高昌とは?

辞典・百科事典の検索サービス - Weblio辞書

初めての方へ

参加元一覧


用語解説|動画|本・雑誌|文献|全文検索
Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 国語辞典 > 高昌の意味・解説 

三省堂 大辞林

三省堂三省堂

こうしょう かうしやう 【高昌】

中国天山山脈東側トルファン栄え漢人植民国家(450-640)。前漢以来移住した漢人車師国を倒して建国498年には麹嘉(きくか)が王となり、唐に滅ぼされるまで麹氏支配


ウィキペディア

ウィキペディアウィキペディア

高昌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/11/23 02:49 UTC 版)

高昌国
車師 460年 - 640年 西州 (新疆ウイグル自治区)
高昌国の位置
5世紀の西域諸国と高昌国の位置(右端)。
公用語 漢語中国語
首都 交河城
460年 - 4??年 闞伯周
???年 - 52?年 麴嘉
602年 - 613年 麴伯雅
640年 - 640年 麴智盛
変遷
柔然によって建国 460年
唐によって滅亡 640年

高昌(こうしょう、拼音:Gāochāng、ウイグル語:Qara-hoja、khocho)は、中国南北朝時代から代にかけて現在の新疆ウイグル自治区トルファン地区に存在したオアシス都市国家。代にはウィグル語「Qara-hoja」の音訳から「哈拉和卓」「火州」「霍州」などとして記録されている。

目次

歴史

漢代から晋代

この地には古くから姑師という国があり、武帝(在位:前141年 - 前87年)の時代に姑師国を降して車師前後王国および山北六国に分割された。宣帝(在位:前73年 - 前49年)の時に派遣された携家がここに軍を屯田させ、耕作と守備を行った。元帝(在位:前48年 - 前33年)の時に「地勢敞,人庶盛」と言われた「高昌壁」(あるいは高昌塁)と呼ばれる軍事基地が作られた。ここに漢は戊己校尉を置き、高昌を管理した。

続く後漢西晋の時代にも同様の制度が踏襲されている。ただし一時期涼州敦煌郡に属していたこともある。

五胡十六国時代

327年五胡十六国時代前涼支配下で、戊己校尉である趙貞が謀反を起こしたため、張駿がこれを鎮圧し、その機会に高昌郡が設置され、いくつかの県に分けられた。その後、前秦後涼西涼北涼の支配を経る。

北朝時代

北魏時代の高昌と周辺国。

北魏太武帝(在位:423年 - 452年)の時代、闞爽という者が高昌太守になる。太延中(435年 - 440年)、太武帝は散騎侍郎の王恩生らを高昌郡に遣わしたが、柔然に捕えられてしまう。太平真君中(440年 - 451年)、闞爽は沮渠無諱に襲撃され、沮渠無諱が高昌郡を奪って太守となった。沮渠無諱が死ぬと、弟の沮渠安周が立つ。

和平元年(460年)、高昌郡は柔然に併合されると、柔然によって闞伯周が高昌王に立てられ、ここで初めて高昌国が成立する。

太和477年 - 499年)の初め、闞伯周が死去したため、子の闞義成が立った。1年あまりして闞義成は従兄の闞首帰に殺され、闞首帰が自立して高昌王となる。

太和5年(481年)、高車王の阿伏至羅が闞首帰兄弟を殺し、敦煌人の張孟明を高昌王に立てた。後に張孟明も国人に殺されたため、馬儒が立てられて高昌王となり、鞏顧礼・麴嘉をもって左右長史とした。

太和21年(497年)、馬儒は司馬の王體玄を北魏に遣わして奉表朝貢させ、挙国内徙を求めた。孝文帝(在位:471年 - 499年)はこれを納め、明威将軍の韓安保に千余騎を率いさせて高昌に赴かせた。羊榛水に至り、馬儒は麴嘉,鞏顧礼に歩騎1500を率いさせて韓安保を出迎えさせた。しかし、高昌から400里の地点でも韓安保が来なかったため、鞏顧礼らは高昌に帰り、韓安保もまた伊吾に帰った。韓安保は韓興安ら12人の使者を高昌に送り、馬儒はふたたび鞏顧礼の将でその世子である鞏義舒を遣わして韓安保の使者を迎えた。しかし、高昌旧人は本土に愛着があり、東遷を願わなかったため、馬儒を殺して麴嘉を立てて王とした。

