長州奇兵隊とは? わかりやすく解説

長州奇兵隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 06:13 UTC 版)

奇兵隊」の記事における「長州奇兵隊」の解説

長州藩奇兵隊長州藩諸隊呼ばれる常備軍1つである。 奇兵隊などの諸隊文久3年1863年)の下関戦争の後に藩に起用され高杉晋作らの発案によって組織され戦闘部隊で、これら諸隊編制訓練には、高杉らが学んだ松下村塾の塾主・吉田松陰の『西洋歩兵論』などの影響があると指摘されている。当初外国艦隊からの防備主目的で、本拠地廻船問屋白石正一郎邸に置かれた。本拠地はのちに赤間神宮へ移る。奇兵隊結成される数多く藩士以外のからなる部隊編制され長州藩諸隊総称される同年奇兵隊士が撰鋒隊と衝突した教法寺事件責め負い高杉総督更迭された。その後河上弥市と滝弥太郎両人奇兵隊第2代総督継ぎ第3総督赤禰武人、その軍監山縣狂介務めた同年には、京都八月十八日の政変勃発し朝廷から長州勢力追放される。 翌元治元年1864年)、新選組捕らえられ拷問されていた古高俊太郎救済するため池田屋集まっていた各地志士たちが当の新撰組会津藩桑名藩によって突如襲撃され池田屋事件により、長州藩では吉田稔麿杉山松助11名が犠牲となったため、長州藩では卒兵上京してでも朝廷誤解を解くべきという来島又兵衛らの勢力抑えられなくなった来島又兵衛久坂義助久坂玄瑞)らが率い先方隊約1000名が世子毛利定広率い本隊2000名の大阪上陸押し留め藩主父子雪冤せつえん)を嘆願し行った結果会津藩桑名藩軍勢に対して優勢であったものの、援軍として加わった薩摩藩により形勢逆転され来島又兵衛被弾戦死久坂義助久坂玄瑞)・寺島忠三郎嘆願果たせ鷹司家邸内自裁長州勢は総崩れとなって退却し大阪湾瀬戸内海経由で帰藩した。この禁門の変により、長州藩禁裏侵したとして「朝敵」とされた。幕府は「朝敵」とした長州藩を更に征伐するため、第一次長州征伐宣言する長州藩は、3家老自裁により第一次長州征伐戦禍未然防いだものの、椋梨藤太乃美織江などの俗論派政権長州正義派志士たちを粛正し始めたため、それを聞きつけた高杉晋作亡命であったにも拘わらず帰藩し、諸隊決起求め功山寺挙兵決行し絵堂会戦等で高杉正義派勝利して俗論派一掃し長州藩主導権握った。 これらの結果長州藩方針破約攘夷倒幕定まる破約攘夷は、異勅だった1858年不平等条約を完全撤廃した1911年に完全成就し倒幕は、1867年大政奉還から1869年戊辰戦争終了にかけて完全成就する)。

※この「長州奇兵隊」の解説は、「奇兵隊」の解説の一部です。
「長州奇兵隊」を含む「奇兵隊」の記事については、「奇兵隊」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「長州奇兵隊」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「長州奇兵隊」の関連用語

長州奇兵隊のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



長州奇兵隊のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの奇兵隊 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS