しょうぎ‐たい〔シヤウギ‐〕【彰義隊】
彰義隊
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彰義隊(しょうぎたい)は、幕末期の1868年(慶応4年)、江戸幕府の征夷大将軍であった徳川慶喜の警護などを目的として渋沢成一郎や天野八郎らによって結成された部隊。江戸幕府より江戸市中取締の任を受け、江戸の治安維持を行ったが、戊辰戦争の一環である上野戦争で明治新政府軍に敗れて解散した。
- ^ 慶応4年5月7日(1868年6月26日)午後だけで以下の3事件が起きたことが『復古記』に記載されている。
- 同夕方、根岸付近で薩摩藩兵3人が彰義隊士8人~9人と遭遇し、彰義隊の屯所へ連行されるのを拒否して戦闘になり、薩摩藩兵1人が斬殺されたが、彰義隊士2人を討ち果たし、6人に手傷を負わせた。彰義隊の応援が大勢駆け付ける中、残った薩摩藩兵2人は囲みを掻い潜って駒込大観音の前まで辿り着いたが、深手を負っており追手が迫っていたので、薩摩藩兵1人が切腹し、もう1人の藩兵も切腹しようとしているところを彰義隊士に鉄砲で射殺された。
- 同午後6時頃、体調不良で隊列から遅れた肥前藩士2人が、上野北大門町を駕籠に乗って通りかかったところ、突如80人ほどの何者か分からない集団に斬りかかられ、止むを得ず応戦した。肥前藩士1人が斬殺され、もう1人の藩士は深手を負って午後9時頃に藩邸へ辿り着いた。
- ^ a b c d e 小川潔(東京学芸大学名誉教授)上野彰義隊、歴史伝える墓守◇徳川慶喜の助命求め敗戦、生き残りの一族「しるし」継ぐ『日本経済新聞』朝刊2023年4月25日(文化面)2023年4月30日閲覧
- ^ “散った若者へ思いはせ 幕末の彰義隊 15日に150回忌法要”. 『東京新聞』夕刊2017年5月11日. 2017年5月18日閲覧。
- ^ “上野戦争 15日で150年 「彰義隊」慰霊で節目の法要 宗派超え都内5寺参加へ”. 毎日新聞ネット版2017年5月14日. 2017年5月18日閲覧。
- ^ 彰義隊鎮魂へ 子孫の会/来月シンポ「本当の姿知ってほしい」『読売新聞』朝刊2018年11月6日(都民面)。
- ^ 加来, pp. 150–151.
- ^ 加来, pp. 163–164.
彰義隊
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忠宣は慶応4年(1868年)2月20日、駿府町奉行を旧幕府より罷免された後、彰義隊に加わる。江戸の警備を担っていたものの賊軍とされ上野の寛永寺に立てこもり官軍と戦う。 上野戦争の終盤、根本中堂前の最後の決戦時に忠宣は残り100名の彰義隊を引き連れ、東照宮の旗を持ち官軍に立ちはだかるも、忠宣は額に砲弾を受け倒れる。 これを見て残った彰義隊は3人(天野八郎、新井鐐太郎、紀伊守家来の常助)だったという。
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