麴氏高昌

麴嘉は高昌王に即位すると、柔然可汗の那蓋(在位:492年 - 506年)に臣従した。そのため、鞏顧礼と鞏義舒は韓安保に随従して洛陽に至る。

柔然の始平3年(508年)、柔然可汗の伏図(在位:506年 - 508年)が高車王の弥俄突に殺されると、麴嘉は高車に臣従した。また、麴嘉は嚈噠(エフタル)に攻撃されて王位不在となった焉耆国の民衆から焉耆王になるよう頼まれたので、その第二子を派遣して焉耆王として焉耆国を統治させた。

永平元年(508年)、麴嘉は兄の子である左衛将軍で田地太守の麴孝亮を京師(洛陽)に遣わして参朝させ、内徙を求めた。そこで北魏は龍驤将軍の孟威に涼州兵3千人をつけてこれを迎えさせた。麴嘉はその後も何度か遣使を送っては珠像・白黒貂裘・名馬・鹽枕などを献上した。

永平3年(510年)、麴嘉は北魏に遣使を送って朝貢し、宣武帝(在位:499年 - 515年)はまた孟威を遣わしてこれを労わせた。

延昌中(512年 - 515年)、北魏によって麴嘉は持節・平西将軍・瓜州刺史を拝命、泰臨県開国伯に封ぜられた。

熙平516年 - 518年)の初め、遣使朝献。神亀元年(518年)冬、麴孝亮はふたたび内徙を求めたが、朝廷は許可しなかった。

正光元年(520年)、孝明帝(在位:515年 - 528年)は假員外将軍の趙義らを麴嘉に遣わした。麴嘉は朝貢不絶で、また遣使奉表し、自以辺遐、不習典誥、五経,諸史の貸出を求め、あわせて国子助教の劉燮を博士とすることを求めたため、孝明帝はこれを許した。

麴嘉が死ぬと孝明帝は彼に鎮西将軍・涼州刺史を贈った。また、子の麴堅が立ったが、後に関中賊乱が起きたため、使命は遂に途絶える。

普泰の初め(531年)、麴堅が遣使朝貢したため、北魏は除平西将軍・瓜州刺史・泰臨県伯とした。また加えて衛将軍とした。

永熙中(532年 - 534年)に至り、特除儀同三司、進んで郡公となる。後に遂に隔絶。

西魏大統14年(548年)、文帝(在位:535年551年)は詔で麴堅の世子である麴玄嘉を高昌王とした。恭帝2年(555年)、またその田地公である麴茂を高昌王とした。

北周武成元年(559年)、その王は遣使を送って方物を献上した。保定561年 - 565年)の初め、また遣使来貢。

隋代

隋代の高昌と周辺国。

開皇10年(590年)、突厥が高昌の4城を破ったため、2千人が中国に亡命した。

麴堅が死に、子の麴伯雅が立つ。麴伯雅の大母はもと突厥可汗の娘であったため、麴堅が死ぬと突厥の風習に従い、レビラト婚[1]をしようとしたが、麴伯雅がしばらく応じなかった。そのため、突厥が高昌に迫って無理やりレビラト婚をさせた。

煬帝(在位:604年 - 618年)が即位すると、諸蕃を引致した。

大業4年(608年)、高昌は初めて隋に遣使を送って貢献し、明年(609年)には麴伯雅自らが来朝、そのまま高句麗遠征(麗隋戦争)に従軍した。遠征後、麴伯雅は左光禄大夫,車師太守を拝命し、弁国公に封ぜられ、隋宗室女の華容公主を娶った。

大業8年(612年)冬、麴伯雅は隋より帰国する。時に麴伯雅は以前から鉄勒(テュルク)に臣従していたため、高昌国には鉄勒の重臣が常駐しており、商胡の往来者から税を徴収していた。

唐代

唐代の高昌と周辺国。

武徳2年(619年)、麴伯雅が死に、子の麴文泰が後を継いだ。武徳7年(624年)、麴文泰は雄雌の拂菻狗を献上した。

太宗(在位:626年 - 649年)が即位すると、麴文泰は玄狐裘を貢納したため、その妻の宇文氏に花鈿一具を賜った。宇文氏はふたたび玉盤を貢納した。

貞観4年(630年)冬、麴文泰が唐に入朝すると、太宗は宇文氏に国姓の李姓を賜い、常楽公主に封じた。

時に西域諸国の来朝貢者はすべて高昌を経由して唐に赴いていたが、後に麴文泰によって唐への道を封鎖されてしまい、唐への朝貢ができなくなった。伊吾は先に西突厥に臣従していたが、ここに至って唐に内属したため、麴文泰は西突厥の葉護(ヤブグ:官名)と連結し、伊吾を攻撃しようとした。そこで太宗はその大臣で冠軍の阿史那矩を召して入朝させ、議事させようとした。麴文泰は阿史那矩を遣わさず、その長史の麴雍を遣わして謝罪に行かせた。

