉田正春(外務少書記官)、三好退蔵(司法少判事)。それに制度取調員という資格で、西園寺公望、岩倉具定(いわくらともさだ、岩倉具視の子)、広橋賢光(ひろはしまさみつ)などが随行した。 - ^ 鈴木、P328 - P332、伊藤、P204 - P207、瀧井、P69 - P71、清水、P150 - P171、P184 - P189。
- ^ 本山、P168 - P172、P193 - P199、P203 - P208、P213 - P240、鈴木、P328 - P336。
- ^ 鈴木、P87 - P120、P193 - P196、P320 - P321、松元、P94 - P140。
- ^ 鈴木、P284 - P伊藤、P212 - P216、犬塚、P138 - P142、P158 - P171、P180 - P188、P197 - P200、P203 - P207。
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