八月十八日の政変とは? わかりやすく解説

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八月十八日の政変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/06 01:50 UTC 版)

八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)とは、江戸時代末期1863年9月30日文久3年8月18日)に発生した政変




「八月十八日の政変」の続きの解説一覧

八月十八日の政変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 06:52 UTC 版)

天誅組の変」の記事における「八月十八日の政変」の解説

大和天誅組挙兵し直後、京では政局一変していた。会津藩薩摩藩気脈を通じ中川宮尊攘派排除図り孝明天皇動かして政変起こした(八月十八日の政変)。これにより、大和行幸延期三条実美攘夷派公卿参朝禁止長州藩御門警護解任決定された。これらの決定会津藩諸藩兵により御所封鎖した上で行われ宮門駆けつけ長州藩兵との間で一触即発事態になる。結局長州藩武力衝突避けて撤退攘夷派公卿官位剥奪され失脚し朝廷実権公武合体派握ることになった孝明天皇攘夷実行望んではいたが、妹和宮将軍家茂に降嫁させるなど公武合体思考であったため、武力倒幕主張する長州藩急進的な公卿活動快く思っていなかった。このため大和行幸攘夷親征詔勅天皇真意ではない偽勅であったとされ、大和行幸先鋒として挙兵し天誅組は、その活動正当化する根拠失った18日夜、平野国臣制止使者として天誅組本陣がある桜井寺入ったが、元々武力倒幕志向していた平野目的反して天誅組同調し襲撃成功祝ってその報告のため京都に戻ることとなった。しかし、翌19日在京していた古東領左衛門から京での政変伝えられ天誅組暴徒として追討の命が下されたことが明らかとなる。忠光らは協議行い、京の政変会津薩摩などの逆臣による策謀であり、一時的なもの予測し倒幕軍事行動継続することとなった20日本陣要害堅固天の辻へ移し周辺から人足物資徴発して戦闘準備整えた天誅組は「御政府」の名で近隣から武器兵糧集め松の木大砲十数門をつくったが、その装備貧弱なのだった吉村虎太郎古来尊王の志の厚いことで知られる十津川郷士募兵働きかけることとし郷士野崎主計らと会談した十津川郷では京の政変をまだ知らず、郷の幹部天誅組勤皇活動賛同し十津川郷59から約1000人が集まった。しかし、郷士中には勅命真偽疑問持ち天誅組行動賛同しない者もおり、作戦抗議した玉堀為之進ら郷士数名天の辻で斬首されている。 また高野山金剛峯寺にも協力要請する使者送ったが、高野山では協力約束しながらも紀州藩通報した。 なお、この政変により、吉村那須師事していた土佐勤王党盟主武市瑞山9月21日捕縛される

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八月十八日の政変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:28 UTC 版)

松平容保」の記事における「八月十八日の政変」の解説

8月13日大和行幸の詔が発せられる。しかしこれは真木和泉による討幕のための偽勅であり、長州藩はすでに錦旗武器準備し、有力六藩に対し軍用金醵出させる勅命(偽勅)も発せられる。容保は驚愕し急ぎ公武合体派中川宮奏請近衛関白二条右大臣賛成取り付ける8月16日中川宮ひそかに参内して奸臣を除く議を奏上同日孝明天皇より「国家の害を除くべし。容保に命を伝えよ」との真勅が下る。 8月17日夜半会津薩摩、その他4藩にて御所九つの門を固め翌朝事態気づき出動した長州藩との激論にらみ合いになる。 戦に慣れぬ宮廷内も大騒ぎとなり「長州兵は3」という流言飛び交い震えあがったが、孝明天皇は「全て容保に任すと言い、容保は落ち着いた様子で「敵が何居よう我等会津精鋭にて一挙に殲滅仕ります」と場を鎮めたという。結果七卿落ちとなり、謹慎蟄居命じられ三条実美始めとする過激攘夷派七卿逃亡し、京から離れた8月19日休まず御所守護していた容保へ、孝明天皇は特にその労を思し召され引いてむように黒谷では遠いので施薬院を仮の住居にあてよ」とされた。それから容保は毎日参内ししばし朝議にも参画し、時には徹夜になるなど万一備え力をつくし報じた8月26日過激派公卿浪士から「18日以前勅諚こそ真の叡慮で、その後のものは中川宮肥後守などの奸臣勝手に作った偽勅である」との宣言があり、これに悩まされ孝明天皇は「18日以前勅命預かり知らぬ今後勅命こそ真の朕の存意に候間、諸藩一同に心得違いあるべからず」と発した10月9日孝明天皇より宸翰ならびに御製2首を賜る。(後述)「公卿達が暴論をつらね、その不正や増長は耐え難くその方内命下したところ速やかな憂患掃攘と朕の存念貫徹の段、全くその方忠誠にて、深く感悦余り…」と天皇は容保の忠誠称えた10月11日朝廷より将軍家再度上洛勅書が容保に伝えられ家臣小室当節にこれを持たせ東下させたが、幕府鎖港商議理由辞退する10月29日さらなる将軍家上洛勅書賜る。容保は「公武一和天下の大策を立てられたき厚き叡念の御次第」と建言添え家臣柴田太一郎にこれを持たせさらに詳しく書面老中送って早急な上洛勧めた11月29日一橋慶喜松平春嶽とともに朝議参与命じられる。しかしこれはもともと容保の素志ではなく、また伝奏議奏相対峙し、政令二途に出るという弊害生じたため、翌年3月には辞退した12月15日公武合体派中心である中川宮天皇の厚い信認受けていたが、浮浪の徒がこれを除こうと策を按じ「中川宮関東兵力利用し天位につく野心がある」と流言した。容保は「このような児戯天皇心を動かす足らない」と知ってはいたが、噂の力を恐れ書を奉っている。「宮の日月を貫かせられ候御高義、御忠誠は、臣ら社稷換え死を誓って奏上し奉るべく候12月この頃孝明天皇島津残している手紙から天皇意思方向性確認でき、容保と天皇意思疎通させていたことがうかがえる。以下宸翰より抜粋一つ攘夷一件今更申すまでもなく、神明神州に盟って皇国の輝照を汚穢せず、永代限りなく万民快楽のみを存慮候より、従来数度申し出で候えども、なにぶん年久しき治世にて、武備充実せずしては無理の戦争相成り真実皇国ためとも存ぜられず。 一つ関東への委任王政復古との両説これあり。これも暴論の輩、復古深く申し張り種々計略めぐらし候えども、朕に於ては好まず初発より不承知申し居り候。いずれにも大樹将軍)へ委任所存に候。いずくまでも公武手を引き和熟治国致したく候。深く心得らいたく候。 一つ幕府に従う者は、深く勤王尊奉の道を相立て候えば、万民幕府をやはり尊ぶ道理にて、欣悦これにすぎず候事。 一つ八月十八脱走の実美以下七人は、じつもって暴激、私情のみの人体従来苦心し候ところ、すでに脱走後種々の姦策めぐらしじつもって害の基に候えば、きっと厳重の所置に致した存じ候。なにぶん大胆の輩ゆえ厳重になくてはいかがかと深く存じ候。復職などの沙汰もこれあるやながら、決してなるまじく候。 12月30日一橋慶喜松平春嶽とともに朝議参与命じられる

※この「八月十八日の政変」の解説は、「松平容保」の解説の一部です。
「八月十八日の政変」を含む「松平容保」の記事については、「松平容保」の概要を参照ください。

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