尊王攘夷運動
読み方:ソンノウジョウイウンドウ(sonnoujouiundou)
尊王攘夷
尊王攘夷運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 03:01 UTC 版)
安政6年(1859年)10月、安政の大獄によって松陰が刑死した。 文久元年(1861年)12月、玄瑞は、松下村塾生を中心とした長州志士の結束を深めるため、一灯銭申合を創った(参加者は桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊輔、山縣有朋ら24名)。 文久元年頃から玄瑞と各藩の志士たちと交流が活発となり、特に長州、水戸、薩摩、土佐の四藩による尊攘派同盟の結成に向けて尽力し、尊王攘夷運動、反幕運動の中心人物となりつつあった。 文久元年初めから藩論は、長井雅楽の「航海遠略策、公武合体」に傾きつつあり、5月23日、藩主は長井に、朝廷に参内させ攘夷論の朝廷を説得せしめることに成功した。しかし、これに対し玄瑞は以下の観点から反駁した。 一点目は経済の観点から、「今の通商は亡国への道である。売るものがなく、買うばかりの一方的な貿易で年々多くの国幣を失っている。物価は高騰し、国民は塗炭の苦しみの中にある。貿易を盛んにする前に、国産の開発が大いになされなければならない」。 二点目は幕府を助けることのみに終わるという観点から、「最終的には我が国は海外へ出ていかなければならないのはわかっている。先師(松陰)の考えもそうだった。だが、それが幕府を助け天朝を抑えることになってはならない。いずれは万里の外へ航海に乗り出す策を立てねばならないのは当然だ。しかし、今回対馬を占領されており、これだけの凌辱を受けながら、その罪も正さず、頭を垂れて尻尾を振って、航海に乗り出しても武威の高まることはないと思う。先日、佐久間象山を訪ねたが、同じ航海説でも「力を計り勝ちを計る」という考えで、大人物かつ発想に秀でており、戦を恐れて航海を唱える者と同じ土俵で論ずるべきではない」。 玄瑞は長井に何度を議論を挑み、また藩主への具申をしたが、藩論は覆ることはなかった。文久元年、公武合体の考えに沿うように和宮の降嫁が実現した。 このような中、玄瑞は全国の「草莽の志士糾合」に賭けざるを得なくなる。文久2年(1862年)正月14日、坂本龍馬が剣道修行の名目で、武市半平太の書簡を携え、玄瑞との打ち合わせのため萩へ来訪した。馬関の豪商白石正一郎と結び、白石宅をアジトにして、薩摩の西郷隆盛、土佐の吉村寅太郎、久留米、筑前の志士たちとも謀議を重ねた。松門の同志は血盟を交わし、桂小五郎は、繰り返し藩主親子、藩の重臣たちに、長井雅楽弾劾を具申し続けた。4月、玄瑞は同志と共に上京し、長井の弾劾書を藩に提出する。6月、玄瑞は長井要撃を試みるが襲撃の時機を逸したため、藩に長井への訴状も兼ねて待罪書を提出するも、京都にて謹慎となる。しかし、桂小五郎らは攘夷をもって幕府を危地に追い込む考えで、藩主・毛利敬親に対し攘夷を力説し、7月6日、長井失脚に成功した。
※この「尊王攘夷運動」の解説は、「久坂玄瑞」の解説の一部です。
「尊王攘夷運動」を含む「久坂玄瑞」の記事については、「久坂玄瑞」の概要を参照ください。
尊王攘夷運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 00:51 UTC 版)
長州藩では、晋作の渡航中に俗論派の長井雅楽らが失脚、尊王攘夷(尊攘)派が台頭し、晋作も桂小五郎(木戸孝允)や久坂義助(久坂玄瑞)らとともに尊攘運動に加わり、江戸・京都において勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流した。 文久2年(1862年)、晋作は「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば」と論じていた。折りしも、外国公使がしばしば武州金澤(金沢八景)で遊ぶからそこで刺殺しようと同志(高杉晋作、久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、志道聞多、松島剛蔵、寺島忠三郎、有吉熊次郎、赤禰幹之丞、山尾庸三、品川弥二郎) が相談した。しかし玄瑞が土佐藩の武市半平太に話したことから、これが前土佐藩主・山内容堂を通して長州藩世子・毛利定広に伝わり、無謀であると制止され実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる。 この過程で、長州藩と朝廷や他藩との提携交渉は、もっぱら桂や久坂が担当することとなる。文久2年12月12日には、幕府の違勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。この事件の後、他の同志たちが次々と京都に向かうなか、晋作はそのまま江戸に居座り松蔭改葬などを済ませたが、京都にいる世子の命を受けた志道聞多が晋作を迎えに来て共に京都に向かった。京都に呼び寄せられた晋作は、藩が晋作に就かせようと考えていた朝廷側との交渉役である学習院用掛の役を辞退し、突然十年の暇を願い出た。それが許されると翌日には頭を丸めて僧形になってしまった。このとき晋作は「西へ行く人をしたひて東行くわが心をば神やしるらむ」と詠み、東行(とうぎょう)と号した。その後萩に帰り吉田松陰の生誕地である松本村にある小さな借家に妻と女中1人を引き連れて引っ越した。
※この「尊王攘夷運動」の解説は、「高杉晋作」の解説の一部です。
「尊王攘夷運動」を含む「高杉晋作」の記事については、「高杉晋作」の概要を参照ください。
「尊王攘夷運動」の例文・使い方・用例・文例
- 尊王攘夷運動という政治運動
- 尊王攘夷運動のページへのリンク