土佐勤王党
土佐勤王党
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文久元年(1161年)、武市瑞山は島村衛吉らを伴い、善之丞のもとを訪ね土佐勤王党に対する賛意を募ると、上士の加盟者が少なかった中で、善之丞は「今こそ、天下のために起つべき時である。善之丞は老骨ながら援助を惜しまない」と瑞山を激励。
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土佐勤王党
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土佐藩では、江戸幕府からの黒船問題に関する各藩への諮問を機に藩主の山内豊信(容堂)が吉田東洋を参政に起用して、意欲的な藩政改革に取り組んでいた。また、容堂は水戸藩主・徳川斉昭、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城らとともに将軍継嗣問題では一橋慶喜を推戴して幕政改革をも企図していた。しかし、安政5年(1858年)4月に井伊直弼が幕府大老に就任すると、幕府は一橋派を退けて徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に定め、開国を強行して反対派の弾圧に乗り出した(安政の大獄)。一橋派の容堂も安政6年(1859年)2月に家督を養子・山内豊範に譲り、隠居を余儀なくされた。隠居謹慎したものの藩政の実権は容堂にあり、吉田東洋を中心とした藩政改革は着々と進められた。 安政7年(1860年)3月3日、井伊直弼が江戸城へ登城途中の桜田門外で水戸脱藩浪士らの襲撃を受けて暗殺される(桜田門外の変)。事件が土佐に伝わると、下士の間で議論が沸き起こり尊王攘夷思想が土佐藩下士の主流となった。 同年7月、龍馬の朋友であり、親戚でもある武市半平太が、武者修行のために門人の岡田以蔵、久松喜代馬、島村外内らとともに土佐を出立した。龍馬は「今日の時勢に武者修行でもあるまい」と笑ったが、実際は西国諸藩を巡って時勢を視察することが目的であった。一行はまず讃岐丸亀藩に入り、備前、美作、備中、備後、安芸、長州などを経て九州に入り、途中で龍馬の外甥の高松太郎と合流している。 文久元年(1861年)3月、土佐で井口村刃傷事件(永福寺事件)が起こり、下士と上士の間で対立が深まった。『維新土佐勤王史』にはこの事件について「坂本等、一時池田の宅に集合し、敢て上士に対抗する気勢を示したり」とある。 件の当事者で切腹した池田虎之進の介錯を龍馬が行って、その血に刀の下緒を浸しながら下士の団結を誓ったという逸話が流布しているが、これは坂崎紫瀾の小説『汗血千里駒』のフィクションである。 同年4月、武市半平太は江戸に上り、水戸・長州・薩摩などの諸藩の藩士と交流を持った。土佐藩の勤王運動が諸藩に後れを取っていることを了解し、武市は長州の久坂玄瑞、薩摩の樺山三円と各藩へ帰国して藩内同志の結集を試み、藩論をまとめこれをもって各藩の力で朝廷の権威を強化し、朝廷を助けて幕府に対抗することで盟約を交わした。これにより同年8月、武市は江戸で密かに少数の同志とともに「土佐勤王党」を結成し、盟曰(めいえつ)を決めた。 武市は土佐に戻って192人の同志を募り、龍馬は9番目、国元では筆頭として加盟した。武市が勤王党を結成した目的は、これを藩内勢力となして、藩の政策(主に老公山内容堂の意向)に影響を与え、尊王攘夷の方向へ導くことにあった。 勤王党結成以来、武市は藩内に薩長二藩の情勢について説明をするのみならず、土佐もこれに続いて尊王運動の助力となるべきと主張した。しかし、参政吉田東洋をはじめとした当時の藩政府は「公武合体」が藩論の主要な方針であり、勤王党の尊王攘夷の主張は藩内の支持を得ることができなかった。
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