ネストリウス‐は【ネストリウス派】
ネストリウス派
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ネストリウス派(英語: Nestorianism, ギリシア語: Νεστοριανισμός)、または東シリア教会は、古代キリスト教の教派の1つ。コンスタンティノポリス総主教ネストリオス[注釈 1]により説かれたキリスト教の一派で、東方教会(東方諸教会)に含まれる。431年のエフェソス公会議において異端認定され、排斥された。これにより、ネストリウス派はサーサーン朝ペルシア帝国へ亡命し、7世紀ごろには中央アジア・モンゴル・中国へと伝わった[1]。唐代の中国においては景教と呼ばれる。のちにはイラクを拠点とする一派アッシリア東方教会などが継承した。
注釈
出典
- ^ 日本人として学んでおきたい世界の宗教呉善花、PHP研究所, Jul 4, 2013
- ^ Hogan, Dissent from the Creed. pages 123–125.
- ^ 浜田華練「文庫版解説」389頁, 森安達也『東方キリスト教の世界』ちくま学芸文庫, 2022.
- ^ 高橋英海「アッシリア東方教会」, 三代川寛子『東方キリスト教諸教会 研究案内と基礎データ』明石書店, 2017, 323-4頁。
- ^ 高橋英海「アッシリア東方教会」324頁。
- ^ 「イスラーム国家における異教徒統治制度史の研究」研究成果の概要国立情報学研究所、平成22年3月7日
- ^ 中世思想原典集成(後期ギリシア教父・ビザンティン思想)、上智大学中世思想研究所‖編訳・監修、平凡社、1994.8
- ^ プロテスタント教理史、渡辺 信夫、キリスト新聞社、2006.6
- ^ 古代キリスト論の歩み ハンス・ユルゲン・マルクス。
- ^ ザビエル宣教と霊魂不滅の問題根占献一、学習院女子短期大学紀要第34号 1996.12.25
- ^ 『隠された十字架の国・日本―逆説の古代史』 ケン・ジョセフ 徳間書店など
- ^ 泉武夫 「景教聖像の可能性 --栖雲寺蔵伝虚空蔵画像について--」『國華』 第1330号第112編第1冊、2006年8月、所収。
- ^ 東京新聞 2010年9月27日 「マニ教『宇宙図』国内に 京大教授ら世界初確認」
- ^ [1]
- ^ 吉田豊 「寧波のマニ教画華 いわゆる「六道図」の解釈をめぐって」、Zsuzsanna Gulasci/田中健一・柳承珍訳 「大和文華館マニ教絵画にみられる中央アジア来源の要素について」(共に『大和文華』第119号、2009年2月、所収)。
- 1 ネストリウス派とは
- 2 ネストリウス派の概要
- 3 東洋への伝播
- 4 脚注
ネストリウス派(景教)
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「唐代三夷教」の記事における「ネストリウス派(景教)」の解説
詳細は「ネストリウス派」および「大秦寺」を参照 ネストリウス派は、コンスタンティノポリス総主教のネストリオスにより説かれたキリスト教の教派の1つである。この教派は、431年、エフェソス公会議において異端として排斥されたため、宣教の中心を東方へ移動し、シリア、ペルシア、アラビア、南インドなどで布教した。 中国へは、太宗の時代の635年(貞観9年)にペルシア人司祭「阿羅本」率いる一団の宣教師によって伝えられた。太宗は、その宣教を許し、3代高宗の時代になると、阿羅本は「鎮国大法主」という高い地位に封ぜられ、地方の州にも景寺(教会)を建てるよう詔勅が下された。中国では「景教(けいきょう)」と表記されたが、景教とは中国語で「光の信仰」という意味であり、景教教会は当初「波斯(ペルシア)寺」のちに「大秦寺」の名で各地に建立された。景教はまた、「ミシア(Missiah 救世主)教」とも呼ばれ、「彌尸訶」「彌施訶」「彌失訶」などの字があてられた。 当初、唐の朝廷は皇族も含めた支配層が鮮卑や匈奴などの北族的要素を濃厚に有したこともあり、景教や仏教など非中華地域由来の宗教に対し寛容で、これらの信仰を保護した。698年(聖暦元年)、高宗の皇后であった武則天(則天武后)の仏教偏重政策により一時衰退したが、9代玄宗の時代には、寧王であった李憲ら五王が参拝し、庇護されるようになった。742年(天宝元年)には、玄宗が大将軍で宦官であった高力士に命じ、高宗・玄宗ら五代皇帝の御真影を寺に安置させ、また絹百匹を賜って祭るように指令しており、745年(天宝4年)には大秦国(東ローマ帝国)から、高僧として知られる佶和(ゲワルギス)が長安を訪れた。玄宗はアブラハムやパウロと称される17人の神職に命じ、ゲワルギスとともに興慶宮において景教式の大法会を執行させた。このような玄宗による景教保護には、景教による王権の権威づけといった意図も考えられる。 ネストリウス派は、8世紀後半の代宗(11代皇帝)の時代にも庇護された。このような隆盛を受けて、12代徳宗治下の781年(建中2年)には、有名な「大秦景教流行中国碑」が建立されている。 祆教とは異なり、景教には多数の中国人信者がいたことが判明している。景教は当初ペルシア人によって伝えられたものであることから多分にペルシア化したキリスト教であったが、漢訳景教経典も遺存していることから、その教義の全貌も解明されてきている。それによれば、景教は仏教や道家(老子や荘子の思想)のことばも採用し、さらに、皇帝には忠を、親には孝を説くなど儒家の要素もあって、多分に中国化している。 しかし、唐代末期の845年(会昌5年)には、18代皇帝の武宗による「会昌の廃仏」(仏教の立場からは「三武一宗の法難」のひとつとされる)など、唐王朝を伝統的中華王朝に位置づける意識が強まって、弾圧の対象となった。 ネストリウス派は、布教によって、のちにモンゴル帝国を構成することとなる北方の遊牧民にも広がり、チンギス・カン一族のなかにも、また、カン家の姻族にあたる諸氏にも熱心な信者を獲得し、元の時代には再び中国本土でも広く信者を得た。錦江や杭州、揚州などでは会堂もひらかれた。しかし、モンゴル帝国中枢の諸集団は、西方ではイスラームとトルコ系言語を受容してテュルク化していった一方、東方ではチベット仏教を篤く信仰し、これを保護したため、ネストリウス派の信仰はしだいに衰亡、消滅していった。
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ネストリウス派
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4世紀のネストリウス派をカリスマ運動の先駆とし、カリスマ運動こそネストリウス派の再興であると手束正昭によって見なされている。
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ネストリウス派
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アッシリア東方教会 ネストリウス派に起源を持つ。主にイラク、トルコに分布し、アメリカにも多い。東方典礼カトリック教会であるカルデア典礼カトリック教会とは別のもの。ネストリウス派はカルケドン公会議でも改めて主流派から異端とされたものの、カルケドン公会議以前のエフェソス公会議で既に異端とされていたため、当教会を非カルケドン派という呼称のカテゴリには含めないことがある。
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