八月十八日の政変
八月十八日の政変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 06:52 UTC 版)
大和で天誅組が挙兵した直後、京では政局が一変していた。会津藩、薩摩藩と気脈を通じた中川宮が尊攘派の排除を図り、孝明天皇を動かして政変を起こした(八月十八日の政変)。これにより、大和行幸の延期と三条実美ら攘夷派公卿の参朝禁止、長州藩の御門警護解任が決定された。これらの決定は会津藩ら諸藩兵により御所を封鎖した上で行われ、宮門に駆けつけた長州藩兵との間で一触即発の事態になる。結局、長州藩は武力衝突を避けて撤退、攘夷派公卿は官位を剥奪されて失脚し、朝廷の実権は公武合体派が握ることになった。孝明天皇は攘夷の実行を望んではいたが、妹和宮を将軍家茂に降嫁させるなど公武合体の思考であったため、武力倒幕を主張する長州藩や急進的な公卿の活動を快く思っていなかった。このため、大和行幸・攘夷親征の詔勅は天皇の真意ではない偽勅であったとされ、大和行幸の先鋒として挙兵した天誅組は、その活動を正当化する根拠を失った。 18日夜、平野国臣が制止の使者として天誅組の本陣がある桜井寺に入ったが、元々武力倒幕を志向していた平野は目的に反して天誅組に同調し、襲撃の成功を祝ってその報告のため京都に戻ることとなった。しかし、翌19日、在京していた古東領左衛門から京での政変が伝えられ、天誅組が暴徒として追討の命が下されたことが明らかとなる。忠光らは協議を行い、京の政変は会津や薩摩などの逆臣による策謀であり、一時的なものと予測し、倒幕の軍事行動を継続することとなった。20日、本陣を要害堅固な天の辻へ移し、周辺の村から人足や物資を徴発して戦闘準備を整えた。天誅組は「御政府」の名で近隣から武器兵糧を集め、松の木で大砲十数門をつくったが、その装備は貧弱なものだった。吉村虎太郎は古来尊王の志の厚いことで知られる十津川郷士に募兵を働きかけることとし、郷士・野崎主計らと会談した。十津川郷では京の政変をまだ知らず、郷の幹部は天誅組の勤皇活動に賛同し、十津川郷内59カ村から約1000人が集まった。しかし、郷士の中には勅命の真偽に疑問を持ち、天誅組の行動に賛同しない者もおり、作戦に抗議した玉堀為之進ら郷士数名は天の辻で斬首されている。 また高野山金剛峯寺にも協力を要請する使者を送ったが、高野山では協力を約束しながらも紀州藩に通報した。 なお、この政変により、吉村や那須が師事していた土佐勤王党の盟主・武市瑞山も9月21日に捕縛される。
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八月十八日の政変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:28 UTC 版)
8月13日、大和行幸の詔が発せられる。しかしこれは真木和泉による討幕のための偽勅であり、長州藩はすでに錦旗・武器を準備し、有力六藩に対し軍用金を醵出させる勅命(偽勅)も発せられる。容保は驚愕し、急ぎ公武合体派の中川宮に奏請、近衛前関白・二条右大臣の賛成を取り付ける。 8月16日、中川宮はひそかに参内して奸臣を除く議を奏上。同日、孝明天皇より「国家の害を除くべし。容保に命を伝えよ」との真勅が下る。 8月17日夜半、会津、薩摩、その他4藩にて御所九つの門を固め、翌朝事態に気づき出動した長州藩との激論にらみ合いになる。 戦に慣れぬ宮廷内も大騒ぎとなり「長州兵は3万」という流言も飛び交い震えあがったが、孝明天皇は「全て容保に任す」と言い、容保は落ち着いた様子で「敵が何万居ようと我等会津の精鋭にて一挙に殲滅仕ります」と場を鎮めたという。結果、七卿落ちとなり、謹慎蟄居を命じられた三条実美を始めとする過激攘夷派の七卿は逃亡し、京から離れた。 8月19日、休まず御所を守護していた容保へ、孝明天皇は特にその労を思し召され「引いて休むように。黒谷では遠いので施薬院を仮の住居にあてよ」とされた。それから容保は毎日参内ししばし朝議にも参画し、時には徹夜になるなど万一に備え力をつくし報じた。 8月26日、過激派公卿や浪士から「18日以前の勅諚こそ真の叡慮で、その後のものは中川宮、肥後守などの奸臣が勝手に作った偽勅である」との宣言があり、これに悩まされた孝明天皇は「18日以前の勅命は預かり知らぬ。今後の勅命こそ真の朕の存意に候間、諸藩一同にも心得違いあるべからず」と発した。 10月9日、孝明天皇より宸翰ならびに御製2首を賜る。(後述)「公卿達が暴論をつらね、その不正や増長は耐え難く、その方へ内命を下したところ速やかな憂患掃攘と朕の存念貫徹の段、全くその方の忠誠にて、深く感悦の余り…」と天皇は容保の忠誠を称えた。 10月11日、朝廷より将軍家の再度上洛の勅書が容保に伝えられ、家臣小室当節にこれを持たせ東下させたが、幕府は鎖港商議を理由に辞退する。 10月29日、さらなる将軍家上洛の勅書を賜る。容保は「公武御一和の天下の大策を立てられたき厚き叡念の御次第」と建言を添え家臣柴田太一郎にこれを持たせ、さらに詳しく書面を老中に送って早急な上洛を勧めた。 11月29日、一橋慶喜、松平春嶽らとともに朝議参与を命じられる。しかしこれはもともと容保の素志ではなく、また伝奏・議奏と相対峙し、政令が二途に出るという弊害が生じたため、翌年3月には辞退した。 12月15日、公武合体派の中心である中川宮は天皇の厚い信認を受けていたが、浮浪の徒がこれを除こうと策を按じ「中川宮は関東の兵力を利用し天位につく野心がある」と流言した。容保は「このような児戯は天皇の心を動かすに足らない」と知ってはいたが、噂の力を恐れ書を奉っている。「宮の日月を貫かせられ候御高義、御忠誠は、臣ら社稷に換え死を誓って奏上し奉るべく候」 12月、この頃、孝明天皇の島津へ残している手紙から天皇の意思と方向性が確認でき、容保と天皇が意思疎通させていたことがうかがえる。以下宸翰より抜粋。 一つ、攘夷の一件、今更申すまでもなく、神明神州に盟って皇国の輝照を汚穢せず、永代限りなく万民の快楽のみを存慮候より、従来数度申し出で候えども、なにぶん年久しき治世にて、武備充実せずしては無理の戦争に相成り、真実、皇国のためとも存ぜられず。 一つ、関東への委任と王政復古との両説これあり。これも暴論の輩、復古を深く申し張り、種々計略をめぐらし候えども、朕に於ては好まず、初発より不承知を申し居り候。いずれにも大樹(将軍)へ委任の所存に候。いずくまでも公武は手を引き、和熟の治国に致したく候。深く心得もらいたく候。 一つ、幕府に従う者は、深く勤王尊奉の道を相立て候えば、万民、幕府をやはり尊ぶの道理にて、欣悦これにすぎず候事。 一つ、八月十八日脱走の実美以下七人は、じつもって暴激、私情のみの人体、従来苦心し候ところ、すでに脱走後も種々の姦策をめぐらし、じつもって害の基に候えば、きっと厳重の所置に致したく存じ候。なにぶん大胆の輩ゆえ厳重になくてはいかがかと深く存じ候。復職などの沙汰もこれあるやながら、決してなるまじく候。 12月30日、一橋慶喜、松平春嶽らとともに朝議参与を命じられる。
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