トルファン【Turfan】
高昌区
トルファン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 05:04 UTC 版)
トルファンは、天山南道(西域北道)の東方に位置し、タリム盆地とは別に独立した盆地を形成している。漢語では吐魯番と書き、古代の車師国、高昌国にあたる。トルファン地方は標高が海抜ゼロメートルよりも低い特異な地形で、盆地底部のアイディン湖の水面の標高は海面下154メートルに達する。この地は降水量がきわめて少なく、風が強く、夏は酷暑で冬は寒いという、厳しい気象条件のもとにある。しかしながら、この地は天山北路と南路の分岐点にあたる東西交易路の要衝であることから、歴史上さまざまな民族や国家がこの地の支配権をめぐって争った。紀元前2世紀から紀元後5世紀まで、当地には車師(車師前国)というオアシス国家があり、交河城(ヤールホト遺跡)を本拠としていた。紀元前1世紀には前漢が当地に入植し、軍事要塞を築いた(後の高昌故城)。その後6世紀初頭からは甘粛出身の一族である麹氏が当地を支配した(麹氏高昌国)。この国は約140年間存続したが、640年唐によって滅ぼされた。唐は当地を西州と改称し、安西都護府を置いて西域経営を開始した。安西都護府はその後クチャに移ったが、トルファン地区の国際的重要性はその後も変わらなかった。9世紀にはウイグル族がこの地に移住し、高昌回鶻(天山ウイグル王国)を建てる。 トルファン周辺にはカラホージョ(高昌故城)、交河故城、アスターナ古墓群、ベゼクリク千仏洞などの都城跡、古墓、石窟寺院が残されている。カラホージョ(高昌故城)は、内城が一辺約1キロメートル、外城が一辺約1.5キロメートルの方形プランの都城跡である。その起源は紀元前1世紀の前漢時代にさかのぼり、唐の支配下で西州と呼ばれた時期を経て、高昌回鶻の時代まで存続した。仏教寺院址のほか、景教(ネストリウス派キリスト教)の絵画、マニ教の経典など他宗教の遺物も出土している。アスターナは故城の北に位置する古代の埋葬の地で、3世紀から8世紀に至る古墓が見出されている。乾燥した気候のため、ここに埋葬された遺体はミイラ化し、出土品にも一般の遺跡では残りにくい絹製の染織品、紙に描かれた絵画などの有機性の遺物が多くみられる。日本の東京国立博物館とMOA美術館にある、樹下人物を描いた紙絵はアスターナ出土で、同じ墳墓から出土したものが別々のルートで日本にもたらされたものである。 この地区を代表する遺跡としてベゼクリク千仏洞がある。千仏洞はトルファンの東方50数キロメートルに位置し、ル・コックらのドイツ隊が調査した40窟のほか、上流に位置するものを含めると80窟以上を数える。これらの石窟は古くは6世紀から造営が始められているが、現存する壁画の多くは9 - 10世紀にウイグル人によって描かれたものであり、14世紀、元朝の頃に放棄されたものとみられる。窟は石窟のほか、一部に日干煉瓦で築いたもの、石窟と日干煉瓦窟を接合したものがある。ベゼクリクの仏教壁画は、ドイツ隊が「誓願図」と名付けた、この地特有の主題によるものが多いのが特色である。誓願図とは、仏が前世の修行の功徳によって、来世に仏となる約束を授かるという主題で、構図は中央に仏立像をひときわ大きく表し、その周囲に菩薩、天部、比丘、王、婆羅門などの像を表すものである。ウイグル時代の壁画には、寄進者であるウイグル人の貴人男女を表したものもある。なお、ベゼクリクの壁画は、ル・コック率いるドイツ隊によって大量に持ち出され、現地にはほとんど残っていない。 高昌故城 ベゼクリク千仏洞 ウイグル貴人女子 ベゼクリク千仏洞 ウイグル人貴人男子ベゼクリク千仏洞 マニ教経典 カラホージョ出土 ウイグル貴人絵幡 カラホージョ出土 胡服美人図 アスターナ出土 新疆ウイグル自治区博物院 樹下美人図 アスターナ出土 MOA美術館
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