麴文泰は西突厥の乙毗設と焉耆の3城を撃破し、その男女を捕虜にして去った。焉耆王は上表してこれを唐に訴えたため、太宗は虞部郎中の李道裕を遣わしてその状を往問した。

貞観13年(639年)、薛延陀可汗の夷男が高昌討伐を願い出たため、太宗はこれを許可した。一方で太宗は麴文泰に最後の呼びだしをかけたが、麴文泰は病と称して呼び出しに応じなかった。そこで太宗は吏部尚書の侯君集を交河道大総管とし、左屯衛大将軍の薛万均及び突厥と契苾の衆を率いさせ、歩騎数万衆で高昌討伐を行った。

貞観14年(640年)、麴文泰は唐の大軍が迫ってくるのを聞くと発病して死んだ。そのため、子の麴智盛が高昌王に即位したが、既に侯君集の兵が柳谷にまで迫り、田地城が陥落したため、麴智盛は侯君集に書を送って「罪があるのは父であり、私ではない」と弁明した。しかし、侯君集は聞き入れず、首都である交河城に迫り、衝車や拋車といった攻城兵器を使って攻城を始めた。投石によって城内は大いに混乱したため、麴智盛は遂に城を出て降伏した。これによって高昌国の3州,5県,22城は唐の勢力下に入った。そこで太宗はこの地を西昌州とし、まもなく西州に改め、安西都護府を置いた。

初め、西突厥の欲谷設(ユクク・シャド)は麴文泰と通和しており、緊急時にはいつでも援軍が出せるように葉護を可汗浮図城に駐屯させていた。しかし、侯君集の兵が迫ってくるのを聞いた欲谷設は懼れて西走し、救援に来なかった。後に唐はその地をもって庭州とした。

吐魯番(トルファン)に至るまで

756年に起こった安史の乱の後、唐の支配力が低下し、840年には漠北(タクラマカン砂漠北部)の天山ウイグル王国の支配下となる。建隆年間、高昌のウイグルが朝貢している。永楽年間には中国側から火州と呼ばれ、1409年1413年にも朝貢している。1414年には明の陳誠がこの地に派遣されている。明の英宗年間に吐魯番に併合された。

政治体制

君主である高昌王を頂点に以下の官職がある。

  • 令尹(1名)…中国の相国(宰相)にあたる。
  • 公(2名)…交河公と田地公の2人がおり、高昌の王子が封ぜられる。
  • 左右衛
  • 八長史
    • 吏部長史
    • 祠部長史
    • 庫部長史
    • 倉部長史
    • 主客長史
    • 礼部長史
    • 民部長史
    • 兵部長史
  • 将軍
    • 建武将軍
    • 威遠将軍
    • 陵江将軍
    • 殿中将軍
    • 伏波将軍
  • 八司馬…長史の副官である。
  • 侍郎
  • 校書郎
  • 主簿
  • 従事
  • 省事

国の大事は王が決め、小事は世子及び二公が決めるが、書記を立てない。曹府がなく、ただ牙門に集まって衆事を評議する。諸城には戸曹,水曹,田曹がある。城ごとに司馬,侍郎を派遣して検校を監視し、名を城令とする。


  1. ^ 遊牧騎馬民族に古くからある結婚スタイルで、夫に先立たれた妻が夫の兄弟もしくは息子に嫁ぐこと。


「高昌」の続きの解説一覧




高昌に関連した本


高昌のページへのリンク
「高昌」の関連用語
高昌のお隣キーワード
モバイル
モバイル版のWeblioは、下記のURLからアクセスしてください。
http://m.weblio.jp/
» モバイルで「高昌」を見る
_ _   


高昌のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
三省堂三省堂
Copyright (C) 2001-2012 Sanseido Co.,Ltd. All rights reserved.
株式会社 三省堂三省堂 Web Dictionary
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの高昌 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2012 Weblio RSS