たけち‐ずいざん【武市瑞山】
武市瑞山
武市瑞山
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武市 瑞山(たけち ずいざん、文政12年9月27日〈1829年10月24日〉- 慶応元年閏5月11日〈1865年7月3日〉)は、幕末の志士、土佐藩郷士。土佐勤王党の盟主。通称の武市 半平太(たけち はんぺいた)で称されることも多い。
注釈
- ^ 題詞は「花依清香愛 人以仁義栄 幽囚何可耻 只有赤心明」。本作は、半平太の子孫が高知県立歴史民俗資料館に寄贈した(京都国立博物館編集 『特別展覧会 坂本龍馬生誕170年記念 龍馬の翔けた時代 ─その生涯と激動の幕末─』 京都新聞社、2005年7月、p.252。なお同図録には、半平太筆「椿美人図」(財団法人角屋保存会蔵)も掲載されている(p.227、281)。
- ^ 横田がこれらの研究の成果を平尾道雄、海音寺潮五郎に報告したところ、平尾からは「正論。大いに吹聴すべし」、海音寺からは「武市半平太の暗きイメージ、払拭されたり」との評価を得たとされ、今日においては、半平太から以蔵に毒が送られることは無かったという見方が通説となってきている。
- ^ 半平太の絵は、『近世土佐の美術』(高知県立美術館編集・発行、2001年11月、p.117)や『極彩の闇 絵金』(高知県立美術館監修、2012年10月)などに掲載されている。また、瑞山記念館にも美人画や「童女遊戯図」が展示されている。
出典
- ^ 上士待遇
- ^ a b c 板垣退助の婿の伯父と、武市瑞山の叔母の娘が婚姻
- ^ 松岡司『武市半平太伝』p21
- ^ 入交好脩『武市半平太』p25
- ^ 『維新土佐勤王史』p36
- ^ 入交好脩『武市半平太』p26
- ^ 入交好脩『武市半平太』p26-27
- ^ 入交好脩『武市半平太』p27
- ^ 安政4年8月17日付武市半平太書簡。『坂本龍馬歴史大事典』p343
- ^ 入交好脩『武市半平太』p28-29
- ^ 松岡司『武市半平太伝』p27
- ^ 『維新土佐勤王史』p61-62
- ^ 飛鳥井雅道『坂本龍馬』p122-123
- ^ 『維新土佐勤王史』p63
- ^ 『維新土佐勤王史』p63-66
- ^ 半平太会『維新土佐勤王史』p64
- ^ 『維新土佐勤王史』p68-69
- ^ 入交好脩『武市半平太』p43
- ^ 『維新土佐勤王史』p74
- ^ 『幕末土佐の群像』p62
- ^ 『維新土佐勤王史』p70-72
- ^ 『幕末諸隊録』p60
- ^ 松浦玲『坂本龍馬』p17-18
- ^ 入交好脩『武市半平太』p49
- ^ 『維新土佐勤王史』p85
- ^ 『維新土佐勤王史』p91-92
- ^ 『維新土佐勤王史』p108
- ^ 『維新土佐勤王史』p113
- ^ 『維新土佐勤王史』p113-114
- ^ 入交好脩『武市半平太』p69
- ^ 飛鳥井雅道『坂本龍馬』p162
- ^ 入交好脩『武市半平太』p78-79
- ^ 『官武通紀』。入交好脩『武市半平太』p79
- ^ 入交好脩『武市半平太』p81
- ^ 松岡司『武市半平太伝』p76
- ^ 松岡司『武市半平太伝』p78
- ^ 入交好脩『武市半平太』p87-95
- ^ 松岡司『武市半平太伝』p90-102
- ^ 瑞山会『維新土佐勤王史』p178-182
- ^ 入交好脩『武市半平太』p101
- ^ 入交好脩『武市半平太』p104
- ^ 松岡司『武市半平太伝』p150-151
- ^ 瑞山会『維新土佐勤王史』p341-343
- ^ 『武市瑞山関係文書(1)』
- ^ 勇猛・悲壮 辞世の句150 戦国武将・維新志士・帝国軍人…日本男児が遺した最後の言葉!p.140 DIA Collection
- ^ 松岡司『武市半平太伝』p359
- ^ a b 『詔勅類纂祝辞演説一千題』内山正如編、東京博文館、明治25年(1892年)4月25日
- ^ 『千賀覚書』
- ^ 『板垣退助君傳記』
- ^ 松岡司『武市半平太伝』p361-364
- ^ 有限会社生活創造工房『瑞山記念館』(2011年)
- ^ 産経ニュース『結婚後も描く?武市半平太の美人画見つかる 高知で初公開』(2011年5月11日)
- ^ 松岡司『武市半平太伝』p335
- ^ 『勤王秘史佐佐木老侯昔日談』
- ^ 『月刊歴史百科』創刊号(1980年)
- 1 武市瑞山とは
- 2 武市瑞山の概要
- 3 伝記の編纂とその後
- 4 人物
- 5 評価
- 6 子孫
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